「なんだっての!?」
二人は深い川の中へとそのまま落ちていった。
水の流れは見た目よりもずっと強く、不意に腹を打たれた二人はなんとかもがいて水面に出ようとする。何が起こったのか、この二人の旅人には理解する隙がない。
顔を出した瞬間、二人の隙を狙い澄ましたコウコは、その頭部を両手で一閃。
その腕は自在に伸び、爪先はまるで怪物のようーー
三人はそのまま川底に沈み、もう浮上がってくることはない。まるで、最初からそこには何も居なかったかのように。
美しく澄んだ川面がにわかに赤く染まる。それは何も知らない二人の旅人の残骸か、或いは全く別の何かだったのか。
それはもはや誰にもわからないが、その赤い血溜まりは、強い川の流れにも負けず、段々と辺り一面に広がっていきーー
岸辺にまで届いたかという瞬間、激しい水しぶきとなって吹き上がった。
水面から出てきたのは、三つの人影。もちろん、コウコと、それからシキとリン。
頭を切り裂かれたはずの二人には傷ひとつ無く、逆に、襲いかかったはずのコウコは頭から赤い血が流れて地面に滴り落ちた。
リンは、水に濡れた長い黒髪を乾かすように振り払いながら、隣のシキに話しかける。
「どうしよう、シキちゃん。この子、人間じゃないよ……」
「うまく正体を隠してたんだろうけど、ちっとも気づかなかったな。しかも、けっこう強そうな妖怪じゃん」
シキも同じように、短いウルフカットの金髪をかき上げながら、濡れた眼鏡を外してポケットに引っ掛ける。
不意打ちを食らったとは思えないほど落ち着いている二人とは反対に、コウコは取り乱し、息を荒げたまま身構えようとする。
「なんだ!? 何なんだお前たちは!」
コウコは先ほどまでの、無邪気な子供のものとは全く違う表情と声で怒鳴りつける。
「お前らだって妖怪なんだろ!? 雑魚妖怪がこの山に紛れ込んでたから、誰が山のヌシか分からせてやろうと思っておびき寄せたのに! どうして急に、そんなに力が大きくなってるんだ!」
「ふふ……シキちゃん。私たち、力が弱ってるから雑魚だと思われてたみたい……」
リンが、ポケットからもう一つ、羊羹を出して頬張りながら呟く。
持ってきたお菓子はもう残り少ないが、これが無くなってもとりあえず生きている分には差し支えない。
二人がひとつお菓子を食べるたび、コウコの体が感じる二人の力も跳ね上がっていく。
「好きでこんなに弱くなってるわけじゃ無いんだけどな。信じられるか? お菓子食べなきゃ生きていけない妖怪なんて。……でも、今のままだとこういう奴に絡まれる。困ったなー。
ーーとりあえず、潰しておこうか」
「殺さない程度にしておくね……私も、仲間が減っちゃうのは寂しいから」
「ひぃっ」
リンの周りに、青い炎が湧き出し、真っ直ぐな髪がふわりと浮き上がる。目元が赤く輝き青い瞳を包み込み、額からは赤白く発光する2本のツノがあらわれた。
「いい子だから、お友達になれるかな、って思ったんだけど……そういうつもりなら、容赦しないよ」
リンが、逃げ出そうと駆け出したコウコーーもう化け物と言って良い姿になっているがーーに向けて細い手を伸ばすと、人差し指の指先を動かす。
それだけでコウコの足元に火の輪があらわれ、彼女は険しい山道の、崖になっているところに突き伏した。
「大丈夫……どっちが上か、わからせてあげるだけだから。怖くないよ……」
リンは一飛びでコウコに追いつき、その小さな体を見下ろす。
その周りには青い鬼火がいくつも光り、コウコの体を捉える。
やられるーー
なんとか力を振り絞り、崖から遠くへ逃げようとタイミングを図る。
仕方ない。この山はもう諦めよう。
なぜこの二人がこんなところまで来たのか、二人が何者なのかはわからないが、このまま抵抗しても痛い目に遭うだけだ。何十年か支配してきた山だが、別に問題はない。他の場所を探せばいい。こだわらないことが、生き残るための秘訣なのだ。
コウコがリンの出方を伺っているとき、ふと、その視界の端、崖の下に何かが動いているのが見えた。
崖の下も山道になっていて、普段はもちろん誰も通ることなどないはずなのだが……
なんて幸運!
コウコも見たことのある、地元の子供がその道を通りがかろうとしていた。
「やられてたまるかっての!!」
コウコは力を振り絞り、地面を思い切り砕いた。
凄まじい衝撃波が周辺を襲い、不意打ちを喰らったリン足元がひび割れて怯む。
「……!? なぜ地面?」
「リン、下だ!」
やや離れたところから向かってきていたシキが、リンの前を通り過ぎて、そのまま崩れていく崖の下へ向かう。
怪物の力は強く、周辺の土砂を太い木々や岩までも巻き込んで崩落していく。その下で、大きな衝撃に驚き空を見上げた子供に向かって、大量の土砂が降り掛かろうとしていた。
シキは人間を超えた速度で子供のもとへ走り抜けるが、
「ああ、もう! 間に合わない! ……リン、多めに力を使うよ!」
リンの返事を待つ時間は無かった。崖下にいる子供の方へと向かっていたはずの、シキの姿が消える。
ーーいや、それは消えたわけではない。
ようやく事態を飲み込み、なすすべもなく土砂に飲み込まれようとした子供の目の前に、瞬時に移動したシキは、数トンは下らないはずの瓦礫の山を片手で薙ぎ払った。
砂埃が竜巻のように舞い上がり、あたり一面を覆い尽くす。子供の視界から何も見えなくなり、目を瞑る直前、その視界の中で、獣の耳がぴこぴこと動くのが見えた。
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妖怪。
かつて、この国に数多く存在し、現代にまで残る数多の伝説を残してきた存在。
今ではすっかり見られなくなったように、彼らの仲間はみな役割を終え、消えられるものから順に消えていった。
それでもしぶとく生き残っているものもいるし、今になって新しく生まれた珍しい者も居る。
彼らは人間には理解できない力を持ち、人間を恐怖させるために存在しているーーはずだった。
先ほど酷い土砂崩れが起きていたはずの場所は、今はすっかり元通りになっている。これも、人智を超えた力を持つ存在の能力であった。
「あいつは?」
「逃げちゃったみたい。
……でも、もう気配はない。たぶん他の土地に逃げるんだと思う」
「ひとまず安心、かな?」
「……この体たらくで?」
その崖の下で、二人の妖怪がいま、へたり込んで土の上に寝転んでいる。
いま他の人間が近くを通りがかっても、二人が人ならざる者だとは思わないだろう。
シキは土砂崩れに巻き込まれそうになった子供を助けるために、自分の力を使って崩れた崖を元に戻した。
それだけで済めば良かったのだが、巻き込まれた子供がシキの姿を見て取り乱してしまった。とっさの事とはいえ、妖怪としての力を強く解放してしまったのはまずかった。特に感受性の強い子供が、妖怪の姿を見て精神に異常をきたす、という伝説は多い。
仕方なく、リンが子供の記憶を操作して家に帰らせたが、人の記憶や精神をいじるなど、どれだけ強い妖怪だろうが簡単な話ではない。
結局、シキもリンも、わずかに残していた力をほとんど使い果たしてしまっていた。
「くそ……こんな呪いさえなければ、苦しむこともないんだけど」
そう、呪い。
今から千年以上も前、日本の都を荒らし回った二人の妖怪に当時の大巫女が掛けた、くだらないようにも見える不思議な呪い。
ーーあなたたちは、定期的に美味しいお菓子を食べないと、苦しみながら死んでしまうことでしょう……
巫女はそのままどこかへと姿を消し、二人は呪いを解かせる事もいつしか諦め、時おり日本中の甘味をもとめて旅をするようになったのである。
「ここに来る前に買ってきた、長持ちするお菓子も食べ切っちゃった……普通に生きていく分には問題ないけど、少しでも“本来の力”を使おうとすれば命に関わる。
……どうする? シキちゃん」
「どうする、って言っても……」
人の姿などほとんど見えない、田舎のど真ん中。二人の前にあるのは、大きくそびえる山と、どこまでも続く長い道だけ。
「この道を歩いて、人のいるところーー美味しいお菓子を出してくれる店を、探すしかないだろ」
ようやく立ち上がったシキは、そう言ってリンの細い腕を引っ張り上げた。
まだ太陽は高く、真南の空にたどり着いたばかりの頃だった。