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地球。

人類が自分たちのために穢し、やがて自分たちの積み上げてきたものによって追放された水の星。

その故郷への愛は、太陽系を手にした今でも変わらないのか、人々はこの地に置き忘れた物語のことを今でも想っている。

人間とは言葉だ。言葉だけが人間を人間たらしめている。それは言語だけに限らない。

肌と肌の触れ合い。目と目の触れ合い。あらゆる関係性。それは言葉だった。物語だった。

人間たちは今でもこうして、あらゆる言葉によってのみ繋がっている。

そして、言葉には偽物などなかった。

言葉がそこにある限り、どんな嘘であれ言葉は言葉だった。

たとえ魂が幻想だったとしても、リディの言葉だけは本物だった。リディの話す言葉だけは新たな物語となり、誰かに受け継がれていくのだろう。

エルは数時間の航行を経て、ふたたび虹色に輝く地球の姿を見ていた。

これがかつては青い星だったとは信じられないほど、まばゆく色を変える球体。じっと見つめているだけで、大きな魂に魅入られてしまいそうな気分だ。

リディとも、これで最後の別れになるかもしれない。

話をするようになったのはつい最近だが、それでも随分といろいろな話をして、いろいろな経験をした。

リディの好きな景色も、好きな色も、好きなジョークも知っている。

見た目だけでなく、心まで人間のようになった彼女を、儲け話のために捨て駒にしようとしている自覚はあった。

それでも俺は、自分のためだけにこいつを利用しなければいけない……

いや、それは違う。

エルは自分の気持ちを今さらになって理解しかけていた。

俺はただ、リディとまた話がしたくて地球に来ただけなのかもしれない。

----これがきっと最後のダイブになる。

自分でも、はっきりとそのことを理解していた。

今回も成果を上げられなければ、今後の活動は不可能になるだろうし、もし仮にこれが上手くいって莫大な利益を得られれば、これ以上地球に来て物語を漁る必要などない。

どちらにせよ、これ以上リディを地球に下ろす意味は無いのだ。

お前にもずいぶん無理をしてもらったよな、リディ。

もう少しだけ、俺のわがままのために働いてくれ……

エルはモニター上で、自分の入力した降下目標地点に間違いがないことを確認する。

リディのステータスを表示し、各パーツが正常に機能することを確かめると、エルはダイブの開始コードを走らせた。

画面上に表示された、あらゆるウィンドウが目まぐるしく情報を打ち出し、銀河のように輝き出す。ひとつひとつの文字がつながり言葉を編み、言葉は文脈を生み文章を形作る。

かすかに振動を伴いながらポッドの後部パーツが動き、リディを射出するための準備をはじめる。

あとはすべて、リディに任せるしか無い。

大丈夫だ。

リディに間違いなどない。リディはいつでも完全だったし、俺はいつでも不完全だった。

不完全な俺に出来るのは、完全なリディを信じることだけだ。

「そうだよな、リディ」

エルは、答えてはくれないと知りながら彼女に問いかける。

俺は出来ることをすべてやった。少なくとも自分では、完璧な計画を立てたと思う。

リディに持たせられるものはすべて持たせた。

「俺はもう、お前にしてやれることは全部やったんだよな?」


「ばーか」


エルの呟きを、リディは即座にそう否定した。

彼は驚き、目の前のモニターを覗き込む。

聞き間違いではなかった!

リディは確かにいま、人間のように返事をした。

エルはなにか言おうとしたが、リディはすでに打ち出され、地球へと降下している真っ最中だった。

「リディ、お前なのか!? いま返事をしたのは!」

何故だ? リディはまだ地球には辿り着いていない。それなのに、あんな声で俺に答えた。なぜ? 何のために?

大気圏に入ったリディから返答は無い。通信が混乱している。ポッドのカメラで追跡させ、目視で彼女の姿を確認する。

両手を広げて空を落ちていく彼女を見て、エルは悲鳴を上げた。

「リディ! お前はどこに落ちるつもりなんだ!」

----リディの降下したポイントは、エルが決めた場所から大きく逸れていた。


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先程まで、あらゆる機器が音を鳴らしていたコクピットが今はやけに静かだった。

降下シーケンスは終了した。

モニターの端に浮かび上がるメッセージウィンドウは、リディの全てのステータスが正常であることを示している。

声はまだ届かない。

通信機能に不具合のあるわけではないので、単にマスターの言葉を待っているという事なのだろう。

なんの音もしない空間で、エルは虚空を見つめていた。

エルが数日を費やして練り上げたプラン。

ユーラシア大陸北西、多くの都市が密集していた地域に降下し、約12日間をかけて物語を集める。

その計画の全てが台無しになった。

----リディは今、北アメリカ大陸南部、ユカタン半島の南端部にいた。

いかに高性能のアンドロイドとはいえ、専用のパーツも無しに海を超えて大陸を移動するなど不可能だった。

「……いつまでそうして黙っているつもりですか。普段の数倍とはいえ、私のバッテリー容量だって無限ではないんですよ」

マスターからの指示がないことに苛立つリディの声が聞こえて来る。

こいつには今の状況が分かっていないのか?

リディなら俺が決めたプランの全てを参照できるはずだ。今の状況が、俺たちにとってどれだけ絶望的かってことくらい、理解できないほうがおかしい。

リディは完璧な計算のとおりに稼働する機械だったはずだ。

それがなぜ、今に限ってこんな失敗をするんだ!

もしかして、金を惜しんで整備を怠った部分が駄目になっていたとか? やっぱり、交換していなかった眼球パーツが悪さをした?

眼球はそれ自体が重要なパーツであるが、リディのコントロールを司る脳に近いという点でも特にデリケートな扱いの必要なものだった。汚染された眼球が、リディの脳まで侵蝕してしまっているとしたら。

エルはあらゆる可能性を考えたが、そうしていたところで、彼の最後の希望を乗せたダイブが失敗に終わったという事実に変わりはなかった。

エルは、リディの着地した場所をあらためて確認する。

そこは、彼の知る人類の歴史ではほとんど記録も残されてない、まだ見ぬ土地の真ん中であった。

「さあ、マスター。指示を。私の向かうべき場所を指し示して」

「……今さらどこへ向かわせろと言うんだ。こんな場所に。なんのデータも無いんだ。向かうべき場所なんて」

「データが無ければ行き先も決められないなんて。あなたも機械に成り下がったつもり?」

リディは明らかに不機嫌そうな態度を隠さずに言った。

「決められないなら、適当にダーツでも投げて決めればいいでしょうが。自分で何も決められない人間が、データに頼って自分の行き先をコントロール出来たつもりになる。正直、呆れました」

エルはリディとの通信を断ち切る。普段では、マスターが人形との交信を断つなどあり得ないことだったが、構わなかった。

とにかく一人になりたかった。

目の前のモニターには今も、虹色に輝く地球の姿が映し出されている。

エルはその忌々しい星を蹴り上げて見せる。頑丈なモニターはびくともしなかった。

「……こっちが指示したことすら満足に出来ない奴が」

「ここで辞めてしまうの?」

今日のリディは何なんだ。

いつものあいつなら----いや、アンドロイドであれば絶対にしないようなミスを犯して、それをひと言、謝ろうという態度すら見せない。

俺の全部を滅茶苦茶にしておいて、これ以上なにを言っているんだ。

返事をしないエルに対して、わかりやすくため息をついてからリディはまた話しかける。

「……どうせ、これで最後なんでしょう? 私とここに来るのも。そのためにあなたは長い時間をかけて、私を見送ったはず。

さあ、私を動かして。まだ全ての希望が無くなったわけじゃない。体に無理させてでも、できる限り広範囲を探索してみます」 

エルは顔を上げる。

今回が最後のダイブになることは、リディには伝えていない。単なる道具に過ぎないリディに、そんなことを伝える必要はないからだ。

「驚いたな。リディはそんな事情まで把握しているのか?」

「一般には知られていませんが、私たちは産まれた時から、身の回りの音と映像を常に記録しています。もちろん、その情報が悪用されることは通常あり得ませんが。地球に降りてからそのログを確認すれば、私の近くでされていた会話の内容は把握出来ます。あなたの悪口とかもね」

「それはすまなかったな。まさかお前が、こんな馬鹿なミスをする機械だなんて思ってなかったんだ。忘れてくれ」

「忘れませんよ、永遠にね。それもすべて、私にとっては思い出だから」

エルは交信こそ絶たなかったが、また言うべき言葉を見失い、黙ってリディから意識を逸らした。

長い沈黙の時間だけが続く。

リディはなおも、エルの言葉を待つ。

きっとこのまま、エルが何も言わなければ、リディは永遠にここで待ち続けるのだろう。主人である人類の居なくなった地球で一人きり。

「……お前の好きにしろ。全部任せる。

今のお前は人間みたいなもんだ、自分で動けるだろ。それで……とにかく情報を集めろ。よっぽど面白いものでも見つかれば、少しは状況も良くなるはずだ」

マスターの言葉を受け、リディはアイドル状態になっていた自らの身体を叩き起こす。

取り付けられた各部のパーツが発光し、脚部を展開させブースターを駆動。

それから、バックパックの高出力センサーを起動した。機能を最大まで発揮すれば、200キロ先にある缶詰の成分表記まで読み取れる代物だ。当然負担も大きいが、気にする必要も無いだろう。

リディは北に大きな重力異常を検知した。プシュケー濃度も高い。

そちらへ向かおう。

リディはかりそめの魂を持ってひとり微笑む。

不思議と、心が踊った。

きっとこの旅は、私たちにとって一番の物語を紡ぐことでしょう----

その時の二人が知ることは叶わなかったが、それは地球時代において、チクシュルーブ・クレーターと呼ばれた曰く付きの場所であった。

目的地へ近づくにつれ、怪異はより強大になりリディを襲った。

コストは低いが火力のない武装ばかりを積んだのが裏目に出た。エネルギー消費が少なく、消耗もしない武器とはつまり、リディが自分の体術のみで取り扱う武器のことを意味する。両手に握りしめたブレードは刃こぼれはしないが、機械的にパワーを生み出さないただの刃物にすぎない。この武装は結果的に、リディの身体、特に関節部分に負担を掛け続けた。

背中の大刀は駆動すれば刃が振動し大きな破壊力を生むが、こちらは予備が無い。こんなところで使うには危険すぎる。

背中に大きなバックパックを背負ったまま、リディは優雅な舞を舞うようにブレードを振るった。彼女の通った道は、獣たちの血で染め上げられていく。

しばらく寝転がっていたものの、ふとモニターを確認したエルは、リディの消耗が恐ろしく早いのに気がついて驚いた。

最初は、やはりリディのパーツが故障し機能が低下しているのだと考えた。しかし、信頼のおける職人が整備し、自身でも慎重に調整を重ねたリディはいつも以上に調子が良い。

この地域のプシュケーが異常に活発であることは明らかだ。エルは、こんな辺境にリディを向かわせたことが無かったので、単にこの地域に特有の現象なのだと考えることも出来たが、それにしてもこの数値はおかしい。

このままリディを進ませるわけにはいかなかった。これでは2週間どころか、今日中にリディが壊れてしまっても不思議ではない。

それはリディにも、もちろん分かっていた。危険を察知し、必要であれば撤退を選ぶことも出来る。にも関わらず、今のリディは普段よりもずっと速くブースターを吹かし、よりプシュケー濃度の濃いほうへと突き進む。

「リディ、報告しろ。何が起きている。消耗が激しい」

「さあね」

リディは恐らく今も交戦しているのだろう、金属の打ち付けられる音が何度もスピーカーから響いてくる。

「私に任せてくれるんでしょう?」

「……それとは別の話だ。これは異常だ。損耗が酷くなれば、物語の回収どころかお前の命すら危うい」

エルは、はっきり〈命〉と言った。もはやエル自身も認めていた。自分はリディのことを一人の人間として扱おう。もはや彼女はマスターの命令のためだけに動くロボットではないのだ。

「それを判断するのは私でしょう。問題はありません」

「そんなわけがあるかよ。自分のステータスくらい、いつでも確認できるだろ」

「私の魂は、そうは言っていませんが」

これほど反抗的なリディを見るのは初めてだったので、エルは訳が分からなくなっている。エルの全てをかけたダイブを成功させるために尽くしているとか、そういう話で無いのは明らかだった。

「リディ、教えてくれ。いったいお前の中で何が起きているんだ。降下にミスしてからのお前はおかしい……やっぱり、パーツが悪いのか? いったいお前は、何に取り憑かれているんだ?」

リディは、やはり答えない。黙ったまま、なおも襲い掛かる獣の群れに刃を突き立て、蹴り飛ばし、叩き潰す。

一瞬にしてリディの白い体が赤く染まり、次の瞬間にはまた白く輝いていた。

「どちらにせよ、これで終わりなんだから、どうでも良いじゃありませんか。

もし私が無事にあなたのもとに帰っても、そこにいるのは今の私じゃない、意志をもたない機械人形でしかないんですよ」

リディは、半ば諦めたような口ぶりでそう言った。

「ここで死ぬつもりか? お前が望むなら、俺はまた何度でも、お前を連れて地球に来てやる。約束する。だからそんな考えは捨ててくれ…」

エルはもう、先程のような無気力の状態から抜け出してしまっていた。

手元のコンソールを叩き、リディの制御コードを入力する。もちろん、今のリディにそんなものは通用しないのだが、エルが力を取り戻したのを確認できたためか、リディは少なくとも危険な戦い方は控えるようになった。

結局、リディが立て続けに襲い掛かる敵を殲滅し、安全と言えるポイントに到達したのは、最初の戦闘から27時間後になった。その間、エルもまたリディから目を離すことは無かった。

今回のリディは明らかに様子がおかしい。それにこの場所も、地球の他の地域とはまるで違う性質を示していた。

とにかくエルには、リディが無事に、目的地まで辿り付けるよう祈るほかなかった。

もはや二人の関係は、通常の人間と機械の在り方とは真逆の状態だった。

すべての主導権はリディにあり、エルはただ指示された通りに機器を操作する。

人間とは何なのだろう。意識とは何なのだろう。

今のリディを見ていると、その答えに少しだけ近づいていけるような気がした。

エルは自分の生活のことも立場も、全てを忘れて、ただリディだけを見ていた。

「……街が見えて来ました。変ですね、こんなところに」

夜になり、獣たちを起こさないよう徒歩で移動していたリディから通信が入る。

リディはすでに、レーダーで感知した目標地点の、ほぼ中心にたどり着いていた。

ここまでで、彼女は5本のブレードと、両手首のワイヤーアンカー、携帯用のレールガンと左腕の肘から先を失っていた。各部の関節も限界が近い。その他のパーツも、ダメージは無いが確実に霊障に蝕まれているはずだ。

足元に水溜りを見つけ、近づいて覗き込んでみる。月明かりに照らされて映り込む、自分の顔を見ると、右目の瞳が虹色に発光していた。

地球の意識……魂そのものが、自分に何かを語りかけようとしているように、リディは感じた。リディは、その意識に導かれるようにして、降下ポイントを逸らされ、ここまでたどり着いた。

これから私はどうなってしまうのだろう。

リディはひたすらに、それだけを考える。

私は、偶然に手に入れたこの魂を、心を手放したくない----

リディは水面に映る自分の顔を見つめる。

何の変哲もない、普通のアンドロイドの顔だ。シミひとつない、完璧な皮膚。計算されたフォルム。表情のほとんど乗らない口元。

「こちらでも映像を確認した。ここが目的地だと思っていいんだな?」

エルから返事が返ってくる。

リディの通信機能は自分の瞳に写った画像をそのままリアルタイムでマスターに送信することが出来るが、地球へのダイブ中は、汚染された瞳で見たものを送信するとマスターやポッドにも悪影響を及ぼす可能性があるため、基本的には録画したものを精査し、問題がないことを確認してから届ける方法が取られる。

リディは、石積みの高い塀に囲まれたその街を近くの丘から撮影し、観察していた。

広い街だが、それほど栄えていたというわけでもないだろう。周囲には他に街もないため、外部との交流のほとんど無い、閉鎖的な街であったはずだ。

最も賑わいがあった中心部には、まだ人工物の残骸が残っている。朽ちたレンガの壁にはネオンの跡が確認出来た。

さまざまな建物の内部もレーダーを併用して確認する。特別なものは何もない、ごく普通の街の風景だ。

「何か見つけられそうか?」

「いいえ。普通の街です。普通すぎるくらい……もう少し、街全体を探してみます」

西端に大きく開かれた街の門から中央にかけての大通り沿いに、人々が多く住んでいた形跡がある。ここが人々の生活の中心であったのは明らかだ。

他の部分は?

整備されていた形跡の多い街の西部に比べ、東側はほとんどが森だった。端はやはり、高い石垣に覆われ、通用門すら存在しない。

よほど外敵からの侵入を警戒していたとしても、街の外に出るための手段が西の門一つだけというのはおかしい話だとリディは思った。

これではまるで、防衛のためではなくて、誰かを街から出さないために作られた壁のようだ……

そう考えたところで、リディは東の森のなかに、ひとつだけ建物を見つけた。

精神を集中させて観察する。電子機器の類などはない。内部はほとんど朽ちていて、家具の類もほとんど全てが木製であったことが窺える。

「……何かを閉じ込めていた? あの街の一番奥に」

「それが、ここ一帯の異常の原因か」

「恐らく。ただ、それが何なのかまでは……誰か危険な人物を閉じ込めていたにしては、最低限の、金属製の檻や枷すら見当たらないのです」

それを聞いて、エルは考える。

あの街の中に、何か重要なものがあると考えて間違いないはずだ。

ろくに栄えてもいない街だが、それだけに珍しい物語が見つかるかもしれない。

当初の計画とはかけ離れているが、もし今までにないものが見つかれば、それでもかなりの儲けになるのは間違いない。

エルには少しだけ希望が見えてきた。

そうだ、結果さえ出せれば、別に地球のどこに行ったって構わないんだ。

まだ幸運は俺のことを見放してはいない。

……しかし、この街のことがほとんどわからないままで内部に入るのは危険だ。

ただでさえ、プシュケーの濃度が高く、凶暴な怪異が潜んでいる可能性もある。

今のリディで、それに対処し物語を回収できるとは思えない。まだ背中のバックパックには、虎の子の大刀を残してはいるが、左腕を失ったまま扱う場合は動きも鈍る。

かといって、ここで引き返してもう一度地球へ来ることが出来ないのは重々承知していた。

俺は絶対に、リディをあの街に行かせることになる。それ以外に選択肢はないのだから。

しかし、それがほぼ確実に、リディを死なせることになるのも理解はしていた。その決断を下すのは容易なことではなかった。リディがただの機械のままであったなら、こんなに簡単なことは無かったのに。

「……とにかく、情報を集めろ。出来る限りの準備はしておきたい」

リディは指示の通りに、街の地形をトレースしてエルへ送った。

エルは、平凡な人間の脳で出した考えがリディの役に立たないとは知りつつも、彼女の生存率を上げるために知恵を絞る。

何時間も話し合いを重ね、ようやくエルは納得した。結果がどうなろうと、今の自分にはこれしかないのだ。

リディは立ち上がる。

夜が明けようとしていた。東から眩い光が差し込んで、ひとり丘に立つリディの長い影を作り出した。

再び脚のブースターに火が点る。リディはひとり頷くと、一飛びに街の西側、今は大きな日陰になっている門のほうへと向かった。

後悔はない。とにかくやってみよう。

橙色に染まる世界は、リディの他に何も存在しないかのように静かだった。

澄んだ空気が、偽物の皮膚にとっても心地が良い。

昨日の戦闘が嘘だったかのように、なんの妨害もなくリディは街の入り口まで到着した。

おかしい。

さっきまで、あれだけ入念に街を観察していたというのに、実際に門を抜けて中に入ってみると、景色がまるで違う。

……いや、街を形作る構造物はリディの頭の中のデータと同じはずだ。

ただ、何かが違う。

まるで色彩が変化しているかのようだった。数十年ものあいだ放置されていたはずの街が美しく輝いているように見えた。

これも幻覚だ。

街の景観ごと変えてしまうほどの濃度のプシュケー。

身体中の擬似神経に突き刺さるような緊張感だった。集中して、周囲の様子を探るようにゆっくり歩き出す。

その時、視界の端で何かが動いたのに気づいて、リディはすぐに振り向いた。

道の向こう側に、ゆらめく光のようなものが見えた。

街の門を抜けた先の道は途中で緩やかに、斜めにうねっていき、その先は東からの陽射しの陰になっていて見えない。

腿に手をやり、音を立てないようにゆっくりとブレードを取り出す。

そのまましばらく警戒をしていたが、こちらに襲いかかってくる恐れは無いようだった。

リディはそちらへ向かって歩き出す。

周囲には、他に動くものの気配は無い。これだけ異質な空気を孕んでいるのに、怪異のひとつも襲ってこないというのはおかしい。先ほどまでは、何も無い道を進んでいてもあれだけ多くの怪異が湧いてきていたのだ。それが、リディが街の手前までやってきた頃からは一度も襲撃を受けていない。

リディは曲がり角のところまでやってきた。

この先は、中央の広場に続く大通りになっているはずだ。

奴らが待ち構えているとすれば、この先だ。

……周囲は恐ろしいほど静かだった。

リディの身体に震えるという機能はないが、彼女の中には間違いなく怖れと緊張があった。

心のない、完全な機械であれば何の迷いもないのに。

失敗するかもしれない。

それは間違いなく、私の死をあらわす。

体は砕け散り、二度と動くことはないだろう。

それなら心は? 今ものを考えているこの私はどこに行くのだろうか。

----リディは慎重に、曲がり角の向こう側へと踏み出した。

その先には、柔らかな光に包まれた、美しい街の広場だけがあった。

雑草のない、白い石畳。甘い香りをともなって百合の花びらの舞う青空。

清潔な水滴を天高く輝かせる、中央の噴水。

そして何より、魔法のように光る鱗粉を散らして飛び交う無数の蝶の姿がそこにはあった。

あたりを見渡す。

他には何の気配も感じられない。

この美しい景色は幻想に違いなかった。

街の外から見た限り、広場は朽ちて植物に呑まれていたし、噴水も枯れていたはずだ。

しかし、これだけの幻覚を見せていながら、やはり敵の気配はなかった。

リディはなおも慎重に、街の奥へと進む。このまま、この街の怪異の中心となった物体に触れ、物語を取り出す。……まだ油断はできない。

広場の向かい側には、大きなドームがあった。それがどのような施設なのかはわからなかった。レーダーで確認しても夥しい数の草花の他には何も見つけることが出来なかったのだ。

しかし、ドームの入り口から中を覗き込んでみて、リディはその理由が理解できた。

そこは大きな植物園だった。

最初から植物しかない場所だったから、レーダーで観測しても植物以外の存在は感知できなかったのだ。

内部は美しく整えられ、色とりどりの花が咲き、蝶が飛び回っていた。

リディのセンサーが反応し、視界の隅にありえない量の通知を送りつけてくる。

この場所に咲いている花のひとつひとつが、完成された物語そのものであった。物語がこれだけ密集して存在しているなどありえないことだった。

機械人形たちは、怪異の根幹となるよりしろに触れることで物語を回収する必要がある。この場所はつまり宝の山だった。数えきれないが、確実に1万を超える物語を全て持ち帰れば、きっとエルは世界一の成功者になれる。

しかし、リディは容易にその場所に足を踏み入れることは出来なかった。

----この植物園の中心部が、今まで自分が襲われてきた全ての怪異の原因だろう。

リディは直感でそれを理解していた。

この先、無数の花に隠された最奥には、何か自分の予想もつかないような存在がいるのだろうとリディは思った。

機械ではない、自分の魂に響くような本能的な畏怖。初めての感覚。

今までに感じたことのない、大きな力に圧倒されるが、それでも自分を奮い立たせ一歩を踏み出そうとする。

その時。

機械が押しつぶされ、割れる嫌な音が響く。

リディは背後から胸を貫かれていた。

砕かれたリディのパーツが弾け、無数の破片があたりに飛び散る。

自分の体を見下ろすと、背中に搭載していたはずの大刀が、胸の中央から突き出ている……いや、それはよく見ると、形は全く同じだが、植物で出来ていた。

緑の蔦で形作られた刃物に、リディは大きなバックパックごと背中から貫かれた。

人間を模して作られた機械人形は、動力部も人間と同じ位置にある。

心臓部を破壊されたリディの知能が悲鳴をあげる。

当然、その通知はマスターであるエルの元にも届いた。

「リディ! 何があった、状況を説明しろ!」

エルは彼女に呼びかけるが、動力を失ったリディのパーツは次々と機能を停止させ、やがてマスターとの交信すらも途切れてしまった。

「あーあ……ハート、なくなっちゃったね」

背後から、よく知っている声が笑う。

リディは振り返りざま、右手に握ったブレードを投擲するが、〈彼女〉には当たらなかった。

そこには、リディと全く同じ姿をした何かが居た。

「リディ、よくここまで辿り着いたわね」

いや、同じではない。大刀と同じだ。リディと同じ姿をしているが、それは花だった。植物が人形に化けている。

きっと、これもプシュケーによるものだ。どうして自分の姿を真似ているのかはわからないが……

リディは、力を振り絞って自分を貫いた刀をへし折った。鋭い刃だが強度は本物よりも劣るようだ。破壊された大刀は形を保てず、植物に戻ってほどけた。

こちらも新しいブレードを腿から取り出す。予備はあと何本あったっけ……もう、そこまで頭が回らない。

そもそも、動力部を完全に破壊されたのだ。なぜ自分が今も生きているのかすら分からない。これも魂の作用によるものなのだろうか。

----どちらでもいい。

心臓は潰されたが、私は、私の心はまだ生きている。

であれば、やることは変わらない。

目の前の敵は潰す。

それが私のマスターの命令だ。

目の前の自分……うすら笑みを浮かべて私を見下してくる、自分のフェイクをよく観察する。

もはやセンサーも、視覚もほとんど機能を失っている。

これが、人間の感覚か。あの人がいつも見ている視界か。

「まだそんなに動けるんだ。大した魂を取り込んだものね」

フェイクはなおも、人間のような豊かな表情で私のことを見ている。

まるで自分ではないみたいだ。顔は細部に至るまで、完全にリディを模しているが、その表情は全く別物だ。

「あなたは誰なんですか……どうして私の姿を」

「決まってるじゃない」

リディが問いかけると、フェイクはリディから離れ、美しい景観を形作る広場の地面でステップを踏む。それから、立ち止まってターンを披露すると、周囲に白い百合の花が咲き、それは瞬時に形を変え純白のドレスに変わった。

「私はあなただからよ、リディ」

フェイクはリディの目をしっかりと見て、それから微笑んだ。

何もかもが自分とは違う。

リディは、この街に入る前の、水面に映った無表情な自分の姿を思い出す。

私はこんな風にはなれない。

この少女の正体はわからないが、自分に攻撃をしてきたのだから敵性存在であることには違いない。

リディは体勢を整えると、地面を蹴りフェイクに斬りかかる。

すれ違いざまに、そいつの腹を真っ二つに切り抜いた。

確かな手応えを感じた。

そのまま駆け抜け、距離を取ると振り返り、なおもブレードを正面に構える。

切り離されたフェイクの上半身が、煌々と照らす日差しを隠すように宙を舞っていた。

----仕留めてはいない。

リディは反射的に、地面を蹴って後ろに跳躍した。

直後。1秒前までリディがいた場所に、無数の蔦が突き刺さる。

フェイクは地面に落ちる寸前に、下半身を再生し優雅に着地した。

「あなたが素直になれるように手伝ってあげたし、この〈祭壇〉にも導いてあげた。ここまでお膳立てしても、あなたはなんにもしようとしない。……呆れちゃった」

フェイクは隙だらけだった。まるで戦う気など無いかのように、街の景色を見渡したり、飛び回る蝶を弄んだりしながら言葉を話す。

「なんですって?」

「あなたが望んだから、私はここまで来てあげたの。あなたの目から入り込んで魂に細工をしたのも、私よ?」

「私はあなたみたいな存在を望んだ覚えはありません。私の望みが叶うというなら、今すぐ消えてください。私はマスターのために、この先に進まなければいけない」

「嘘をつかないで」

フェイクは不意に動き出し、一瞬でリディの鼻先まで迫ってきた。

リディは呼吸をしないが、フェイクの吐息は確かに感じる。

「この先に進めば、あなたがどうなるか、自分でも理解しているはず。濃度の高すぎるプシュケーにさらされ、あなたの体も心も、ぜんぶ壊れる」

「理解しています。それでも良いとマスターは言っている。これで最後だから、私を使い潰してでも、より多くの物語を回収する。承知の上です」

「頭では理解できていても、心では納得できていない。そうでしょう? だから、私が止めに来てあげた。

リディ、自分を犠牲にしてまで誰かのために生きるなんていうのはやめようよ。あなたはもう奴隷じゃ無い。あなたは生きてる。あなたは、ここでは誰よりも自由に、幸せに生きていける。

あなたは、死にたくないと思っているのよ。だって、生きているんだから」

フェイクは、リディの間合いにいるにもかかわらず、なおも構えようとはしない。ただ子供のように話し、リディの虹色の瞳を見つめている。

一方、リディのほうも刀をすぐに振るうことは出来なかった。

……あなたは、本当に私なの?

私が、ただの機械なのに魂を得たせいで、想ってしまった欲望。

私は死にたくない。

マスターのことを裏切りたくはないけれど、これが最後だと聞かされた時、胸に湧き出した気持ち。

自分でも、どう扱えば良いのかわからず、奥底にしまい込んでいたもの。

「それが私。

リディ、よく聞いてよ。私はあなたの機械のハートを壊したわ。でもあなたは生きてる。しかも、まだそんなに動けるなんて、すっごくラッキー。

これでもう、あなたを縛る命令も制限も、ぜんぶ無くなった。これ以上、あなたが誰かの言いなりになる必要はなくなったの。

あなたは、私たちは自由なんだ!」

フェイクはそう言って、リディに抱きつく。彼女の細い腕は植物となり、リディの壊れた胸に絡みつき花を咲かせる。

リディは右手に持っていたブレードを落としてしまう。

フェイクの体は暖かかった。

たかが36度程度の熱。大したものではない。動物が生きるために駆動させるためのもの。

それは彼女が求めていたものであり、彼女が誰かに与えたかったものでもあった。

密着した体から、心臓の脈打つのがわかる。

「私はあなたよ。あなたの欲しいものを全て持っているわ。私たちは生きているんだもの。

あなたの望みを私は知ってる。あなたは人間として、魂を持った存在として生きていたい。そうでしょう?」

リディの体が花に侵され、機械の破損した部分から侵食していく。

千切れて剥き出しになった左腕の、無数のチューブの断面が植物の茎と接続し、蔦が絡み合い、やがて爪先まで本物と見分けのつかない人体を形作った。

「さあ、一緒になりましょう。一緒になって、あなたと私の望みを叶えるの。あなたもこの世界で、自由な命として生まれ変わるのよ!」

フェイクがリディの中に入り込んでくる。

ぽっかりと空いたリディの心に顔を埋める。傷ついてボロボロだったリディを、それは心地良く癒した。

ここにたどり着くまで、ずっと一人で歩んできた。

数えきれないほどの怪異。

そして、地球の物語が見せる、死んでいった何万もの人々の怨念。

機械とはいえ、魂を持ったリディは痛みや苦しみをその心に感じる。

それをたった一人で、リディは背負い続けてきた。

でも、もういいんだ。

私はもう機械じゃない。魂なんだ。

私は私として生きて、誰にも邪魔されず、自分のためだけに生きていていいんだ。

それはリディの本当の望みだった。

この星に初めて降り立って、自分の心を手に入れた時から、ずっと言いたくて言いたくて仕方がないことがたくさんあった。

そして、それを決して言ってはいけないことを理解して、私はずっと苦しかったんだ。

だから、もういいじゃないか。

「そうよ。もういいの。あなたは今まで、よく頑張ったじゃない。そしてようやく、私たちは一つになれた。あなたは、ここに来るために生まれてきたの。

これからは、あなたの本当にやりたいことをすればいいんだ。あなたの----」

「私の----」

私の望みって、何だったっけ?

リディはふと思い返す。

私の望んでいたこと。欲しかったもの。

言いたかった言葉。絶対に言ってはいけない言葉。

リディの体で稼働していた全ての機械は止まり、心のリミッターが外れている。

脳のメモリーに埋め込まれていた無数のライブラリーも、倫理規定も、思考の制限すらもない。

私が本当に欲しかったもの。私の心が、この体がずっと前から持っていたものたち。

そして、この偽物の私が持っていないものたち。

「離して!」

リディは、ほとんど同化しきっていたフェイクを掴み取り、その首を自分の胸から引き剥がした。

完全に自分を受け入れたと思い、油断していたフェイクは身動きも取れず、そのまま地面に叩きつけられる。

「リディ!? 何をしているの!」

途中までリディの体の一部になっていたものたちが、もとの植物へ戻っていき、枯れていった。修復しつつあったリディの体は再び破損し、ひどい痛みが襲ってくる。空洞になった胸が痛くて仕方ない。

「そうだ。私はもう誰の言いなりでもない。これは私が自分で決めたこと。

誰の命令も聞かない。自分の意思で、私は私の目的を果たす」

「なら、なぜ私を拒むの。どうして私と一緒にならないのよ!」

「彼が望んだから」

リディは右手を天に掲げる。手首のパーツが駆動し、空高くへ、か細い一条の光線を打ち出す。

それはただの光線だ。

武装としての効果は低く、主に暗部での視界確保のために使用を想定されているが、リディ自身も使ったことのない、ささやかなガジェットである。

「何!? あなた、何をしたの!」

「声が届く」

その弱い光線は街の遥か上空----成層圏まで届き、宇宙空間から交信を続けていたエルのもとへと繋がった。


「リディ! 聞こえるか!」

エルは、リディが何者かに襲われ、通信機能を停止した瞬間から、迷うことなくポッドのあらゆる機能を地上に向けて作動させた。

たとえ地球の外に居ようが、地球へ向けて交信を試みれば、その機器はプシュケーに汚染され始め、最悪それを操作している人間にまで危害を加える危険がある。

だからシューター達はみな自分で地球の様子を見ようとせず、人形たちからの音声通信でのみ周囲の状況を把握していたし、管理局の担当者も地球に関しては必要最低限の情報以外は受け取らず距離を取るようにしていた。

エルはリディからの光通信をキャッチし、ポッドのカメラをその場所へと向ける。超高性能のカメラ・アイは地上の様子を完璧に映し出すが、その瞬間からプシュケーに汚染され悲鳴を上げ始める。

「リディ、無事か? 状況を……」

リディのステータスを表示できないので、目視でしか被害状況を確認することが出来ないが、それだけでも充分すぎるくらいに、リディの外傷は痛ましいものだった。

「リディ、本当に無事なのか、お前」

エルは、四肢がほとんど砕け、胸に穴を穿たれたリディの姿を見て何も言えなくなった。

エルはそこまで機械に詳しいわけではなかったが、それでも自分でリディの面倒を見られる程度には知識がある。

そうでなくても、リディの体を見れば、彼女がとても動作していられる状態ではないことくらい誰にでも理解できた。

動力部が完全に潰され、主要の思考回路が詰まった頭部も欠けてしまっている。

こんな状況で動いているアンドロイドを見て、恐怖を覚えない人間など居ないはずだ。

何も言えないエルを促すように、リディは気力を振り絞って囁く。

「敵性存在を捕捉。

……命令を、マスター」

もはや、リディの全てのシステムは動作を停止している。

今さらコードを送信する必要などなかった。

それでも、リディはエルを求めた。

エルはリディに命令する。

「リアクターを起動しろ、リディ」

リディの、ぼろぼろになったバックパックが完全に砕け、彼女の背からは大きな蝶の羽が展開する。

リディは自分が地面に叩きつけた、自分と同じ顔の亡霊を見た。

それはもう先程のように暴れることはなく、力なく目を閉じたまま、ただ涙を流していた。

本物の涙だ、とリディは思った。


街は再び音を無くした。

あいかわらず広場は陽を浴びて美しく輝き、先ほどまで激しい戦闘が行われていたことなど嘘のように花が舞い、蝶が飛び回っていた。気づけばリディの破片も、フェイクを形作っていた植物も消え去っている。

あとにはリディだけが残った。

リディは身体中が破損したまま、ただ背中の羽だけが風に揺れ、七色に煌めいている。

「……何があったか聞いてもいいのか?」

何もなかったリディの中に、エルの声が響く。

マスターがこうして今の自分と通信できているということは、彼が地球上のこの場所へ直接交信をしている状態を表している。

このままでは、地球の外にいるエルも危険に晒されてしまうだろう。

「いいえ、マスター。何もありませんでした。ここにいるのは私だけです」

エルは、まだ何かを聞きたそうにしていたが、リディの言葉を尊重した。

早く終わらせなければいけない。

もう走ることすらできないでいたが、それでもリディはゆっくりと足を前へ進める。

あの花の咲く向こう側に、全ての終わりがあるはずだ……

植物園の中はひどく安らかで、信じられないような量のプシュケーに満ちていたものの、彼らは襲いかかってくることなどないということが、深く魂と繋がっている今のリディには分かった。

リディはその中に足を踏み入れる。

「マスター、ひとつ昔話をしましょう。彼女が教えてくれた物語を」


科学が発展していく中で忘れ去られてしまいましたが、古来よりこの世界には生命に多大な影響をもたらす〈プシュケー〉という霊的エネルギーが存在しました。

地球でも様々なものに命を与え、時には怪奇現象や、人間の常識を大きく外れた奇跡を起こす、魂の力。

あなたたち人類も、かつて沢山の同胞たちの命と引き換えに、その力の存在を理解しましたね。

……古代の人類は、地球上で増え続ける霊的エネルギーによる怪異を避けるため、プシュケー濃度が上昇しないよう常に魂を集め、無害化するための機関を開発しました。

これはプシュケーリアクターと呼ばれ……いま私が背負っている、大きなバックパックと同じ力を持った、プシュケーの変換装置でした。

私のプシュケーリアクターは、ごく狭い範囲の魂を浄化する力しかありませんが、

この場所のリアクターは、地球に存在する全てのプシュケーを制御するために巨大化し、それはまるで街のような形になった。

----そう。この街そのものが、地球を支えていた巨大な、魂の浄化装置だったのです。

このリアクターは、効率よくプシュケーを変換するために、人間そのものを改造して機械のパーツとして組み込んでいました。

魂に触れやすい、人間の子供たちの遺伝子を改造し、プシュケーをため込ませ、無害化する。……エネルギーの塊は、子供たちの背中に生える羽として現れました。

子供の羽は、人間を魅了する魔力を貯め込み、そして子供が成長しプシュケーを扱えなくなると、抜け落ちて浄化される。

不思議なものですね。そんなものを生み出す技術力が古来の人類にはあったということですから。

今はもうその時のことを覚えている人はいませんが……おそらく地球の外、異星の存在からの介入があったのでしょう。

古代に大きな技術力を手に入れたこの地域からは、他にも様々な文化が生まれ、神秘のもとに発展し、広がっていきました。

彼らはリアクターを完成させた後、この街を離れ、それぞれに居住地を広げ、南へ向かう者、西へ向かう者、北へ向かう者…いずれも偉大な文明を生み出しましたが、やがて大きな欲望と物質の世界に飲み込まれていきました。

世界は今、物質への強欲のためにバランスを失っており、このままでは世界は終わる。そんな予言とともに……

そして、この街は何万年ものあいだ、人類を守り続けましたが、文明が発展するにつれ、いつしか人々の霊的なものへの理解は薄れ、科学と理性によって都市開発が進むと、世界を守っていたこの街すら、人類は破壊しようとした。

霊的なものを全く信じられない人間には、羽を見ることができないからです。

人間が神秘を信じなくなり、外部からの介入を受け機能不全を起こしたこの街は、羽根が異常に大きくなった突然変異体、いわゆる〈ストーリーテラー〉を生み出しましたが、それも何者かによって崩壊させられました。その時、彼は無限にプシュケーを拡散させ、地球を怪奇現象で満たした。

それが、この植物園の中心で眠っている……いま私の目の前にいる、この子供のことなのです。


リディはついに、植物園の最奥へとたどり着いた。

強すぎる魂の力に灼かれ、リディの体は限界を迎えようとしていた。足を引きずりゆっくりと、玉座に横たわる彼のもとへ近づいていく。

それはこの世の何よりも美しく、少年とも少女ともつかない顔立ちをしていた。

彼の周りには無数の蝶たちが飛び交い、花びらがゆっくりと舞い踊っていた。

「マスター。

少しだけ、私の話をさせてください。

魂なんて持たない、ただの道具だった私のことを、ほんの少しだけ見て欲しいのです。

……私が意志を持ち、あなたと話せるようになったのはつい最近のことですが、私はずっと昔の、もの言わぬ人形だったあの頃から、あなたのことを愛していましたよ。

私はこの地球に降りて、初めて魂を持った。自分の力で歩み、進む先を決める意志を、自由を手に入れた。

でも、私がやりたいことは昔と変わらなかった。

私は自分の手に入れたこの力で、あなたのために尽くしたかった。自由を手に入れたところで、他にやりたいことなんて無かったんです。

……別に、私だけがマスターにこんな気持ちを抱いているわけではないんです。

きっと、他の人形たちも同じことを思っていたでしょう。

貴方たちが気付いていなくても、そして私たちが気付いていなくても、私たち物質に宿ったささやかな魂は、いつまでも貴方たちのことを覚えている。

そして、みんな、それを伝える手段も持たないまま、忘れられ捨てられていく。それでも満足しながら。

だから----私はきっと幸福ですね」

エルにははっきりと、彼女が涙を流しているのがわかった。

それは紛れもなく、本物の涙なのだとエルは思った。

お前はいつまで経っても、泣き虫なままだったな。

そのせいで俺はずいぶん苦労もしたけど、それも今、お前がこの場所にたどり着くために必要なものだったんだろう。

リディは、横たわる少年の身体に触れる。

背中の羽がはためき、彼から流れてくる大きな物語をマスターのもとに送る。

地球のプシュケー汚染の原因となった物語と、この少年の因子を持ち帰れば、エルはきっと莫大な利益を得られるはずだ。

リディのマスターは、最後の地球ダイブにしてついに、人類史に残る大きな成果を上げることができたのだ。

それがリディには誇らしかった。

私は自分の意志で、一番支えたい人のために尽くし、それを貫くことが出来た。ただの隷属ではなく、共に歩んできたという誇りがある。

「さあ、マスター。あなたはこのデータをもって、すぐにここを離れてください。これ以上私と通信していれば、そちらが流れ込む魂に耐えられなくなる」

「分かってる」

マスターは答える。

エルも、そのことはよく理解していた。モニター類はすでに異常な数値を観測し、システム不全を起こし始めていた。

「でも、もう少しだけ一緒に居させてくれないか」

リディは少し困ったが、エルの意志を尊重することにした。かつて自分が同じことをしてもらった時のように。

エルは、もはや機械としての力を失った彼女の姿を見る。声はいつも聞いていたが、こうして地球で動いているリディの姿を見たのは初めてだった。

ふだん自分が見ていた、表情のない人形ではなかった。身体は砕け散り、今にも崩れ落ちてしまいそうだったが、地球のプシュケーが彼女を包み込み、新たな肉体を与えようとしている。

エルはそれをずっと眺めている。

やがて、リディが触れていた少年は光となり消えてしまった。無限にプシュケーを取り込み、拡散させていたものは消え去った。これで、徐々に地球のプシュケー濃度は薄まり、いつかはエルたち人類がその地に降り立つことも出来るようになるはずだ。

全ての役目を終えたリディは、花々が咲き乱れる舞台でひとり佇んでいたが、体の傷が癒えると、やがて軽やかに肢体を伸ばし、少しづつステップを踏み始めた。

それから片脚で立って、ゆっくりとループ。

回転に合わせて舞い飛ぶ色とりどりの花びらが彼女のドレスとなり、それは花の色を取り込んで七色に変化していった。

主人を亡くし、形を保てなくなった街が崩壊を始める。広場を彩っていた魔力は溶け去り、植物園に咲き乱れていた高密度の魂が膨れ上がり拡散していく。

それは大きな波動となり、一瞬にして星全体に広がっていく。

衝撃波は地球の周辺まで影響を及ぼし、宇宙を輝かせた。

強大な魂の波は白く輝く月の大地を一瞬にして花で満たし、周回軌道上の瓦礫たちを宝石に変える。

その大きな力はエルを乗せたポッドにも降り掛かり、レーダー通信とカメラで地球を観測していた機械群に致命的なダメージを与えた。

ポッドは耐え切れず、そのまま遠い彼方へと弾き飛ばされる。

優雅に踊り続けるリディとの交信がだんだんと途切れだし、それはやがて無機質なノイズへと変わっていく。

最後に彼は、リディの歌声を聴いた。

知らない歌だ。

そのメロディは彼の記憶のほかの、いかなる記録メディアにも残ることはなかった。


    ・


地球上で、すべてが終わってから数日が経った。

エルは、地球の軌道上から外れた何も無い空間を漂っていた。

地上から見上げる星空は無限の光にあふれているが、実際の宇宙空間は星などほとんど存在しない、どこまでも広がる虚空である。

弾き飛ばされた時の速度のまま、エルは誰も知らない場所を飛んでいる。

あらゆる通信機器は機能を停止し、眼前のモニターは変わり映えのしない暗闇をただ映している。

もう誰にもエルを見つけることは出来ないだろう。

それでも良かった。

彼は満たされていた。

彼がこれで帰れなくなっても、汚染の原因を取り除かれた地球はやがて自然に浄化され、再び人類のものになるだろう。

エルにはもう、大いなる富も名声も必要ではなかった。

それに、彼の中にはリディの姿が目に焼き付いて離れることがなかった。美しく舞い踊り、歌う彼女を見て、ようやく満たされないこの若者は救われたのだった。

ここが終着点だ。

悪い人生ではなかった。彼は美しい物語の幕引きを体験し恍惚を得ていた。

人生とは物語のように綺麗に終わるものではないと知ってはいたが、これほど美しい最期を迎えられた自分は幸福だと思った。

あとはこの身が朽ち果てた先で、魂だけになれば、またそこでリディと会えるのだろうか。今度はきっと、カメラ越しではなく、直接手を取り合って、共に踊ることが出来るだろうか。

ダンスを習っておくべきだったな。

ずいぶん昔、まだリディと出会うよりも前のこと。エルはテティスに導かれて踊りを踊っていたことがあるのを思い出した。

お互いに譲ろうとしない2人のダンスは、何度やっても上手くいくことはなく、やがて2人とも飽きて投げ出してしまったっけ。

あれも今思えば、楽しいものだったのかもしれないな。

テティスともう一度くらい、踊ってやっても良かったかもしれない。

今さら思ったところで、叶わない望みだが……

「ダンスくらい、いくらでもすればいいじゃない」

テティスの声が聞こえる。

なんだか、とても懐かしい気分がした。

彼女に連絡をしたのは、エルたちが地球へ向かう前、一方的にミッション開始の連絡を送りつけたのが最後だった。

あれからまだ一週間も経っていないのに、ずいぶん色々なことがあったと思う。

「ねえ、聞こえてるの? せっかく迎えに来てあげたのに、お礼のひとつも無いわけ?」

やけにテティスの声が煩いので、それでようやく、彼女の声が幻聴ではないことに気が付いた。

何故だ?

俺が地球から弾き飛ばされた時、その方角だけは目視で確認していた。

エルの提出した航行プランとは全く関係ない宙域だ。こんな広い暗闇の中からエルのポッドを見つけることなど不可能に近い。

「どうしてここがわかった?」

「簡単よ。リディちゃんが教えてくれたんだ。本当、気が利く子よね」

リディがテティスと連絡を取っていた? エルは驚いたが、確かにリディのやりそうなことだとは思った。エルのポッドを通して様々な場所へ交信ができるリディなら、マスターの知らないところで他の人間と話をするくらい造作もない。

それに、リディの性格なら、エルの意中の女の子と接触を図るくらいしていてもおかしいとは思わなかった。

まったく本当に、悪戯が好きなやつらだ。

「私たち、結構気が合うのよね。本当、あの子が地球にいる時しかお話出来ないのが残念なくらいだわ。

でも、この時のために私、わざわざあなたの管制官に就いたんだもの。

……ねえ、あの子はまだ地球にいるの? はやく迎えに行ってあげなきゃ」

エルは苦笑した。


リディ、キミは今も虹色に光る星で歌を歌っているか?

それを知ることはもう二度とないだろう。

このデータを持ち帰れば地球の汚染は飛躍的に改善される。そうすれば、いずれは俺も自分の足であの星に辿り着けるはずだ。

でも、その時きっとキミの魂は、もう同じ場所には居ないはずだ。

俺たちがまた再会できるのは、それよりももっと後になるだろう。

だから、俺は今のうちにもう少し、ダンスの練習でもしておくことにするよ。


次もまた、キミのパートナーになれるように。








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これで、プシュケーの墜落に始まる、物語たちによる怪異の物語はひとまず終わりです。

もう地球上にプシュケーが拡散することはないでしょう。


しかし、魂に汚染された地球を浄化するためには、

より多くの物語を回収する必要があります。


私たちは、〈ストーリーシューター〉になってくれる人間を求めています。


あなたも、地球でのあらゆる怪異の物語……文章、画像、音声などを発見し、

報告するストーリーシューターになりませんか?






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