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1(バーゼル〜プーケット)



フリージアと一緒にいるようになってから、今日で二週間になる。

いま私たちはタイ王国の大都市・プーケットに滞在していて、この後は飛行機で北西へ向かう予定になっていた。


タイは不思議なところだ。

ここへ来る前にサイアムの街も見物してきたが、タイの都市部とはつまるところ、世界中の都市をコラージュして作られたような場所である。

ショッピングセンターなどに一歩足を踏み入れてしまえば、

だんだん自分が何処にいるのか分からなくなったみたいに、奇妙な感覚に見舞われることが多い。


この感覚がクセになると言う人も世の中には居るそうだが、私にはどうしても馴染まない。

微妙にズレて解釈される各地のモチーフに、こそばゆい気分にさせられて、いてもたってもいられないのだ。


それで私たちは足早に旅行者向けのストリートを通り過ぎ、フリーマーケットをやっている細い路地を歩くことにした。

橙色の袈裟を着た僧侶が電子回路を買っていたりする、サイバーパンク小説をそのまま現実に持ち込んだような景色が広がっていた。


通りは雑然としていて落ち着きがなく、決して居心地が良いわけでは無かったが、フリージアは別に文句を言ったりもしなかった。


もっとも、私にはフリージアが文句を言う姿なんて少しも想像できない。


物好きで無駄な買い物をしたがる私は、今回も用途不明の小さなアクセサリーを買った。

帰る家も無く日頃から世界中を飛び回っている私に持てるのは、バックパックのポケットに入る小物くらいしかないのだ。


百二十バーツ、と老店主は言った。財布を開けて、そこで私は紙幣のほとんどがドルであることを思い出した。

最近では都市の殆どでクレジットが使えるから、いちいち換金する手間も省いてしまっていた。

紙幣の束をめくって見ても五十バーツしかない。


「ドルでいい? お釣りはいらないから」

そう言って私は十ドル紙幣を一枚差し出す。

経済にめっぽう弱い私は現在の通貨レートなんて全然分からないが、店主がハハと笑って紙幣を受け取るばかりか、おまけで小さな手帳まで付けてくれたので、きっと百二十バーツ以上の金額にはなるのだろう。


手帳を手にするのはかなり久しぶりだった。

今では仕事の書類に必要なものは一台のラップトップで事足りるので、文字を手で直接書き込むことも減ってしまっていたのだ。


それでも、せっかく貰った手帳を捨ててしまうのも勿体無いと思ったので、私はここにフリージアのことを書こうと思う。

この手帳が私のところにやってきたのも、きっと何かの縁なのだ。

フリージアと出会った時と同じように。


フリージアが目を覚ました。

私はもう朝のシャワーを浴び終わって、荷物をまとめ直しているところだった。


「フリージア、服、着替えよう」


もちろん、フリージアは私の言葉を理解したそぶりも見せない。

私の発した音の響きを反芻するかのようにゆっくり瞬きして、それから首を傾げる。


「き、が、え」


ゆっくりと単語だけ繰り返しながら、私がフリージアの寝間着のボタンを外しにかかると、彼女も私の意図を理解したようで、ベッドから降りて両腕を真横に伸ばした。

相変わらず、自分で服を脱ごうという気はないらしい。


フリージアのブラウスのボタンを掛けながら私は、知っている限りにタイの言葉を唱え始める。


「ナーラック、ナーソンサーン、ジャイローイ、トゥーンサーイ、ムアン、アープナーウ、ラッカンディアゥ……」


こうしていると、そのうちフリージアのお気に召す言葉が見つかるんじゃないかと思いながら、私は訪れた国の言葉を彼女に向かって呟くようになった。

そうしていると、自分でも単語を覚えるのが苦で無くなったのは不思議だ。

前は新しく言葉を覚えるのが辛くて仕方が無かったのに。


フリージアのお気に入りの言葉は、今のところ「フリージア」だけだった。

そのことについても、私の記憶が風化する前にしっかりと記録しておくべきだと思う。




スイスの国境に近い街、そこの薄暗い食堂にフリージアはいた。

目立たないカウンター席のいちばん奥で、彼女の足が届かない背の高い椅子に一人で座っていたのだ。周りには誰も居なかった。

きっと、誰かに連れて来られて、ここで待つよう言われているのだろうと思った。


あるいは、連日の仕事に疲れていた私だけが見た幻覚かもしれないとも思った。

珍しくスイスでは私の仕事は途切れることがなかったのだ。

仮の住まいに一日中篭っていても、なぜか仕事が入ってくる。

国の状況にもよるのだが、たいてい私の仕事は安定することがない。


とにかく、そろそろ疲れが限界と思い、また一つ仕事を終えたあと、スイスを発とうとした夜に私はフリージアと出会った。

彼女は店内の淡い照明の中でも青白い肌を浮かび上がらせている。

目を凝らせば背景と同化していた髪がかすかに揺れているのを確認出来た。


私がかなり無遠慮に彼女のことを観察していると、向こうも流石に私の視線に気付いたようで、俯いていた首をかくりともたげると目線をかち合わせてきた。

顔の小ささに似合わず大きなまぶたの奥に、青い瞳が光っているのが、彼女にますます人間離れした印象を与えた。

しばらく一緒に生活していて分かったことだが、全体的にフリージアの立ち振る舞いは人間の自然体を思わせる動きからかけ離れている。


何気なく目を逸らして、硬いパンを齧りながら私は、頭の中で世界地図を広げ始めた。

次はどこに行くべきだろうか。

お金が随分溜まってきたので、しばらくはゆっくり休んでいようと思った。

どうせ、隠れていても仕事は入って来るのだ。ふらふら遊んでいればいい。


常連客ばかりの食堂に私の姿は珍しく見えたのだろう、しばらくすると地元の人間らしい男たちに声をかけられたが、現地の話し方をされたところで私には理解に及ばない。

そもそも、私には普通のドイツ語すら満足に理解出来ないのだ。


「英語で」

それだけ言って私はまたパンを噛み噛み、頭の中の地図にダーツを向けると、男たちは諦めて自分たちの席に戻っていった。

スイスという国について、私の持つ知識は少ない。

まずひとつ他の国と違うのは、ここが特殊な銃社会だということ。

スイスの青年はみな予備役軍人として有事に備えることになっているのだ。

彼らは自動小銃を支給され、各家庭で保管することになっている。

今では弾薬までは支給されることがないとはいえ、必要とあれば個人で入手することも可能なはずだ。


しかし、だからと言って銃による殺傷が多いのかと言えば、他の欧米諸国などと比べても特別変わりがないらしい。

スイスでは銃による他殺より、銃による自殺のほうがよっぽど多いのだと、仕事の知り合いに聞かされたことがあった。


撃たれることは滅多に無いとはいえ、街ですれ違う人間がみな銃を持っているというのは気分が落ち着かない。

職業柄、少しでも力を持っている人間の前で気を抜くのは命取りになりかねない、という考えが染み付いてしまっているのだろう。


そんなことを思いながらぼんやりとスプーンを動かし続けている間、私はもちろん他の客のことなど全く気にかけていなかった。

一人だけ新しい客がやって来て、奥のテーブルに混ざって行ったのだけは記憶にあるが、それからはただひたすら、目の前の料理だけに集中していた。


だから私には、そのとき彼らのうちで何が起きていたのかは分からない。


やけに店の奥が騒がしいと思い、私がようやくスープの皿から顔を上げた頃には、既に紙ナプキンからナイフまでありとあらゆる食器が飛び交う大げんかが繰り広げられていたのだった。


スイスドイツ語の分からない私には事の原因も分からないし仲裁してやる義理もなし、と判断して、私は最低限流れ弾に当たらない程度に注意しながらその光景を眺めていた。

どうも、言葉が通じないというのは無意識に距離感を作り出すことらしく、その光景は何とも現実味のないものとして感じられた。


ふと、横のほうを見ると、流石に彼らの近くは危ないと思ったのだろう、フリージアがこちら側の席に移動しているのを見つけた。

そうして我々は二人してこの騒ぎを見物することにした。私からすれば、これは何とも言えないぎくしゃくした芝居のようにしか見えない。

突然、水を打ったように静まり返り、やっと終わったかと思えば、一人が何気なく呟いた言葉で熱がぶり返す。

それも、やはり現地語が分からない私には言葉のあとにやってくるべき行動が全く予測出来ないので、これがどうにもシュールな演劇のように見えてくるのが面白くて仕方がない。


それはまるで夢の中の出来事だった。

薄膜一枚隔てて見えてくる世界に私の気分はどんどん高揚していった。私はそのとき初めて、寂しさを感じた。

彼らと私との間に、どうしても超えられない壁があるような気がして、笑いながら泣いていたのだ。


誰も異国人たる私の行動になど気を遣うまいと思い、こちらがジョッキ片手にけらけら笑っていたものだから、とうとうフリージアの興味はあちらの喧嘩ではなく、私の顔のほうに移っていった。


すっかり陽気になり、部外者としてもフリージアに妙な連帯感を持ってしまった私は、何とはなしに彼女に話しかけだす。


「ドヴリーヴェチェル」


返事は無かった。

フリージアは、じっ、と私の顔を眺めていた。

フリージアにはきっとこの言葉の意味が分かっていなかったのだろう。

この時は私もこれがどういう意味の言葉なのかよくわかっていなかったのだが。


私にとって男たちの喧嘩が奇妙に見えたように、フリージアからすれば、喧嘩を見て笑っている私の姿もずいぶん変に見えていたのだろう。


それでも私は構わなかった。

とにかく、この状況すべてに酔ってしまっていた。

この疎外感は快感に変わっていったが、酔いが後に重い頭痛を残して去ることに気付くはずもない。


言葉というものが、どれほど人間同士の間を分断しているのか、私はその後もたびたびフリージアに気づかされてきた。

口を聞かずにただ眺めているしかしないフリージアが、他のどんな人間よりも強く、私という存在のあり方を決定づけていた。


あるいは、ただ私たちが言葉に頼り過ぎているだけで、フリージアの態度こそが正しいのかもしれない。

フリージアは不用意に他人に近づくことがない。何も話さない。


この時の私も、そういう場所にいた。

まわりの人間たちがみな、遠くで話しているかのような錯覚に陥る。

それは、初めて異国へ旅した時に感じる錯覚であった。

言葉を持たない人間として、ただ一人の種族であるかのような疎外感、それがここにはあった。


フリージアは、突然立ち上がると私の脇をすり抜けてふらふらと店の外に出て行った。


私には出会ったばかりの彼女の行動など予測できるはずもないが、その動きが単なる気まぐれではなく、明らかに実際的な目的を持ったものであると感じられた。

これは事実、フリージアの生まれ持った嗅覚なのだと私は後に知ることになる。

会話をしない分、どこか特殊な感覚が強まっているのかもしれない。


とにかく、それがフリージアの、意志を持った行動であると感じたことは幸運であった。

小さな餌に釣られる大型犬のように、私もフリージアの背中を追って外に出たのである。


「何か用事?  誰かと一緒に来たんじゃあ……」

私が英語で尋ねると、彼女はそれを聞いてか聞かずか、いま出てきた食堂の扉を振り返る。


「どうかした?」

フリージアは、私の袖を引っ張り、自分と食堂の建物の間に私の体を誘導した。

つまり、私を盾にした。


わけのわかるはずがなく、私はそのまま、よりいっそう騒がしくなった食堂の建物を眺める。

建物の窓からは時折まぶしい光が溢れてくるのだった。

私は昔にも数回、このような光り方を見たことがあった。


火薬を使用しているのだ。


そのことを思い出した時になって、ようやく私は衝撃に備え身構えた。

爆風とともに木片が飛んできて、私は腕と腹に小さな傷を作った。

私のうしろに隠れていたフリージアはもちろん痣一つ出来なかった。

この一連の行動——危険を嗅ぎつけて回避する魔力——が、まぎれもない彼女の才能であることを私はそれからの二週間で確信することになる。


とにかく、私の運の良さもあいまって、我々二人は生き残った。

体の傷が焼けるように痛むが、それでもやはり、この空間に現実味は感じられなかった。

客席から眺める戦場のように、どこか冷めた目で私はあたりを見回す。


「フリージア」、と私は呟いていた。


辛うじて爆風を逃れた食堂の隅に、フリージアの植木鉢があった。

ものを言わなくても、確かに生命を感じさせる鮮やかな色彩だけが、やけにリアルに見えた。


それから、わずかに肉片の散らばる瓦礫を見渡す。

少女はその中に入っていくと、何も無かったかのように平然と、まだ形を保っていた椅子に腰を下ろした。


「フリージア」


もう一度、私がそう呟くと、彼女はこくりと頷いた。

鮮やかな赤い肉片と、鮮やかな花と、鮮やかな彼女の姿が、私にひとつの確信を持たせるに至った。


言葉は弱い。存在が強いのだ。


私はずっと黙ってそれを見ていた。


やがて太陽が昇り、町中が朝焼けに包まれる頃、私は街をあとにする。

少女は私の後ろについてきた。

そのことについて、私は特に何とも思わなかった。

この町や食堂が、彼女にとって重要なものだという風にも思わない。

それに、この子に逆らうことは誰にも出来ないのだと、私はまた確信していたのだ。


彼女はそれからも全く口を開くことがなかった。

それはやはり、彼女がそれを必要としていないからなのだと思う。


私は彼女をフリージアという名前で呼ぶことにした。


それから国を三つほど越えたが、彼女も私に連れられることに対して不満はないらしい。

初めて会った時のように、大人しく座っていることが多い。


私がフリージアを見ていて驚くのは、まず第一にその肢体の美しさについてである。

しみどころか毛穴一つ見えない真っ白い肌は、やはり彼女の強い能力によって怪我はおろか細菌さえ触れる事は出来ないはずだ。


きっとフリージアは、この世に生まれてからずっと、この強い生命力に守られ過ごしてきたのだろう。

おそろしく人間離れした振る舞いも、他の人間に媚びる必要がないからこそ成り立つものだ。

彼女に必要なものは全て、彼女が欲しがる間もなく現れてくるはずなのだ。

だからフリージアは意思というものを持つ必要が無い。

ただ生き続けるために生きる、存在そのものが存在理由になる。それがフリージアだった。


それにしても、この魔力は私には遠慮がない。

自分を守るために必要とあれば、彼女はそばにいる私のことを平気で盾にする。

そういえば、初めて出会った食堂でも、彼女は私の陰に隠れて爆風をやり過ごしていたのだった。

この二週間で、私は随分とタフになった。

もう、私の食事に腐った肉が出てきても驚かないし、野犬に飛びかかられるのも私の役目になっていた。


大雨の止んだある昼下がり、道を歩いているときに、突然フリージアが私の手を引っ張り、車道のほうに突き出した。

フリージアの細い腕からは信じられないほどの力だった。

何事かと思い彼女のほうを振り返るより前に、私の服が水浸しになる。

深い水溜りを、勢いよくタイヤが打ち付けていくのが見えた。


もちろん、これなどほんの一例に過ぎない。













2(ベルリン)



それから私たちは、飛行機に二回乗り、ベルリンへやって来た。

相変わらず、と言うべきか、今回も私は身元不明のフリージアを難なく入国させることができた。

これも仕事柄と言うか、自分自身も何度となく不法入国を繰り返していたので、やり方はよく心得ていた。誓って言うが、ドイツの入国セキュリティが甘いというわけではない。


それから十日間ほど、この手帳を開かなかった。

特に理由はない。

国が変わっても私の仕事は変わらず、この国の言葉は分からないしフリージアも喋ることは無い。何も起こらなかった。


ホテルの部屋にフリージアを置いて、私は仕事に出る。

必要な荷物だけをケースに詰めて。


フリージアを会ったばかりの頃は、彼女がどこかへ行ってしまわないか心配で、仕事先にまで連れていこうと本気で考えたくらいだが、フリージアは案外私に従順だった。

言葉は理解していないように見えたが、私の連れてきた所から動かず待っていてくれる。

私は安心して仕事に出向くことが出来た。


今日も一日が終わろうとしている。私は作業に集中しながらも、ずっとフリージアのことを考えていた。


……私はフリージアのようにはなれないのだ。

人恋しくもなろう。

仕事の連絡は英語で行われるが、それも仕事のための情報より他に無駄な会話は無い。


私はたったひとりだけの言語でものを考え、異邦人としてこのベルリンの日々を過ごしていたのだ。


だが、それが何か特別な出来事だったのだろうか?


最初から、私はずっと一人だ。

どれだけ言葉で話したところで、私は貴方の何を知ることが出来るのか。

いつもそう考えていた。

一度は、他人との関わりに価値を見出だせなくなった。

それでも、一人で黙っているのは苦痛だ。

私は今でも、決して他人を知ることが出来ないと諦めながら、こうして言葉を連ねている……


久しぶりに用事もなく、私はフリージアを連れてドイツの街を観光することにした。

いくつもの芸術と科学に囲まれたこの国が、フリージアの気に入るのではないかと意気込んでいた私だが、彼女はいつもと変わらず、私のほうはと言えば、そんなフリージアの表情の変化を観察してばかりで、結局音楽も絵画も頭に入ってこなかった。

国内に三万は存在するという図書館は言葉がわからない私のために開かれているわけではない。


それにも増していちばん私を落胆させたのは、ドイツの抽象絵画たちであった。

豊かな色彩をそのままに感覚へと訴えてくる画面も、あの時の、実体を伴ったフリージアからはかけ離れた、単なる表現に過ぎなかった。


いったい、あのフリージアは私に何を見せていたのか? 

それは今でもわからない。

しかし、一度それを目にしてしまったことが、私の言葉に対する疑惑を決定的なものにしてしまった。

ただそこにある、意味もなく、存在そのものが意味である存在が、今や言葉の集積でしかなくなった私をより一層みじめなものに変えた。


そうだ、私は今や言葉の集積でしかない。

物事にひたすら意味を与え、分析して分解することしか出来ない、認識する目しか持たない存在。

世界中で嫌になるほど見せつけられた、様々な形をした銃器のようだ。


照準器の向こうにターゲットを見据えれば、そいつらをみんな打ち抜けるのだろうが。

あの十字が無ければ、地面がどこかも分からない。

聖職者のように。

そう、十字架! 私はまさに今、絶対的な神にすがる、か弱い信徒のようだった。


ドイツの町中に溢れる膨大な文字の山が、文法の鎖を解かれ、瓦解し氾濫する様を私は思い起こした。

その時、あらゆる単語は意味の関連性を解かれ、シニフィエは消え去り、言葉は言葉自体をあらわすようになる。

それは、とても素晴らしい、まったきコミュニケーションではないか。


私はひたすらに、この街が無意味な言葉の洪水に呑まれる様を思い描いた。

それでも私は溺れない。私だけは。

フリージアと手を繋いでいるから。


フリージアが私の手を引く。

もう日が傾いてきた。時差の問題にもよるが、フリージアはだいたい夕暮れ時にはお腹を空かせる。

最近は私の体も彼女のペースに乗せられて、早めの夕食をとりたくなる頃だ。


空いている右手で、私はフリージアの頬を撫でた。

ベルリンに着てからは、私もフリージアに話しかける事が少なくなってきた。

言葉を発するだけで嫌になるのだ。


我々は小さな居酒屋(ここではクナイペと呼ばれる)に入っていった。

フリージアが自発的に動くのは食事と睡眠に関すること、あとは自分を守ることだけだというのは私も学習した。

前に書いたページを見返してみると、このメモ帳にはどこで食事したとか、そんな話ばかりが書いてある。


カウンター席に二人並んで腰を下ろし、適当に注文を済ませてしまうと、また私は黙って指のストレッチを始める。

これも最近の癖になっていた。

やたらと指先が気になり、それを気にすればまた余計に動きが不自然になっていく。

ストレスが溜まっている時の私の癖だ。


理由は、と私は胸の前で両手を絡めながら一人ごちる。

それは言葉のせいだった。


誰とも話していない。


それなら、話してしまえばいい。

英語圏のバーかどこかへ行って、話し相手を買えば済む。

一般的に推奨されているメンタルケアだ、適度なコミュニケーションが精神を健康に保つ。

内容に意味が無くても会話を行うと精神病にならない、とかいう話をどこかで聞いた事があった。


だが、私のこの言葉に対する不信をどう宥めるかは未だに解決出来ない問題である。

言葉は私の優秀な導師でありながら、詐欺師でもあった。


むろん、その疑惑に見なかったふりをするのも良い。

嘘を本当だと信じるのも自由だし、それは宗教のように幸福なことであると思えた。


私に、それだけの勇気があれば。

純水を濁らせて台無しにするだけの勇気。

それは未だに手に入らないようだった。

それどころか、フリージアと一緒になってからの私は、余計に言葉を憎むようになった。

あの時のフリージアを言語化することは不可能であると知ってしまったからだ。

曖昧な対象を示す記号でしかない言葉に、あのフリージアをそのまま表すことは叶わないと。


私は、処女を求めて暴れ回るユニコーンのように、あらゆる不純な言葉を憎むようになっていた。


いまだに慣れない手つきでスウィングトップの瓶を開ける。

驚いたことに、ビールの国ドイツには「ビール純粋令」というものが存在する。

現在の南ドイツ・バイエルン州にあたるバイエルン公国で、粗悪品の横行を防ぐために、ビールへの一切の添加物の使用を禁止したという。

発布から五百年経った現在でも、ドイツではビールの材料が変わることはないらしい。


その清純な液体を流し込みながら、私はフリージアの口許を拭ってやる。

もとから期待などしていなかったが、フリージアにテーブルマナー云々を理解させることはかなわなかった。

フリージアは少しずつ、ゆっくりと食べていくので、あまり悲惨なことにはならないが、それでも口元が汚れたままになったり、気付いたら指の汚れを服で拭いていたりする。

そんなことをやっていながら、表情はいつもと変わらず凛と澄ましたままなのが可笑しい。

スプーンを床に落とす姿が様になっているのはフリージアくらいなものだろう。


フリージアは当然のことのように私に口を拭わせるわりに、私が少しでも力を入れすぎると、空いている手で私の手首を握りしめてくるから油断ならない。

手持ちのウェットティッシュで軽く叩くように拭ってやる。

細心の注意が必要だった。

フリージアの肌に傷でも付けようものなら、天変地異が起こるかもわからないのだから。


「娘さんですか」


その言葉が私に向けられたものであると気付くのには数秒かかった。

英語だった。

後ろのテーブル席に、その老人は独りで座っていた。


「ええ、まあそんなところ」


ひさびさの、事務でない、ごく普通の会話。それは甘美だった、どうしても抗えないこの快楽を期待して私の体温が上昇する。

「そうですか、若く見えるのにねえ」

「色々あってね」


老人は立ち上がって、自分のテーブルに乗っている瓶を挙げてみせた。

一緒にどうか、という仕草だったが、出しゃばりすぎず、自然な感じがして好感が持てる。


私も瓶を持ち上げて応えると、彼はフリージアの隣に座った。

子供を囲んで家族で食事、といった趣である。


「ここの人じゃないようだったから、話してみたくなって。旅行ですか」

「仕事です」


この老紳士は、イギリスで執筆業をしていたが、娘夫婦に誘われてベルリンに引っ越してきたのだと自己紹介した。

英語は通じるが、やはり故郷と比べると細かな違いがあるのだという。

プレンツラウアーベルクの娘はこちらに全く顔を出さないし、記事も郵送でのやり取りだから現地でのかかわり合いが希薄になったのだという。


その境遇にはなかなか共感出来るものがあったし、彼の話し方は長年の研鑽の成果とも見える技巧が施されている。

当然、我々の会話は弾んだ。

それで、先ほどまであれだけ会話などするまいと決意していた私の気分も晴れていったが、それと対をなすように、それまでずっと無表情だったフリージアの機嫌が何故か悪くなっていった。

後から運ばれてきた料理も一口だけ食べると、それきりスプーンを置いてしまう。

そして、両手を足の間に挟んで、頭を私の肘にこつこつ打ち付けた。

これだけ分かりやすくフリージアの機嫌が悪くなったのは初めてのことだ。


「どうも、料理の味が気に入らなかったのかな」

老人は言いながら、自分の皿の料理をフリージアのほうに差し出すので、私もフリージアの手に食器を握らせてやる。

ドイツでは割と平凡なポテトスープを一口啜ると、またフリージアは皿からそっぽを向いてしまった。


老人は、頭上に大きな疑問符の釘を打ち込まれたように首をひねった。

このスープを気に入らない人間など存在しないと本気で信じているかのような反応だったが、フリージアの素っ気ない態度はかえって老人の闘志に火をつけたようだった。


「ほおー、これは一筋縄じゃいかないね。もっと試してみようか」

と言うと、メニュー表の料理を片っ端から注文し始めた。

どうやらイギリス人が負けず嫌いだという話は本当らしい。


小さなフリージアの眼前が大量の皿で埋め尽くされる光景はなかなか愉快であったが、得体の知れない料理を、品質検査のごとく次々と口に押し込まされるフリージアの機嫌は案の定ますます悪くなった。

とうとうメニュー表の一番下の料理がにべもなく却下されたあと、フリージアはじろりと私を睨んだ。


私が意外に思ったのは、私たちの子供じみた遊びに最後までつき合ってくれるほどのサービス精神をフリージアが持っていたという事実である。

フリージアはひとたび興味が無くなると、どれだけ私が勧めてみても全く受け容れることがなかった。

だから今回も、フリージアは途中で飽きてしまうのだろうと思っていた。


ところがフリージアは、明らかに嫌そうな顔をしながらも、なぜか一口ぶんだけは律儀に料理を食べていた。

これほど愛嬌たっぷりなフリージアは見た事が無い。

私とフリージアの目が合う。

彼女の大きな瞳は、不自然なものを見るような目で私を覗き込んでくる。


「娘さん、随分睨んでいるけど、機嫌を悪くされたかな」


老人は先ほどと打って変わって意気消沈という感じの口調で呟いた。

完全に敗北を認めた男の表情だった。


「まあ、文句は言いませんし、大丈夫でしょう」

「そういえば、一度も喋っていないね。英語も駄目なのかな? イタリア語は?」

「いいえ、何も。何も話しません」


言いながら私は、だんだんと自棄ぎみになってきてしまった。

わけもなく、突然この男に対して腹が立ってきた。

考えてみれば、どうして私とフリージアだけの時間にこんな男を混ぜてやらなければいけないのだ。


先ほどまであれだけ心救われていた彼との会話が、打って変わって私に不快感を与えた。

こんなに無意味で不純な会話をしてしまったという事実が私をたまらなく不愉快な気分にさせる。


自棄酒をした後の自己嫌悪に似ている、と思いながら私は半ば無理やり手元のビールを呷った。


それから私はずっと黙っていた。

もちろんフリージアも黙っているものだから、急に静かになってしまった私たちを見て老人は何を思っただろう。

適当な挨拶をすると、気まずそうに店を出て行ってしまった。

もちろん、惜しいとは思わなかった。


会話をするのは必要なことだとは分かっているが、あんな無意味な話をするのはごめんだ。

もともと私は会話をするのが何より嫌いであった。

私は苦しむと分かっていながら、こうしてつまらない会話を繰り返してよりいっそう不快な気分に陥る必要があった。

意味の無い性交をしたあとと同じ種類の気怠さだった。


私にとって純粋な会話のイメージというのは白と黒の共存のようなもので、つまりそれはコミュニケーションの錬金術とも言える、永遠に成就することのない理想であった。


私は不純物の一切混じっていないというビールを流し込みながら、ふと純粋とは何のことだろうと考えた。


もしもドイツ人がビールよりも言葉を愛していたなら、きっと言葉は消えてしまっていただろう。本当に純粋な言葉だけを愛するなら、ただ黙っているしかなくなってしまうから。


フリージアは、食器が全部下げられた何も無いテーブルの上に視線を落としている。

退屈という感じでは無さそうだった。

「フリージア」と私は呼びかける。

フリージアがこちらに視線を向けた。


これだけは本物だ、と私は未だに信じ続けている。

フリージアだけは特別で、彼女をフリージアと名付けたことだけは特別なのだと信じている。

私にとって、赤い色が青と名付けられていても別に構わないが、フリージアだけはそういったものとはまるで違うのだと思う。


フリージアはふと何かを思いついたように両手を伸ばすと、私の右手からグラスを奪う。

一瞬だけ、私の飲み過ぎを嗜めでもしたのかと思ったが、もちろんそんなことではなかった。


私のずっと飲んでいたものが気になったのだろう。


フリージアに酒を飲ませようなど、考えた事も無かった。

私が無理やり飲ませようとすれば、何をされるかも分からない。

だが、アルコールに酔うフリージアを見てみたいという好奇心がその時は勝っていた。


しばらくグラスの中の液体を眺めていたフリージアが、やがてグラスを傾けると、ミルクに恐る恐る近寄る野良猫のように、少し舌を出して水面に触れさせた。

それだけでは味を感じられなかったようで、今度はゆっくりと慎重に、少しだけ開いた唇の中にそれを流し込んでゆく。

その時のフリージアの口許をいま思い出すに、ひどく官能的な情感だった。


白く可愛らしい喉がすこし動いて、フリージアがその液体を飲み下したのがわかる。

両目をぎゅっと瞑って、口をぱくぱくとさせているので、わたしは慌てて店員を呼び、ジュースを持って来させると無理やり流し込んでやる。

そのあいだフリージアはずっと私の服を掴んでいた。


私はそれから、フリージアを抱きかかえてホテルの部屋まで戻ってきた。

例の老人は片っ端から注文した料理の代金を払わず帰っていたらしく、私はとんでもない金額を支払う羽目になったので、もうイギリス人は信用しないと心に誓った。


すっかり暗くなった道を歩く私の腕の中で、フリージアはやや恍惚とした表情の抜けないまま口直しの飴玉を転がしていた。


……そのとき確かに私は、フリージアが麗しく微笑んでいるのを見た。


私が驚き、酔いが醒めたその瞬間にはもう、彼女はいつもの無表情に戻っている。


私は幻覚を見たのかもしれなかった。

ただアルコールを飲み過ぎただけ、あるいは疲れていただけなのかもしれない。

しかし私の中には確かに、その瞬間のフリージアの残像がまとわりついているのだった。


それはいつまでも消える事無く、私の中に残り続けた。










3(東京)



フリージアが紛れもなく生きた人間であることは、私にとって重要な事実であった。

フリージアは決して口を開くことはなかったが、そこには肉体があり、触れればその感触をはっきりと知る事が出来る。

それは私にとって何より間違いの無い感覚だった。


私が生きている人間を感じるのはそういう時だ。

この中に生命がある。この肉体の中には確かにいま生命がある。


死後、その人間の意思が残るというのは珍しい事でもない。

自分が死ぬと分かっていれば、人は遺書の一つも書くかもしれないし、そうでなくても、一人の人間の死は他の誰かの人生に影響を与える。

そうして言葉は時間を超えて語り継がれる。


いつまでも残り続ける存在に意味があるだろうか。

私は考える。


肉体はそうではない。

どれだけ言葉を残そうとも、肉体の温度、確かに触れる事の出来るこの存在にこそ私は確かなものを感じた。

言葉は私の味方をしてはくれない。

言葉はあらゆる視点をもたらす。あらゆる解釈を許してくれる。

言葉はどんな変化をも受け入れる。

だからこそ言葉それ自体には何の意味も無い。

言葉はただ利用されるだけだ。生きた存在ではない……


私は言葉の持つ嘘を憎んでいた。

何千年も残る言葉に何の意味があるだろうか。

言葉に意志はない。その時代、その時の人間によって解釈は歪められ、そこにつまらない意味を与えようとする。

それは政治家や法律家のやり方だった。


言葉にはもとから意味など無いのだ。

それが言葉であるということだけが意味を持つ。

言葉が言葉だと認識される以上の意味など、言葉自身にはいっさい関係がないのだ。


フリージアは何も話さない。

しかし確かにフリージアはそこにいる。私の手を握っている。


私たちは今、夜の街を歩いている。

東京の夜は明るい。どこにいても、見渡せば看板に光が灯り、アスファルトを照らした。

どれだけ歩いても代わり映えのしない白線が道々に引かれている。


これだけ賑わっていても、私は今夜まともな宿を見つける事が出来なかった。

急に転がり込んでくる異国の人間をそう簡単に泊めてくれるところは東京には無い。

だいいち私は日本語など全く分からないのだ。

——私は今回も、言語と隔絶されたところにいた。


しかしそれでも、横にはフリージアが一緒に居る。

やがて歩き疲れた我々は、仕方なく路地裏のホテルを使う事にした。

こういう場所に泊まる時の手続きは雑なもので、子供一人を隠して入るのにも苦労しない。

とはいえ、フリージアのために、早くまともな部屋を見つける方が良いだろうと思う。


日本の文化というと、やはりこうした場所に建つホテルが思い起こされる。

ほとんどその目的のためにしか利用されないホテルが、これだけ多く街中に存在しているのは日本くらいのものだろう。

ドイツでは街を歩けば図書館に行き当たるというが、日本ではそれがこの類のホテルだった。

もっとも、観光客の中には、値段の関係からか旅行中の宿泊のためにこうした宿が利用されることも珍しくはない。


日本の文化の代表に性風俗を挙げる者は少なくない。

かつての芸者の洗練された所作は、古代ギリシャのヘタイラやヴェネツィアのコルティジャーノにも通じるものがある。

キリスト教の影響も薄く性におおらかな日本では、政府が営業を公認した遊郭でその文化が形成された。

西洋的な道徳に毒されなかったこの国の性文化は非常に奥が深く、現在でもその精神は日本人のなかに強く残っているのかもしれない。


それは単なる欲望の発散ではなく洗練されたコミュニケーションであり、人間の信じる言葉の力の極致だった。

部屋に入ると、私たちはすぐに布団に入って眠った。

露骨にピンク色に輝く内装がどうしても落ち着かなかったのだ。


我々は大きなベッドを二人で使った。

これほど近くでフリージアと眠るのは初めてだった。

眠るフリージアに表情は無い。大きな枕に顔の左側を埋めて目を閉じている。


フリージアの顔立ちには神秘だけがある。

相変わらず、彼女の肌には陶器のような瑞々しさがあったが、今はもう触れてみたいとは思わない。

そこに表情が付く事を恐れていたのだ。

私の指先の少しの動きが、フリージアを変えてしまう気がした。


しかし、もしあの時の表情をもう一度彼女が見せてくれたとしたら。

私は脳裏に再び、あのベルリンの夜のフリージアを思い出した。

形容のしがたいその微笑みの、一滴でさえも今のフリージアの中に見いだせたなら、私はすぐにフリージアを抱き寄せていたかもしれない。


しかしフリージアは何の表情をも見せなかった。


私はバスルームで体を清めた。

フリージアの事は考えないようにした。

花の香りのする浴槽は、私一人の体では持て余してしまうほど広い。


……フリージアが私のところへ来た事に、一体どういう意味があるのだろうか。


私は最近よくその事について考えるようになっていた。

私はあらゆる偶然を何かの必然だと思いたがる。

仕事の邪魔になる考えだとは思いながら、私は自分の身におこる変化に何かの意味を見いだすことがあった。

それが障害になるときもあれば、私を危険から守ってくれるときさえ数多くあった。


ずいぶん長い間そうして湯船に浸かっていたが、やがて私はベッドに戻ると、出来るだけフリージアから離れて眠る。


この国での仕事は調子がよく、気候が私に合っているせいだろう、悪い気はしなかった。

どこへいても私の作業は変わらない。

すぐにまともな宿を見つけると、我々はそこに二ヶ月のあいだ滞在した。

観光をする気は無いが、街はしっかりと整備されていて、食事にも不自由しない。


今日もフリージアを連れて仕事を終えた。

最初は躊躇いがあったが、フリージアを部屋へ置いて私だけが外に出るのは嫌な気がした。


それに、私のそばにいるのが一番安全なのだとフリージア自身も理解していた。

私はそのことを誇りに思っている。

フリージアを誰より守る事が出来るのは私なのだと思うと、いつものルーチンにも張り合いを持てるようになったのだ。


私は自分の仕事についてそれほど思い入れがあるわけではない。

何となく生きているうちに、気がつけば技術を手に入れていた。

今では一人だけでやっていけるだけの技量がある。

仕事を請ければ完遂するまでやめない。

少しの間違いが信用を失わせるリスクは大きいが、それでも自信はあった。


どうして自分がこれほど巧くやって来られているのか、それは私自身よく分かっていない。

ただ、何かに導かれるようにして、気がつくとここにいた。


私は過去を顧みる事が無い。

朝起きると、自分がここにいることが不思議になる。

昨日までの記憶はあるが、それでも自分がたった今生まれたような気分になる。


それから、自分の中にある記憶を頼りに私は動き始める。

私には今の自分しか自分でないような気がしていて、なぜ今自分がものを考え、体を動かしているのかと思うと、それはやはりフリージアのためにそうなったのだという気がしてくる。


私はフリージアのために生きているのだ。ただフリージアを守るためだけに。


私を生かすかどうか決めるのはフリージアだと、信じて疑わなかった。

そしてそれはやはり正しかったのだと思う。


私が死ぬときはおそらく、フリージアが私に死を与えてくれるのだ。


フリージアとは私にとって、迫りくる死の妖精だった。

私は近頃、そう思うようになっていた。私はきっとフリージアを庇って死ぬのだ。




そしてこの日、やはり死は私にやって来た。


いつも通りの静かな夜道で、私はその音を聞いた。

風を切るようなその音が鳴る数秒も前から、私は自分の死を感じ取った。


ああ、これから私は死ぬんだな、と思うとその数秒はやけに長く感じられた。

あらゆる感覚が鋭利になり、遠くを歩く人間の足音まで私には理解できた。


死ぬとどうなるだろう、と私は悠長に考えていた。


身寄りの無い私の処理はすぐに終わるはずだ。

そういうものに手慣れた人間が、一日と経たず私を抹消するはずだ。


それから、走馬灯について考える。


私は走馬灯を見るだろうか。

見るとすればそれは、フリージアと出会ってから今のこの瞬間までを、再び繰り返す事にも等しい。

そうして、その走馬灯の最後のシーンでまた私はここに戻ってくる。


最後のシーンはこうなる。


夜の、人気の無い静かな夜道を歩いている。

その時にはもう、私は自分がいま死ぬという事を理解している。

感覚は鋭く、私は最後の数秒間を噛み締めている。

右手にはフリージアの手をしっかりと握り、私は立ち止まる。

そして屈み込んでフリージアの顔を覗き込もうとした時。


その瞬間に、私は自分の体から力が抜けていくのを見た。


気がつくと私は地面にうつぶせに倒れている。

頬に何かが触れたと思うと、それは私の胸から流れる血だった。

狙撃されたのだ。


まず私は、最後の力を使ってフリージアをほうを見た。

やはりフリージアには傷一つない。

ただ、白い右の頬だけは私の血で赤黒くなっていた。


彼女は私の事をじっと見下ろしている。

その瞳の奥には何の感情も無い。物を見る目で私を見ていた。

フリージアにとって、もう私は何の価値もない。

ただの肉の塊になった私に、フリージアを守る力は無い。



………………。



私達は往々にして、単なる現象に過ぎないものを擬人化してしまうことがある。


それは人間の判断を鈍らせる。

季節の移り変わりを擬人化して信仰する、そのために山ほど捧げものをすることには、きっと何の意味も無いはずだ。


ある時は、それのために人間の命まで捧げようとする。

生け贄に選ばれた人間にはもはや恐怖さえ無い。

自分が神に供される喜びのままに、彼女は死ぬまで舞い続ける。

そのとき確かに人間は、ただの現象のために死ぬ事が出来る。


そして現象は気まぐれだ。

現象には何の意図も無く、ただの気まぐれのために災害を引き起こし、あるいは豊穣を与える。

そこには何のメッセージも無いはずなのに、人間は現象に理由をつけたがる。


例えば神と名付けられたその現象は、その気まぐれに人間的な理由付けを施される。

そうして人間たちは現象を理解し、支配したような気になって安心する。

科学も同じようなものだ。自然の現象になんとか理由をつけて、その理由の上に立っているからこそ安心していられる。


私も同じだった。

なんとなく私の解釈でフリージアの事を分かった気になって、彼女を愛していた。

フリージアの行動をすべて好意的に解釈して、彼女もまた私の事を気に入っているのだと思い込んだ。

私はただ、生け贄に選ばれた喜びのために酔っていただけのことに過ぎない。


そうだ。私は思い出していた。


スイスでフリージアと会ったあの日。

あの時も私は、何を思う事も無くいつもの仕事をしていた。


そいつは私の予想していた通り、こちらに向かって歩いて来た。

私は傍らに置いていたものを持ち上げて構えると、廃墟の割れた窓ガラスの隙間から、その頭部を狙撃した。

あの時までは、ただ引き金を引くだけで満足できていたはずだった。


死骸を処理するのは知らない誰かがやってくれる。

自分の業務はここまでだ。私は立ち上がって階段を下りると、帰り際に赤く染まったそいつとすれ違う。

彼はまだ生きていて、小さくなにかを呟いていた。


そうだ、あの時の知らない誰かも、最後の力を振り絞って私と同じことを言っていたのではなかったか。


そうして私も今ここで、あっけなく死ぬ事になった。

私はあの時、自分が殺した人間のことなど何も考えていなかった。

それは私には何の関係もない事だからだ。


同じように、次の誰かにとって私の死など大したものではない。

ただ、一人の人間が死ぬというだけのことだ。


フリージアはすでに私のもとから離れていた。

フリージアは弱い人間には興味が無い。

彼女は私によく似たその人間に寄りそって歩いていってしまう。


最後に私は幻覚を見た。


暗闇の中でフリージアの背中はどんどん小さくなっていくけれど、私の隣にはフリージアが佇んでいて、いつかのように愛らしく微笑んでいるのだ。しかしそれは私にとっての理想のフリージアでしかない。

私が望んだ、人間として私を愛してくれるフリージアにすぎない。

しかし私はそれでも幸福だった。

そして彼女は、私の知っているあらゆる言語で、いちばん彼女らしい声で囁いてくれる。




おかえりなさい。








魔性のフリージア | 花のよりしろ

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