妖狐……一般に化け狐と呼ばれる妖怪は、古来より中国の説話に登場する有名なモチーフであり、日本でも各地に狐の伝説が伝わっている。
化け狐は歳を経るごとにその力を増していき、多くは美女の姿を取り、近づいてくる人間たちの生命を奪うことで成長する、とされる記述が多い。
「……その中でも、千年を生き天に連なる力を手に入れたものが天狐と呼ばれる……らしい」
リンは、タブレットにまとめられた情報をとりあえず読み上げる。
口には棒付きキャンディを咥えていて、リンの小さな口には大きすぎるのだろう、喋るたび、もごもごと音がする。
二人が遠い昔、かつての大巫女に呪いをかけられてから随分と長い時間が経つが、ずっと甘いものを食べてきたせいか、リンは甘味中毒の傾向がある。
いくら食べても体に影響は無いだろうが、これが普通の人間であれば、今ごろ大変なことになっているだろう、とシキは思う。
シキはというと、昔からかなり少食で、甘いものが苦手だったために、自分に降りかかった呪いには随分と苦しめられた。
「……また、天狐は信仰の対象となり、時には悪さをする妖怪を退治して回ったという伝説もある、ありがたい存在……うーん」
リンは一通り調べた内容を読み返すと、不安そうに首を傾げる。
シキは過去にこの手の妖怪たちと直に渡り合ってきた、と聞いたことはあったが、そうした妖怪たちについての記憶が、今もシキの頭の中に残っているかどうかわからない。
シキには何か思うところがあるようなので任せてはいるものの、リンは不安を拭えないままでいた。ただの野良妖怪ならともかく、神と呼ばれる存在に勝てる自信は無い。
二人は一飛びに草むらをかき分けると、そのまま山の入り口に入っていった。
夜の山に灯りは無い。
星や月のわずかな明かりすらも、あやしく揺れる木々に覆い隠され、普通の人間なら転ばずに前へ歩くことすら困難だろう。
二人はとりあえず道なりに山の奥へと進んでいく。この二ヶ月の間、二人が過ごしていた場所とは逆の方向から、山頂へと登る形になる。
シキがとりあえず先を歩き、リンはその後ろで妖気を読んでいた。
「シキちゃん……さっきから、変な感じがする。それも、一方向からじゃない、あらゆる場所から見られてるみたいな……
天狐はただの妖怪ではなく、神として未来を見通す、とも言われてる……本当なら、天狐はもう、私たちを」
リンは言い終わるより前に口を閉ざした。
一瞬、風を切る音がして、二人の聴覚を覆い隠した。
それから、少しづつ周囲が音を取り戻す。
止まった時間が動き出すように、二人は状況を把握する。
リンの肩のところを、何かが高速で掠め飛んで行った。腕のところで白いシャツが破け、細い腕を赤い血が伝う。
二人は背後から攻撃を受けていた。
角度から考えて、ほぼ真後ろーー二人のいま歩いてきた方向からの攻撃だ。そんな気配は、少しも感じ取れなかった。
振り返っても、そこには無数の枝が茂っているだけで敵の姿は無い。
「シキちゃん」
「ああ」
二人は前方へ向かって走り出した。
細い一本道だ。
完全に補足されれば避けるのは難しい。どこか開けた場所に出るまでは、このまま進むしかなかった。
二人は、節約していた力を徐々に開放する。地面を蹴り、滑空するように木々のトンネルへ潜り込み、細い枝を蹴散らす。
敵は恐らく、石を割って作った破片のようなものを飛ばしているはずだ。
どれだけ速く移動しても、あるいは複雑な動きをしても、弾はあらゆる方向から自分たちを目掛けて飛んでくる。
ーー二人の位置を、この入り組んだ木々の中で正確に把握しているとしか思えない軌道。
確かに、この山の中のあらゆる場所を見通す、神の目でも持っていなければ出来ない芸当だ。
「……どうする!? このままじゃ避けられなくなる」
リンは気を探るのを諦め、目を強化した。感覚が鋭くなり、世界のあらゆるものの動きがゆっくりに感じられる。
黒い瞳が紅く光り、鬼火のように暗闇を照らした。
弾丸は軌道を見れば拳で砕けるが、それでも、あらゆる方角から撃たれ続ければ、捌ききるのは難しい。
「もう少し開けたところに出たら、迎え撃つ。背中は任せるよ」
「迎え撃つって……この数の攻撃を……?
こんなに速く動いても当ててくるのに、立ち止まったら“蜂の巣”ってやつじゃない?」
「大丈夫」
二人はさらに速度を上げていく。
途中、いくつかの破片がシキの皮膚を切り裂いていく。シキは動きは素早いが、リンほど力が強くない。このままではいつか、致命傷を喰らってもおかしくはない。
「……シキちゃん。ちょっと、多めに力を使うね」
「え、なんだって?」
シキが聞き返すよりも前に、リンは空高く飛び上がった。
小さな体が木々の茂みを突き抜け、その向こうに一瞬だけ見えた月明かりがシキの顔を照らす。
リンのほうを見上げようとした瞬間、前方に衝撃が走る。
大きな音がして、目の前が土埃で真っ黒になる。
「こっち!」
呼ばれた方向へ、シキは一気に駆け出す。
ようやく視界が開けてくる。
……リンの降り立った場所だけ、地面がえぐれ、生い茂る木々も草花も、何もかもが消滅していた。リンがこの周囲一体を殴り、全てのものを弾き飛ばしていた。
「シキちゃん……出来たよ、広場」
「無理やりだな!」
二人は背中合わせになって、広場の中央に立つ。
リンは破片の集中砲火を受ける覚悟をしていたが、不思議と飛んでくる弾の数は増えず、むしろ減ってきているような気さえした。
しばらくそのまま攻撃を弾いていると、やがては完全に止まってしまった。
「弾切れ?」
やけに静かになった周囲を警戒しながら、リンはつぶやく。
「キツネ様だなどと言っていたが……なんてことはない、ちょっと悪知恵の働くだけだ。
もうタネは割れた。敵は、私たちのいる位置を把握出来てるわけじゃない。罠を張ってるだけだ」
「……あっ。ソナーか。他の動物たちの目を使って……」
リンが再び視覚に集中すると、抉れた地面の向こう側に、じっとこちらを見つめる猪の姿があった。
「というより、ネズミ取りみたいな単純なものだと思うけどね。
使役した動物の目に敵が映れば、そこへ目掛けて自動で攻撃する仕組みなんだ。
だから……こうやって立ち止まっていても、飛んでくる石の数自体は増えていかない。
操られてる動物たちには、自分の持ち場から離れて追いかけるほどの機能はないから、自分の視界を外れたら攻撃も続けられない」
「でも、これだけたくさんの使い魔を、すぐに使役するなんて普通じゃない……
そんな力を、私たちがこの山に来てからの数分の間で集めたっていうの……?」
シキはリンに背中を突き合わせてそのまま黙っていたが、追っ手が来ないのを確認すると説明を続ける。
「若菜の言っていた話を思い出して。いつから、町の人たちが大量の生気を吸われるようになったのか」
「確か、2週間前から町の人たちが、って……あっ」
そう言われて、リンも心当たりに気がついた。
リンとシキは、2週間前からこの山にやってきて、ずっと住み着いていたのだ。
この山を住処にしている化け物なら、すぐに二人の存在に気づき、力を貯め込んで罠を張ることも出来ただろう。
「今回のタタリってやつも、私たちがこの山に来たせいで力のバランスが崩れて引き起こされた可能性がある。私たちだって、この山に最初に来たときはピンピンしてたんだ。縄張りに他の化け物が入ってくれば、戦うための力を蓄えようと必死になるのは自然なことだ。それにーー私たち、この山のヌシを、追い出しちゃったでしょ?」
リンも、シキに言われて思い出した。たしかコウコと名乗っていた、妖怪の少女のこと。
「じゃあ結局、町の人たちの力が奪われ始めたのも、私たちのせい、ってこと……」
リンは不安そうに聞き返すが、シキは慰めるように答える。
「いや、今回ほど急激にじゃないにしろ、今までだって住民たちの力は奪われ続けていたんだ。どちらにしろ、化け物が町に危害を加えていたことに変わりはないよ」
「……ねえ、そろそろ教えてほしい。
シキちゃん、どうして今回の相手が、天狐じゃない、って考えたの?」
「……」
シキは、また周囲をよく見渡して、敵の気配をよく観察した。
風が静かに木々を揺らすのみで、もう動物や鳥のなく声すら聞こえない。
周囲に危険がないことを確認すると、ようやく、シキは自分の推理を解き明かしていった。
「……町の人たちは、タタリのことを古くから代々伝わる伝説だって言ってたけど、私にはそんな大したもののようには思えなかったんだ。
本当の天狐なら、人の生命力を少しづつ奪うような面倒なやり方はしない。神と言われるほどの存在であれば、エネルギーを手に入れるために生贄なんて非効率な方法を取る必要すら無いんだ。
第一、天狐ほど強大な力を持つものが何百年も住み着くほど愛しているはずなのに、町がこんなふうに寂れてることってあるかね?」
「そういう幸せも、あるとは思う……不便だけど、みんな不幸では無かったよ」
リンは昼間の、ささやかだが気の良い人々で賑わう町のことを思い出した。
親切にしてくれた人たちの顔を、リンはよく記憶している。
「それは、確かにそう。賑やかな都会ばかりが良いものだとは私も思わない。
まあ、そこはどっちでもいいや。
昼に、子供たちに連れられて、町の歴史に詳しいっていう婆さんのところに行ったでしょ?
あの人も怪しい。狐のことを直接見た、と言っていたし、力を吸われるだけじゃなくて、何か術をかけられているのかもしれない。
ーーリンは気付いた? 頑張って誤魔化してるようだったけど、あの婆さん、ほとんど目が見えてなかったよ。歳も、本当は見た目よりずっと若いはずだ」
それでリンにも、町で老婆の話を聞いている時の、シキの行動の意味が理解出来た。
シキはあの時、自分だけ勝手に座布団を取ってきて、わざとあぐらをかいて座ったり、途中で関係ないほうを向いたりしていた。
たとえあの老婆が何も言わないにしろ、あれだけ好き勝手な行動を取っていれば、端に座っているシキのほうを見てしまうのが普通のはずだ。
それなのに彼女は、ずっと同じところだけを見て話をしていた。
「私はそのあたりのことが気になったんだ。町の人もみんな、良い狐が守ってくれていると言いはするけど、細かいことは知らないみたいだった。まるで、そういう記憶を誰かに植え付けられたみたいに」
「何十年かに一度、町の人間に干渉して、ありもしない狐の伝説を記憶させ、町の人の生命力を吸っている……?」
「思いつきの推理だけどね。なんとなく辻褄は合ってると思った。
……何か来る!」
シキは振り返り、気配のした方へと飛び出す。
大きな獣が、木々を薙ぎ倒しこちらへ向かってきていた。
明らかに、普通の動物ではない。虎かライオンのような形をした、大木のような大きさの獣。それが二本足で立ち上がると、前脚の凶暴な爪を振りかざし襲ってくる。
シキはそいつを目掛けて駆けていくと、胸元へ飛び込む。
獣はすぐにシキを振り払おうとするが、今度は脇からすり抜け、背後へ移動すると、飛び上がり背中目掛けて殴りかかる。
「おらっ!」
シキの拳が、獣の脊椎のあたりを捉える!
ーーが、獣はびくともしなかった。
獣が振り向きざまに腕を回転させると、腹部へもろに食らわされたシキは弾き飛ばされ、そのまま草むらに叩き込まれた。
すぐに起き上がってこないのを見ると、作戦などではなく、普通に攻撃を受けてダウンしてしまっているらしい。飛ばされたほうから、苦しそうなシキの声が聞こえてくる。
「私じゃダメだ。リン、頼む!」
「シキちゃんは……体は大きい割に、力は全然ない。
端的に言って、クソザコ。かっこわる……」
リンは呆れながら呟いた。肝心なところで、どうも格好がつかない。
シキに追い討ちをかけようと近づく獣に、リンは足元の石を拾って投げつけた。
それほど強い力ではない。拳くらいの大きさの石は、ゆるい放物線を描いて、獣の左肩のあたりに当たる。
ただ、気を逸らすためだけの一投。
一瞬、獣の動きが止まり、ぶつけられた肩越しに後ろを振り返る。
その視界にリンの小さな姿が見えたかと思うとーーそれはすぐに消えてしまった。
次の瞬間、周囲に大量の血が吹き上がる。
獣の悲鳴にも似た雄叫びが、遮蔽物のなくなった空に響き渡った。
リンは消えたわけではない。
一瞬にして獣の正面まで移動し、そのままの勢いで獣の顔を蹴り上げていた。
数秒かけて、獣の巨体が宙を舞い、それは真後ろの茂みへーーシキが飛ばされたところへ落ちる。
「あっ」
ちょっと間違えたな、とリンは思う。
「危ねぇ!」
シキはそのまま逃げられず、獣の体に押しつぶされたように見えた。
土煙のような、黒い靄があたりを包む。
リンは、シキの転がっていたあたりに小走りに近づいた。
獣の亡骸はどこにも無かった。
「シキちゃん……無事……?」
「なんとか」
シキは、リンが差し出した手を取って起き上がりながら言う。
「これだけ強い化け物を操れるんだ。もう、かなり近いところまで来てるはずだ」
「シキちゃん、気をつけて……他にもいくつか、気配がある」
遠くから、地鳴りのような音が聞こえて来る。それは振動を伴い、だんだん大きくなってこちらへと近づいて来るようだった。
いよいよ、敵の本隊と相見えるということだ。
ようやく動けるようになったシキが、地面を踏み締めて、迎え撃つ体勢をとる。
「そうだな。早いとこ終わらせちゃおう。
こちとら、ずーっとおなかペコペコなんだよ。
はやく終わらせて、ーー美味しいお菓子が食べたい!」
シキは力を開放した。
金色に光る頭から、ぴょこんと耳が生えてくる。琥珀色の瞳が見開かれ、光をまとって煌めく。
それとほぼ同時に、正面を覆っていた木が、奥の方から薙ぎ倒されて来る。
左右からーーそれどころか、ありとあらゆる方向からーー二人を取り囲むようにして、無数の獣たちが押し寄せる。
明らかに、ただの動物ではない。先程のと同じだ。巨大な異形の姿が二人を取り囲んでいる。
「ちょ、ちょっと、シキちゃん……こんな数の化け物を呼び出すなんて。無理……絶対、普通の狐には出来ない……」
小声で囁くリンを無視して、その群れの中央に、シキは飛び込んでいった。
「……なんでシキちゃんが突っ込んで行っちゃうかな!? さっきも返り討ちにあったばっかりなのに!」
無数の怪物たちがシキに襲い掛かる。
それらの攻撃を掻い潜ると、さらに群れの奥へ奥へと突き進んで行って、リンの視界からは見えなくなってしまった。
リンは自分目掛けて次々に襲ってくる獣たちを蹴散らしていくが、いくら力では圧倒できても、これだけの数を捌き切ることは出来ない。
それに、なにか手応えが変だ。もしかして、効いてないーー?
「シキちゃん!」
飛びついてくる、獣の腕を振りほどきながらリンが叫ぶ。
その時、リンの前方、シキが飛び込んでいった先から、獣のうちの一頭が飛び上がり、遠くへ逃げていこうとしているのが見えた。
それは、森が切り倒され開けた夜空に飛び出し、
ちょうどその真ん中に輝く満月と重なり、陰になったその瞬間、
「知ってる? 昔から、化け狐は犬が苦手だ、って言われてるんだよ。犬は鼻が効くからね。
私たちの目は騙せても、鼻はちゃんと、お前のことを捉えてる」
獣は、後から軽やかに舞い上がった狼の牙に捕らえられた。
_______
リンは、体が軽くなったように感じた。
いや、気のせいではない。今まで自分にしがみついてきていた獣たちがいつの間にか消えている。
辺りを見渡しても、今までの混乱が嘘のように、その大きな禍々しい姿も鳴き声も全て消え去っていた。
リンは思わず、その場に座り込む。
ーー全部、幻覚だった? あのたくさんの化け物たちも?
状況が読めないまま、リンはどこかへ飛び込んでいったシキのことを探す。
「……シキちゃん!」
リンの声に応えるように、獣の吠えるような声が返ってくる。
月明かりを背にして、一匹の狼が歩いてきたように見えたが、それは脇に小さな生き物を抱えたシキだった。
「……それは?」
シキは、捕まえてきたものをリンのほうに突き出して見せる。大きな耳と尻尾を生やした、小さな人間の姿をしていた。
「ううぅぅぅ……」
それは、シキに首根っこを掴まれ、威嚇のつもりか、ずっと呻いているが、
「……なんか、子供みたい?」
リンは自分の容姿のことを棚に上げて、素直な感想を呟いた。どれだけ睨みつけられても、怖いどころか、可愛さしか感じられない。
「〈ヤコ〉のたぐいだな」
シキは少女を地面に抑え込みながら呟いた。
野孤。
各地に様々な伝説の残る化け狐たちには、それぞれ階級があるとされ、それは野孤、気孤、空狐、天狐の順に高くなっていき、中国では修行を積むことで位を上げ、妖力を高めていくのだという。
「空狐、天狐ともなれば、善孤と呼ばれ人間に対し悪事を働くことはなくなるといい、民間に伝わる伝承においても、人を化かす狐は大抵が野孤であるとされる……らしい」
リンはリュックから取り出したタブレットで調べた内容をそのまま読み上げた。
シキはその野孤の少女を、自分の尻に敷いて押さえつけている。
「野孤は九州のほうに多く、現地にはたくさんの伝説が残ってるらしいが、そいつらの一部が、こっちの山に移動して生き残ってたんだな」
「うぅー……離せ、無礼者ー! でか尻ー!」
狐が妖力を手に入れ百歳を超えると、艶かしい女の姿となり、男を誘惑して力を奪うというのが定説だが、この狐は艶かしいというよりは、可愛らしいとしか言いようがない。頭の柔らかい耳も、背中から生えた尻尾も、彼女の体には不釣り合いなほど大きく、時おりぴこぴこと動いている。
「わしは、この山を統べる天狐なのだぞ!? どこの馬鹿妖怪か知らんが、こんなことをしてタダで済むと思うなよ!」
まだ諦めずに抵抗しようとするこの狐を見て、シキは嬉しそうに頭を押し付ける。怒鳴り続ける少女の口に湿った土が入り込む。
「最近じゃあ、こういう悪戯をする骨のある奴ぁめずらしい! その気合は好きだが、私たちもちょっと訳ありでなぁ。
ーー急いでるんだ。早くここから居なくなれ」
シキは、言いながら少女を押さえつける力を強めた。細い肋骨が軋み、限界に近づいているのが分かる。必死に耐える姿を見ながら、押さえつけるその手で、人間がペットにそうするように頭を撫でた。
「今回はまあ、運が悪かったと思いな。命まで取る気は無い。他の山で静かに暮らしなよ」
「い、や、じゃ!
いったい何なんだお前たちは! わしはこれでも、三百年の時を生きる由緒ある大妖怪なのだぞ!?」
少女は涙を流しながら、精一杯強がって答えるが、シキが今度は体勢を変え、四つん這いになって小さな体を組み伏せる。
二人の顔が近付き、シキの大きな伊達眼鏡が振り乱した狐の手の甲に当たって落ちる。狼の瞳がレンズ越しではなく直接、少女の双眸を睨みつける。
「悪いな、ガキ。……こっちは軽く千年超えてるんだわ。
その程度で天狐だって? 神を騙る不届き者は赦さない」
「ひっ」
少女は初めて単純な恐怖を見せた。動物の本能で命の危険を感じたのだ。シキの瞳は、いにしえの狼のーー生粋の猟犬の瞳だった。
「いやあぁぁぁぁぁあ!」
シキの瞳で見入られた少女は一瞬で取り乱し、泣き叫びながら暴れ出した。
最後に残っていた妖力をすべて放出すると、一瞬だけ怯んだシキを振り解こうとする。
「正気か!? そんなに力を使えば、存在を維持することすら出来なくなる……死ぬんだぞ!」
シキの体が離れた隙に、少女は飛び上がり、そのまま逃げようとする。
リンの位置からでは間に合わない!
シキは慌てて腕を突き出し、なんとか少女の右手首を掴む。
「離せよぉ!」
肉の引きちぎられる感覚。それから、熱い体温を帯びた血が噴き上がる。
少女はシキに掴まれた右手を自ら捨て離し、そのまま駆け出していた。
「いけない! そっちは……」
間違いない。
少女は町のほうへと向かっていた。
_______
力を使い果たし、腕も無くして今にも消えてしまいそうな狐の少女だったが、彼女にはまだ町の人間たちからの力の供給が残っていた。
もっと町の人間たちに近付いて、その命を吸い上げれば、とりあえず回復は出来る。
勿体ないけど、少しづつ育ててきた人間たちの命を、この際ぜんぶ取り出してしまおう。そうすれば、きっとあいつらだって倒せるはず……千年以上生きてるなんて言ってたけど、あいつらだってかなり弱ってるみたいだったし、一気に始末して、また町は作り直すことにしよう。
だって……
「だって、ここでずっと待っていれば……いつかまた、あなたに会えるもん、ね」
少女は力を込め、山の斜面から町のほうへと飛び上がった。
身体中が痛くて苦しい。それはきっと、体に蓄積された外傷のせいだけではないだろう。
死にたくない。
こんなに体じゅうで恐怖を感じたのは初めてだった。
それでも痛みに耐え、町の中心部へと続く、広い道を進んでいく。
すぐ後ろから大きな獣の気配がする。もう追い付いてきた。
ーーもう少し。あとほんの少しでいいんだ。
もっと人間の力を奪わなくては……
街灯のない、暗い道を走る。まだほとんど建物は無く、人の気配もしない。
このまま道を突っ切ろう。それで町の中央に行けば、たくさんの人間たちがそこに居るはずだ。
彼女の踏み締める地面に、時おり火の粉のようなものが叩きつけられ、少女を捕らえようとする。
山の斜面からまっすぐに飛んできたリンが、空中で火炎の弾をいくつも撃ち出していた。
それは鼠のように地面を這い回り、ふらついた少女の足を絡め取る。
「……あと少しなのに!」
思い切り転ばされた少女が、立ち上がろうと必死に手を伸ばす。
あと少し。もう少しだけ、力があれば。
混乱し揺れる視界の中で、少女は必死に生きるための手段を探す。
転ばされた長い道の先に、彼女は小さな人影を見つけた。
それは野孤の少女よりも少し大きめの子供で、彼女は軒先に立ったまま、シキとリンの帰りをずっと待っていてーー
「その命、よこせぇぇ!」
「えっ?」
狐の少女は最後の力を振り絞って、若菜のほうへ走り出す。もう人の形を維持する力すらなく、体の半分は黒い霧のように溶け出している。
そのままつかみかかろうとして、指が触れそうになった瞬間。
「やめろ!」
直前で追いついたシキの爪に捕まり、抑えられる。
掴んだ頭をそのまま地面に何度も打ち付け、そのたびにまた悲鳴が上がる。
もう、先ほどのような気丈さは残っておらず、普通の人間の少女のように、涙を流しながら力尽きようとしている。
「嫌……いや、死にたくない……」
シキは、縋るような潤んだ目を見つめながら、少女の細すぎる首を折った。
その獣のようなシキの姿を、若菜ははっきりとその目で見た。
あり得ないほどまばゆく輝く満月が、見つめ合う二人の姿を照らしていた。
_______
「……さっき、他の子たちから、寝たきりになってた人がみんな元気になってるって電話があって……それで、シキさんとリンさんがやってくれたのかな、って思って、外に出て帰りを待ってたんです。そうしたらーー」
若菜は二人の姿をしっかりと見つめる。
なんとか狐は斃したものの、もともと力を失いかけていた二人はほとんど限界だった。もはや取り繕う元気も無い。
狐の亡骸は跡形もなく消え去っていたが、今の二人の姿を見れば、それが普通の人間では無いことは子供でもすぐに分かる。
「……ごめん」
「中に、入りましょう」
若菜は二人に何も聞かず、家の中へと招いた。彼女が二人の、化け物の姿を見ても取り乱さないのがせめてもの幸運だった。
夜の町は、相変わらず静かなままだ。先ほどまでの怪異が嘘だったかのように。……それでも、今でも三人の中には、あの狐の少女の絶叫が、耳鳴りのようにまとわりついている。
この一帯は家の間隔が広く、他の住人に気付かれてはいないらしい。
「わ、若菜ちゃん……私たち、嘘をついてた……」
「いいんです」
若菜は二人の正体を、なんとなく理解してはいたが、それについて多くを聞こうとはしなかった。
「初めて見た時から、不思議な人たちだと思ってたんだ。それに、おじいちゃんたちの事も、普通の世界の話じゃないって思ってたし。普通の人なら、タタリのことなんて、どうにも出来なかったよね」
三人は再び、階段を登り祖父のいる二階へ向かう。
狐が消滅し、生命力が戻ったにしては、祖父のいるであろう部屋は静かだった。二人が山へ向かう前に立ち寄った時と同じ、風と動物の音のほかには何も存在しない。
祖父のいる部屋に入る。彼は身じろぎもせず、横たわったままだった。
「……? 確かに力は戻ってるはず。どうして……」
リンは祖父をよく観察する。どこにも異常はない。しかし、彼の様子はそれまでと全く変わっていなかった。元気になったという感じではない。
若菜が側に座り込み、祖父の顔に指で触れる。
「他の人たちは、みんな元気になったって……でも、おじいちゃんだけはこのままなんです。どうして……」
「寿命だ」
シキがすぐに答える。
「あの狐の術とは関係なしに、この人は元から寿命が近かったんだろう。
……まさか、それが今日だとは、思わなかったけどね」
「そんな」
リンが振り向いてシキの方を見る。
「そんな……せっかく上手くいったのに。こんなの、あんまりだよ。若菜ちゃんがいるのに……」
若菜は、ずっと黙ったままだ。
町の、他の人たちが回復したという話を電話で聞いて、彼女は喜んだ。
きっと、すぐにおじいちゃんもよくなる。少し時間はかかってるけど、二人がタタリを解決してくれたんだ。少し時間が経てば、また一緒に楽しく暮らしていける……
そう思っていただけに、シキの告げた言葉は残酷だった。
先ほど外で見た、小さな子供を容赦なく殺す獣の目のように。
それでも若菜は、かたわらに立っている二人に縋り付く。
「ねえ、お姉ちゃんたちの力なら、人を助けることだって…」
シキは膝をつき、若菜と目線を合わせてその肩を抱いた。
「悪しきものを取り除いたところで、いずれ人は死ぬ。それだけは絶対に変えられない。
化け物に力を奪われて、普通よりも弱ってはいたが、そうでなくてもこの人は衰弱していたんだ。
どうやって手を尽くしたところで、この人は今この時に、寿命を迎える運命だった。それだけだ。
……私たちにとってはたかが数十年だが、おじいちゃんにとっては全力で生きた時間だ。その天命を曲げてまで生きながらえさせることは、その人の生きた時間に対する冒涜なんだよ。
それをすれば……その人はもう、人では無くなってしまう」
若菜は俯いて、シキの言葉を受け止める。
当然のことだった。
もともと、祖父は体力も衰え、生涯を捧げた菓子職人としての仕事も辞めてしまうほど弱っていた。今さら、少し力を取り戻したところで、根本的な解決にはならない。
わかりきったことだ。
しかし、ここまで祖父がひどい状態だったとは思わなかった。
せめてもう少しは、生きる力が残っていると思ったからこそ、シキとリンも今回の件に関わっていったのだ。
人ひとりの運命など、どれだけ強い力を持っていたところで、現世に生きる者にわかるはずはない。
三人の間に、長い沈黙の時間が流れる。
もう、出来ることは何も無い。
ただ、人間にはどうすることも出来ない、運命というものに打ちのめされるだけだった。
祖父もそうだが、このままでは二人もやがて消えてしまうだろう。予想以上に、狐退治で力を消耗してしまっていた。
「……若菜」
ふと、乾いた小さな囁きが三人のあいだに聞こえてきた。
若菜は後ろを振り向く。
今までずっと、身じろぎひとつしなかった祖父が、その目を開き、若菜のことを見ていた。
「若菜。お前は……お前がやりたいことをやれ」
祖父は、もう指一本動かせないようだった。
ただ力を振り絞って、目だけで若菜へ語りかけようとしているようだった。
「おじいちゃん……」
それ以外に、彼は何も言わなかった。
彼の命は、まさに今、消えかけようとしていた。
もう時間は残されていない。
若菜と祖父は、ほんの少しの間だけ、何も言わずに見つめ合っていたが、彼はまた、すぐに目を閉じると何も言わなくなった。
若菜も、ゆっくりと立ち上がる。
ーー先ほどまで若菜の側に居た二人は、いつの間にか廊下に出て、壁にもたれたまま肩を寄せ合い、座り込んでいた。
「リンさん、シキさん」
声をかけられ、二人は力ない目で若菜を見つめる。
「あの……実は私、レシピは知ってるですよね。
私が、作りましょうか? お菓子」
本当はもう返事も出来ないほど疲弊していたが、それでも二人は顔を上げて若菜の話を聞く。
「……昔は私も、おじいちゃんの手伝いを、ちょっとだけしていて……いろいろ教えてもらっていたんです。おじいちゃんみたいに上手くないから、ちゃんとしたものが作れるかどうか、分からないけど」
「……いいの? 最後なんだから、ずっとそばにいてあげた方がいいんじゃない?」
シキは、なんとかしていつも通りの声で返事をするが、弱りきっているのは明らかだった。
若菜は少しだけ、笑いながら答える。
「約束……狐さまのことが解決したら、最高のお菓子を作ってあげる、って。
おじいちゃんは元気になってないけど、狐さまはちゃんと退治してくれた。町の、ほかの人たちもみんな治ったって言ってる」
二人は何も答えない。というより、もう答える力も残ってはいなかった。
若菜は、ボロボロになった二人を讃えるように、自分の胸に抱き寄せる。
「二人とも、まだなにか、隠してるでしょ。きっと……どうしても、お菓子を食べなきゃいけない事情があるんだよね?
……それと。
最後におじいちゃんに、私が作ったお菓子、食べてもらいたいなって、思ったの。
待っててよね。頑張るから」
ぼた餅というと、炊いた餅米を軽く搗いて、丸めたものに餡をまぶした和菓子のことをいうが、鳥取県の西端に位置する弓浜半島は古来より砂地が多く、稲作には不向きな土地であった。
そのため、この地域では江戸時代よりサツマイモの栽培が盛んになり、貴重な餅米をサツマイモとサトイモでかさ増しした「いもぼた」という郷土食が誕生したという。
若菜は、二階の台所に材料を集めると、手早く菓子を作り始めた。
リンとシキが動き回っているあいだに、材料を集めて下準備だけはしていた。
祖父が店を開けていた頃から、下準備は若菜が全部やらせてもらっていた。
今日は、そこから先ーーすべての作業を自分だけでこなす。初めてのことだった。もう何年も見ていなかったが、ずっと祖父のそばで見守っていたのだ。体のほうは自然に、その動きを記憶していた。
すぐに、上品な黒い皿の上に彩られた三色の餅が、死にかけた二人の前に差し出される。
「お待ちどうさま。上手く出来てるか分からないけど……」
「たべさせてー」
二人は力なく答えた。もう、子供の前で外面を取り繕う元気も無い。
若菜は竹楊枝で一口大に切り分けると、力なく開けられた二人の口まで運んでやる。
すぐに体が甘味を受け入れ、二人の細い喉が軽く上下する。
ーー若菜は一瞬、二人の体が稲妻のように光り輝いたのを見た気がした。
「……ぴこーーーん!!」
「美味しい!!」
リンが飛び起き、先ほどの死にかけた状態が嘘のように力を取り戻していた。額から髪をかき分けるようにして、二本の細い角が生えてくる。
「……私たち、力が戻ってきてる……!」
「あー。なんとか生き残ったな」
シキも久々の絶品を前に、獣の耳をあらわにしている。
二人はそれからすぐに、ぼた餅を平らげてしまうと、若菜に声をかけた。
「若菜」
向こうの部屋にいるはずの、若菜の返事はない。
先ほど、二人ぶんの菓子皿を片手に、祖父のほうに行ったはずなのだが。
「……若菜?」
二人は部屋の中に入り、若菜に声をかける。
若菜は、祖父の枕元に皿を置いたまま、食べさせようともしていなかった。
祖父はすでに呼吸をしていなかった。
_______
長い夜が明けた。
朝早くから、町はいつも以上に活気を取り戻しているように見える。
皆、狐のタタリが終わったと言って喜んでいるらしい。
若菜の祖父が亡くなったことは、まだ誰にも言っていなかった。
「若菜ちゃんは、これからどうするの……? すぐに、お母さんのところに行っちゃうの?」
リンが、手を繋いで一緒に玄関へ向かう若菜に問いかける。
シキは先に軒先に出て、小さく欠伸をしながら眩い太陽の光を浴びていた。
「私、ここでもっと、お料理のこと勉強してみようと思うんだ」
若菜は、リンとシキの顔をもう一度、よく見上げて答える。
「この町って何もないけど、無くしちゃいけないものって、あるのかもしれない。大人になってから、都会に行くかどうかは、わからないけど。
でも、きっと、ここでしか得られないものも、まだ残ってると思うんだ。
……おじいちゃんのお菓子も、もっと作り方を研究しておきたいし」
シキは、最後にもう一度、若菜のことを抱きしめてやりたくなった。
でも、それは出来なかった。
自分の足で立って、進んで行こうとする強い人間には、それは不要な慰めだと分かっていたから。
「そしたら、次に来た時は、もっと美味しいスイーツを振る舞っておくれよ。それが私たちの、生きる糧になるのだから」
たった一日の出会いだった。
ずいぶんと色々なことがあったが、終わってみればあっという間の話だ。
二人はまた、どこか遠い土地へと旅立つ。どこへいくのか、どちらの方向へ歩いていくのかも決めていない。
それでも、とにかくまた、遠くへ行くのだ。
二人は賑わう町とは逆の方向へ、誰も歩いていない広い道を歩いていく。
若菜が声をかけてくれたが、もう振り返ることはしなかった。
「……寂しい?」
「まさか。人はみんな百年もすれば死ぬ。いちいち寂しがってちゃ、キリがないよ」
「嘘つき。
シキちゃんってさ……意外と子供大好きなんだ。わたし知ってる……」
「さあね」
二人は再び旅立つ。
喜びと悲しみの中を生き続ける人間たちの姿と、それからーーたまには日本中の絶品スイーツを求めて。
大妖怪スイーツ喰らい 第1話 おわり