オリジナル

濁りの淵の淀みの手 ――犬

以前、書くだけ書いて公開の機会がなかった作品を試験的に。ヒロピンじゃなくてスマン。
垣野内成美先生の『吸血姫美夕』シリーズが好きで好きで、あの雰囲気を出しつつ自分なりに書くならどうなるかな、という着想で走らせてみたもの。
一応、続きのプロットも作ったはずだけれど、エッチ小説執筆が忙しくなってしまったのでおそらく実現しないものと思われる。まぁ、供養ということで。

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「犬は人類の最も古くからの、そしていちばんの友だよ」

 宴席の片隅で、藍色のジャケットを着た若い男が、すこし気取ったように言った。


「犬ってかわいいよねぇ。裏表がなくて、けなげで、忠実で」

 小さな事務所にある喫煙室で、スーツ姿の女が、冗談めかした口調で言った。


「ポン太はほんとうに、賢いねぇ。人間よりもずっと賢いよ」

 古びた日本家屋の縁側で、髭を生やした白髪の老人が伏せたシェトランドシープドッグの背を撫でながら言った。



「そう――」

 薄暗い池のほとりに、くすぐるような、ささやくような少女の声がする。

 公園と言うにはあまりに荒れ果てた、小さな池のそばに、黒いワンピースを着た小柄な人影があった。肩口で切りそろえた黒髪を揺らして、はずむような足取りで水辺を歩いている。

 明かりといえば、木々の向こうにある人家や外灯の光しか届かない、そこだけ忘れ去られたような場所だ。ただ、町からやってくる生活の音だけはかすかに聞こえてくる。周辺の家の――いや、遠すぎて聞こえるはずのない繁華街のざわめきまでが、不思議と聞こえてくるような、そんな気もする。

 少女は笑みを含んだ声で、誰にともなく、つぶやく。


「揺らがない信頼、くもりのない献身。とても愛らしくて、残酷だわ。そう思わない?」


 池に張り出すように生えている、くたびれた老樹へ向けて問いかける。いや、その根元に座っている男へ向けて、だったようだ。

 青磁色の無地の着流しを纏った、つかみどころのない印象の男だった。何より際立つのは、木でできているらしい、古風な犬の面をつけていることだ。

 男は無言のまま、池に映るかすかな影を見つめている。一方の少女は、返答がなかったことなどお構いなく、上機嫌に言葉を継いでいた。


「純粋さって、鏡のようなものでしょう? 純粋なものと向き合って、もしそこに濁りがあったとしたら、その濁りの原因は間違いなく自分自身なのだもの」


 男のすぐ横に立つ。それでも、返答はない。

 周囲をざわめきが走る。が、それが風にあおられた木々の枝葉の音なのか、遠くから聞こえる人々の声なのか、判然としない。


「……ねぇコウヘイ。あなたは、なぜ犬の面を選んだの? そんなに犬好きだったかしら」


 それまで、置き物のように微動だにしなかった男が、初めてわずかに身じろぎをした。素っ気ない、けれどどこか芯の通ったような強さを持った声だ。


「俺は、ただの犬になったつもりはない。久々理、お前の犬になったんだ」

「わたしの?」


 久々理と呼ばれた少女は、わずかに首をかしげる。続く男の言葉には、少し自嘲したような響きが含まれていた。


「ああ。お前にだけしっぽを振る犬さ」


 少女は、黒髪を揺らしてくすくすと笑う。


「ウソばっかり」

「……」

「人間にも、人間たちの社会にもたっぷり未練を残しているくせに。とうの昔に人間をやめているのに、仮面なんて必要としているのも、そのせいだわ。犬になりたくてなりきれない、かわいいヒト」


 男の隣にゆっくりと腰を下ろし、その肩にしずかにもたれかかる。

 コウヘイと呼ばれた男は、相変わらず黙って水面を見つめていた。


「それとも……。それとも、わたしの濁りが、あなたを純粋から遠ざけている、のかしら。あなたは、わたしの鏡だから」


 男は、少女を見ない。池の表面を走るさざ波を見つめながら、ただ答えた。


「関係ないさ。俺は、犬だ」


 コウヘイの肩に頭をのせたまま、久々理はころころと笑った。


                  ※

 ぼくは人間ではないんです、と言われた時には、さすがに面食らった。

 もちろん最初は冗談だと受け取った……まさか文字通りの意味だなんて、ふつうは思わない。

 その子は、栗色の髪に、私の腰くらいまでしかない背、くりっとした丸い目と、女の子みたいに高い声が特徴的な子だった。くせっ毛で、いつも頭の両側の髪が大きく跳ねている。どんなになおしても、そうなってしまうのだそうだ。

 見たところ、10歳くらいの男の子だ。

 今もそうだし、5年前もそうだった。


 彼、柴くんと最初に会った時は私はまだ中学生で、人懐こく分からないことを聞いてくるものだから、ちょっとお姉ちゃん風を吹かせて悦にいったりしていたものだった。ところがそれから5年経っても彼は人懐こい小さな子供のままだった。そろそろ高校卒業が見えてきた私は、けれど不思議と、そのことに疑問を持ったことがあまりなかった。月に一度くらいしか会わないせいでもあったけど。

 結局私は、何もかもが手遅れになってから、その意味に気付いたのだった。




「それじゃ、そろそろ行ってくるよ」


 家の奥へ向かって声をかける。それで、ちょうど居間を出てきた父さんがこちらを見て、不機嫌そうな、すまなそうな、複雑な表情をこちらに向けた。


「おう、奈々、手間かけて悪いな」

「別に、ちょっと遠まわりするだけだし」


 大きめの茶封筒を胸に抱えて、私は言う。けれど父さんの渋面はそのままだ。


「お前ももう受験だ、こんな雑用に駆り出したくはないんだがな。あの強欲ジジイ、まだしぶとく生きてやがるのか」

「そういう言い方、よくないって。あの人も今は……」

「知らん。さっさとくたばればいいんだよ」


 父さんの、あの人に対する怒りは放っておけばいくらでも湧いてくるのは知っていた。あまりひどい言葉を聞きたくないので、適当なところで家を出てしまった。


 父だけでなく、近隣のほとんどすべての人から嫌われている、その人は名前を宝田寛二さんという。私の住むこの町の半分近くを占める大地主さんで、全盛期にはたいへん羽振りが良かったらしい。ただ、その頃にやたらとあちこちの人に裁判を吹っかけたり、地域のお祭りを中止させたり、とにかく恨みを買うようなことを散々やったのだと聞いている。

 少なくとも私は、宝田さんを良く言う人を一人も知らない。……あ、違った。一人しか知らない。


「どうにかなんないのかなぁ」


 片手でカバンを振り回しながら、青空に向けてつぶやく。私は、恨みを買っていた頃の宝田さんを知らないのだ。知っているのは今の、“あの”宝田さんだけなので、父さんや近隣の人たちの怒りに、いまいち共感できないままなのだった。

 柴くんみたいな子が宝田さんのことを慕っているから、なおのことだ。


 毎月、何やら書類を提出しなければならないとかで、私はいつもより家を早く出て、宝田さんの屋敷に出向いている。

 いつもの通学路からちょっと外れるだけなのだけど、その道はこの町で一番標高の高い丘、というかほとんど小山といった方が近い場所まで続いていて、夏場には汗だくになるくらい大変だった。自動車で乗り付ければどうってことはないんだろうけど、あいにくと徒歩だ。

 10分ほどの軽い山登りの末に、大きな門にたどりつく。ロータリーになった前庭と、その中央には噴水も据えられているのだが、今は水など出ていない。というか、門の中は閑散としていて、外観だけ見ればほとんど廃墟なのだった。

 宝田さんには失礼だけど、夜中には絶対に近づきたくない。

 人気のない、広すぎる庭を通って屋敷の入口に着くと、外観からは意外に思えるほど、掃除の行き届いた玄関にたどり着く。呼び鈴を鳴らすと。


「あ、奈々おねえさん、こんにちは!」


 柴くんがドアを開け、元気にあいさつをしてくれる。


「うん、こんにちは。宝田さんは、体調はどう?」

「だいぶ良いみたいです、お陰さまで」


 少年は明るく言いながら、奥に通してくれる。

 屋敷の中も、小奇麗によく掃除されていた。とはいえ、かえって異様な情景でもあった。広い玄関ホールはまっさらな壁に囲まれ、床も固い石が剥き出しで絨毯ひとつない。明らかに絵画のひとつも飾らなければ格好がつかない広さの壁が、何もかかげず殺風景さをさらけ出している。

 かつてはここに、なんだかいう有名な画家の絵がかけられていたとは聞いている。今はなくなってしまった、というだけだ。


「旦那様は、今日はとても食欲がおありになって。朝食を残さず召し上がってくださいました」


 廊下を先導しながら、浮き浮きした様子で柴くんは話す。私もついつられて、楽しくなってしまうくらいの明るさだった。この子はいつもこんな感じだ。

 宝田さんの寝室に通される。せっかく分けてもらった明るい気分が、いつもここで少ししぼんでしまう。

 鼻をつくのは、消毒液のにおいだ。いや、正確には、病室に似たにおい。

 宝田さんはいつも、この部屋のベッドで上半身を起こして、部屋に入ってくる客人をじっと見ていた。白髪は後退して後頭部だけにまばらに生え、頬はこけ、いつも疲れ切ったような表情をしている。


「旦那様、井之原奈々さんがいらっしゃいました。僕はお茶をいれてきますね!」


 言い終わりもしないうちに、たたたっと部屋を出て行ってしまう。本当に、いつ見ても元気な子だ。ともすれば滅入ってしまいそうなこの家を、あの子一人が明るく保っている。


「こんにちは。こちら、いつもの書類です。確認お願いします」


 返事をするのも億劫だといった様子でうなずく宝田さんに、茶封筒を渡す。細く骨ばった指で書類に目を通す宝田さんに、なんとなく声をかけた。


「柴くん、いつ来ても元気ですね。私、あの子に会うのを毎月楽しみにしてるんですよ」

「そう、かね……」


 返答は、弱々しい、戸惑ったような声だった。どこか落ち着かない気分にさせる、そんな声だ。


「あの、何か、不便なこととか、あります? 私にできることなら」


 ついそんなことを聞いてしまう。父さんがこの場にいたら私が怒られかねないような差し出がましい申し出だ。父は宝田さんと顔さえ合わせたくなくて、それでわざわざ私を使いに出してるくらいなのだ。……とはいえ、やっぱり気弱な人を見ていると、落ち着かないし、出来ることくらいしたくなってしまう。

 私の言葉に改めて顔をあげた宝田さんは、静かに首を横に振った。


「不便なことは、無いなぁ。柴が、ぜんぶ、よくやってくれてる」

「そうですか……やっぱり、柴くん、すごいんですね」

「うむ。そうだ。井之原の娘さんや、もし構わなければ、一つだけ頼みたい」

「なんでしょう。私にできることなら」


 意気込んで聞く。そんな私の様子を見ながら、けれど宝田さんの言葉はどこか歯切れが悪かった。


「うん。柴にな、何か欲しいものや、何でもいい、希望があったら聞き出してほしい」

「ほしいもの、ですか?」

「そうさ。あれはな、休み無しにわしの世話をしてくれておる。この5年間、一日も休まずだ。いつ寝ておるのかもわからん。それほど尽くしてくれておるのに、何も受け取らないんだよ」

「何も……って、お小遣いとかもですか?」


 老人は困惑した表情でうなずいた。


「金も受け取らんし、何か欲しいものをやろうと言っても笑ってとりあわん。ともかく、何の報酬もないまま、わしの世話をし続けておるんだ」

「そんな、ことってあるんですか。私、あの子は宝田さんのご親族か何かだと、てっきり……」

「そう思うのも無理はないんだが、そうじゃないんだ」


 絶句する。そんな私の表情を見て、改めて戸惑いを深めたかのように、宝田さんは両腕で頭を抱えて首を振った。


「恥ずかしいことだが、こうして体を壊したのを境に悪いことが続いてな。かつて使用人を20人以上も働かせていたこの屋敷に、気づけばわしの世話をしてくれる者が誰ひとりいなくなった。よほど嫌われておったのか、親族とて誰も寄り付かん。途方に暮れていた頃に、あれがひょっこりやってきて、わしの身の回りの世話を始めたのさ。白状すれば、あの子がどこの誰なのか、わしは知らん。どこの馬の骨ともわからん小僧っこが勝手に家に入ってきたようなものなんだが、不思議と昔から知ってるような感じがしてな。気が付いたら、あれだけが頼りになっていた」


 あまりにも予想外の話で、相槌をうつのも忘れてしまうほどだった。

 けどそれって、怖くないだろうか。夜中には柴くんと二人きりになるわけだし。あんなに愛想がよくてかわいくて、一生懸命尽くしてくれる親切な子だとしても……いや、だからこそ。


「もう、ろくな蓄えもない身だが、せめてあれに何か返してやりたいんだよ。若い者同士なら、何か話してくれるかもしれないと思ってね」

「……はい、そういうことなら。じゃあ、帰りがけにちょっと聞いてみます」


 ちょっと安請け合いしたかな、とも思うけど。宝田さんの様子は、無下に断るにはちょっとかわいそうな感じで……結局私は、そう答えたのだった。

 柴くんのいれてくれたお茶を少しいただいた後、お礼を言って屋敷を出る。見送りに来てくれた小柄な彼に、私はできるだけさりげなく、話を向けた。


「柴くん、いつもそんなに頑張ってて大丈夫?」

「ぼくですか? はい、平気です。旦那様はとてもよくしてくれますし」


 本当に、屈託なく笑って言う。聞いた私の方が気おくれを感じてしまうくらいだ。


「でも、たまには休みだって必要でしょう? こう、自分にご褒美みたいな、そんな感じで欲しいものとか食べたいものとか、ない?」

「ないですね。そういうの、なくても大丈夫なんですよ、本当に。だってぼくは、人間じゃありませんから」


 何でもないことのように言われて、思わず足が止まった。そんな私を、邪気のない笑顔で柴くんは見上げていた。どんな心配も、疑いも、邪推も差し挟む余地のない完璧な笑顔に、その瞬間私はなぜか、言い知れない怖さのようなものを感じていた。


                   ※

 ブロック塀が続く路地裏を、奇妙な人物が歩いている。

 青磁色の着流しに、地下足袋で町中を闊歩しているだけでも珍しいが、何より目を引くのは目と歯を剥き出した犬の面だった。夜も更けて人通りがないとはいえ、明らかに不審な格好にちがいない。

 わざわざそんな身なりをしているにも関わらず、男の足の運びは落ち着いた速足で、どこか都会的ですらある。四つ辻に出た際に左右に目配りする仕草も、どこかの調査員か探偵のような如才なさを感じさせた。

 やがて、男が歩く先にもう一人の人影が見えてきた。街灯に照らされた路地の道端に、黒いワンピースを着た少女が立っている。色白で、艶やかな黒髪を肩口で切りそろえているせいか、顔つきだけ見ればどこか日本人形を思わせる。もっとも、色白もここまでいけば、むしろ不穏さの方が上回るところだが。

 少し離れたところに本物の野良犬が伏せていて、少女はゆっくりと近づこうとしているのだが、犬の方が顔を持ち上げて威嚇を始めるのでそれ以上近づけずにいるのだ。


「何やってんだ、久々理」


 男があきれたように声をかける。その見た目からは意外なほど、若く張りのある声だった。

 久々理と呼ばれた少女は、男の方に視線を返した。珍しく、渋い顔をしていた。


「どうしても、嫌われるのよね。わたし、こういう犬って嫌いじゃないのだけれど……犬の方から好かれた試しがないわ」

「犬なら、俺がいるだろ。それとも俺以外の犬が欲しいのか?」


 言いながら、男は仮面を外して素顔を見せた。若い男の顔だった。仏頂面だが、精悍で鋭い顔つきをしている。ただ、その瞳にだけは、疲れ切った老人のような曇りが見られる。

 ぶっきらぼうな男の言葉に、久々理はようやくいつもの、鈴を転がすような小さな笑いで応えた。


「眷属は多い方がいいかと思って」

「ひどい言い草だ。お前の一番の走狗にかける言葉がそれかよ。こっちは休まず駆け回ってるってのに」

「なぁに、すねてるの?」

「別に」


 着流しの男は投げやりに言って、改めて少女を正面から見据えた。


「例のやつだが、この町の北側、山の中にいる。廃れかかった屋敷があって、そこに住んでやがる。特に身を隠すつもりもないらしいが」

「無垢とはそういうものよ。あの連中はなんの作為も持たない。それでも長く潜伏できていたのだとすれば、きっと接触する人間が極端に少なかったのね」


 話しながらも、久々理は足元の野良犬に手を伸ばそうとしては、歯を剥きだした威嚇に阻まれて近づけないでいた。しばらくその様子を無言で見つめていた男は、仕方ないといった風で横から口をはさむ。


「そんなに手懐けたきゃ、エサでも買ってきたらどうだ? すぐそこのコンビニに、犬用のビーフジャーキーくらい売ってるだろ」

「ビーフ、ジャーキー?」


 聞きなれない単語に首をかしげる久々理に一番名の知られた商品名を伝え、さらに人間の使う貨幣などお持ちでない少女に千円札を一枚渡して、隣の通りにあるコンビニを指し示す。言われるままに歩きだす背中を見ながら、男は軽く嘆息した。



 数分後、ビニール袋をさげた久々理が戻ってきた時には、仰向けに寝転んだ野良犬の腹を男が撫でてやっているところだった。

 珍しく壮絶に渋い顔をする久々理を、これも珍しく笑みを浮かべた着流しの男が迎える形になった。野良犬はといえば、今やくんくんと甘えた声さえ出している始末だ。


「……犬同士で気が合う、ということ?」


 なぜかとげのある声で言われても、男の相好は崩れたままだった。


「さてね。わりと人懐こい犬だ。エサがあれば久々理にも懐くんじゃないか」


 しばらく口を尖らせていた久々理も、仕方なくビニール袋の中から細長いビーフジャーキーを取り出して、包装をぎこちない手つきで破り、犬の方に差し出した。

 野良犬は頭を向けて一瞬ビーフジャーキーに気をひかれたが、視線がその先にいる久々理をとらえると、やはり歯を剥きだして威嚇し始めるのだった。

 気がつくと、男がにやにや笑いながら久々理を見ている。黒衣の少女は、今や明らかに不機嫌な様子でそちらを見返す。


「……何よ」

「いや。お前のそんながっかりした顔、めったに見られないからな」

「あなたのそんな緩んだ顔も、だけど」

「ちょっと貸してみな。見たところ腹を減らしてるようだから、エサで十分釣れるはずなんだが」


 久々理の手から成型肉の棒を奪うと、犬の方にひょいと差し出す。今度は、眼の色を変えた野良犬が躊躇なくそれにかぶり付いた。「そら見ろ」などと言っているうちに、久々理の堪忍袋の緒は完全に切れたらしかった。男に背を向けて、さっさと歩き去ってしまう。気付いた男が、最後に野良犬の頭を一撫でして立ち上がり、その後を追う。

 しばらくは無言で夜の町を歩いた。

 特に珍しいものがあるでもない、小規模な地方都市だ。もはや日本中どこでも大して変わり映えのしなくなった町並みをただ歩くばかりでは、沈黙に耐えるにも限界がある。


「それで、どうやって獲物に接近するんだ?」

「……」

「俺の調べた限りじゃ、逃げ出す公算は低い。とはいえ、無計画に近づいて余計な手間を増やすのも面白くないだろ」

「……」

「おい、久々理」


 不意に立ち止まる。くるりと振り向いた少女の手には、包装をはずされた新しいビーフジャーキーがあった。いつもより数割増しで意地の悪い笑みを浮かべつつ。


「余ってしまってはもったいないわ。同じ犬なのだし、案外食べれるんじゃない?」


 いつの間にか無表情に戻っていた男は、突き出された肉と久々理の顔とを交互に二往復ほど見つめたあと、すっと前かがみになり、半端に長い前髪を片手でよけながら、ジャーキーにかぶりついた。

 目を丸くする久々理の前で、ゆっくりと咀嚼する。


「それ、本当に食べて大丈夫だったの?」

「ん……思ってたよりイケる。最近のワンコロは良いもん食ってるんだな」


 男が無言で咀嚼を続けるので、久々理は改めてかじりかけのジャーキーを見た。どうにも気になったのか、やがて決意したようにそれを口元に運び、先端1センチほどを静かに噛みちぎって、口に含んだ。

 そして、眉根を寄せた形容しがたい表情で、飲み下した。


「やっぱり、犬の好みはよく分からないわ」


                   ※

 宝田さんから頼みごとをされた翌日。土曜日で学校は休み。

 気になってしまって、結局私は適当な理由をつけて家を抜け出し、再び山の上の屋敷へと向かっていた。柴くんの希望は聞き出せなかったけど、なんにせよ頼みごとの結果がどうなったか、知らせないのも気持ちが悪かったからだ。

 それに、父さんから託されたお使いはもう無い。それでも訪れたなら、つまりプライベートで遊びに行くようなものだ。お仕事のお客さんでないのなら、柴くんも今までよりもっと打ち解けてくれるかもしれない、とか、そんな淡い期待も抱いていた。

 こんなことで休日を潰すの、我ながら物好きかなという気もするけれど、昔から一度気になると放っておけない性格なのだ。

 けれど、いつもの通学路から外れて山に入っていくちょうど分岐点のところで、私は否応なく足を止めさせられることになった。人が立っていたのだ。

 私より少し背が低いくらいの女性で、不思議な仕立ての黒のワンピースを着ていた。ポケットも襟も、装飾らしい装飾もない服で、ただその色だけがむやみに黒い。そういうコンピュータ合成の映像を見ているんじゃないかと思うくらい、あるいは自分の目がおかしくなったんじゃないかと思えるくらいの濃い黒。まるで日本人形みたいなおかっぱ頭の髪も黒くて、ただ顔と指先だけが白い。ほとんど病的なくらいに、白い。

 幽霊か何かに出会ったかと思うほど、ぎくりとした。けれど相手はニコリと微笑んで、私の方へゆっくりと歩み寄ってきた。少なくとも幽霊ではなさそうで、少し安心する。


「こんにちは。あなたは……この上のお屋敷の人?」


 高い声音の、くすぐるような声だ。きれいで耳に心地よい響きなのに、聞けば聞くほど不安をかきたてられる。

 なんだろう。あまり関わらない方がいい気がする。


「こんにちは。えっと、私はその、用事があってたまに顔を出してるだけで……」

「ふぅん。それなら都合がいいわ。あの家には近付かないことよ」


 気のせい、だろうか。黒づくめの女の子の背後に広がる森、その木々の間に広がる暗がりが、ぐっとこちらへせり出してきたような、妙な感覚を覚えた。


「それって、どういう……?」

「関係ないことで面倒に巻き込まれたくはないでしょう? こちらもその方が都合が良いの。聞き分けてもらえないかしら?」


 自分に、生物としての生存本能というのがあることを、久しぶりに思い出した。何がなんだか分からないのに、なんの説明もできないのに、ここから逃げなければという切迫感だけが湧いてくる。

 暗がりが、闇が、じわじわと森から染み出してくる。天気は晴れていて、私の立っているここは日なたなのに、うっすらとした「暗さ」がすぐ近くまで這い寄ってきている……ような気がする。


「あなた、誰?」


 思わず、そう尋ねていた。本当は聞くべきではなかったかも知れない。相手はわずかに目を細め、笑みを深めた。


「わたしは……泉美久々理。顕界にありえざる者を隠世に返す、千引きの岩の見届け役。人間に用はないから、わたしの役目を妨げないかぎり、あなたには何も起こらないでしょう。ここで引き返すのが賢明だと思うわ」

「何言ってるのか、ぜんぜん分からない。いったいどういう……」


 そこでようやく、思い当たる。現実離れした、馬鹿みたいな符合。でも、多分、おそらく、そういう意味だ。他に受け取りようがない。

 人間には、用がない。人間じゃないものに、用が、ある……ということだ。


「もしかして、柴くんに何かするつもり、なの?」


 久々理と名乗った少女は、くすくすと笑った。


「柴。そう呼ばれているのね。元が犬だから? 安直ではないかしら」

「質問に答えてよ、柴くんをどうするつもりなの?」

「言ったでしょ。この世にあるはずのない存在を、本来あるべき場所に返すの。永遠にね」


 気がつけば全身が汗だくになっている。冷や汗で身体が凍えそうだ。

 目の前に立つ“何か”が、一体何を言っているのか、よく分からない。けど柴くんに何か危害を加えようとしているらしいことは、何となくわかる。

 だとしたら、どうして。


「ねぇ、待ってよ! あの子がいなくなったら、宝田さんが困るの! お願いだから聞いて。あの子、寝たきりの宝田さんの面倒をずっと見てきたんだよ、一日も休まず、ずっと、何年もずっとだよ。何も悪いことしてないのに、なんで……!?」

「そうでしょうね」


 予想外の返答がきて、言葉に詰まる。相手は、笑みを浮かべたまま、楽しそうに言葉を継いでいく。


「わたしは、あれらを“無垢”と呼んでいるわ。きっと非の打ちどころのない、善良で温和で優秀な子でしょう? それが無垢というもの。ほんのわずかの悪心をも抱かない、それゆえに決して人間とは馴染まない」

「なによ、それ……善良なのの、何がいけないのよ!」

「何もいけないことはないわ。でもあの子は人の世では暮らせない。混じり気のない善良さに耐えられないのは、あなたたち人間の方でしょ?」


 会話はそこで途切れた。

 強烈な光に目がくらんで何かを見失うという経験ならあるけど、逆の場合は初めてだった。写真のフラッシュで視界が一瞬白く消えるように、膨らんだ闇がはじけて目の前を覆って……気づいたら、久々理と名乗ったあの女の子の姿は見えなくなっていた。

 いつも通りの明るい小道だ。

 緊張が解けたせいか、まるで水から顔をあげたみたいに大きく息を吐く。心臓が痛いくらいに鳴っている。

 けれど止まってもいられない。引き返すことも考えに浮かばなかった。とにかく柴くんの身に何かが迫ってるのは間違いない。あんなの相手に何かできるとは思わないけど、せめて知らせるくらいはできるかもしれない。

 私は、走り出した。



 手すりもないような急な階段。だらだらと長い坂道。駆け上って、宝田さんの屋敷の正面に出る。荒れた前庭を駆け抜けて、玄関にたどり着く。息切れで目の前がちかちかするくらいだったけど、呼吸を整えるより先に呼び鈴を鳴らした。

 間に合っただろうか。普通に考えて、あんなよくわからない、人間じゃないものよりも速く走って来れるはずがない気もする。学校では帰宅部の私がどれほど全力で走ったって……というかそんなレベルの話じゃなく。

 全然整理のつかない頭であれこれ考えているうちに、トタトタトタ、という軽い足音が近づいてきて、あっけなく扉が開いた。


「はーい。……あれ、奈々おねえさん? どうしたんです、何か忘れ物ですか?」


 ひょっこり顔を出した柴くんが首をかしげる。よかった、間に合ったらしい。とにかく深呼吸をして、どうにか話ができるくらいまで息を落ち着ける。


「あの、今、下で……黒い服を着た女の子に会ったの。久々理っていう名前で……君のこと、無垢って呼んでた。よく分からないけど、君に何か良くないことをしようとしてるみたいで」

「ああ……」


 とりとめない言葉を伝えただけで、柴くんには何か察することがあったらしかった。今まで一度も見たことのないような、苦笑いめいた表情をした。


「とうとう気づかれてしまったんですね」

「柴くん、あれは、誰なの……?」


 思わず聞いてしまう。彼は、にこりと笑って答えた。


「ぼくみたいな存在を狩りたてるのを役目としてるんですって。ぼくらは、存在してちゃいけないんだそうです」

「そんな! 柴くん、こんなに一生懸命、宝田さんのお世話してて、すごく役に立ってるのに……そんなのおかしいよ」

「ぼくが旦那様のお世話をしているのは、単にそうしたいからですから」

「そんなこと言ってる場合じゃないよ! とにかく逃げて」

「ぼくがいなくなったら、旦那様がお困りになります。いいんですよ、どのみちあれからは逃げられません。せめて少しでも長く、旦那様のそばにいたいですから」

「……」


 そう言う柴くんの笑顔に、ほんのわずかな曇りもないのだった。私は何も言えなくなって、ただ彼の顔をまじまじと見つめてしまう。

 少しの沈黙の後、柴くんは玄関ドアを大きく開けて、中へ入るよう促してくれた。


「せっかくいらっしゃったんですから、お茶をおいれしますよ。旦那様も、お客様とお会いになるとお喜びになりますから。……彼らも、お茶をいれる間くらいは待ってくれると良いんですけど」


 そう言って、少し困ったように笑った。

 廊下を通って、宝田さんの部屋に招き入れられる。ベッドの上の老人は、驚いたようだった。


「井之原さんかね。どうした、もう今月の書類は片付いているはずだが」

「旦那様、井之原さんは今日は、遊びに来てくれたんです。書類の用事じゃなく来てくださったお客様なんて久しぶりじゃありませんか」

「え、っと。その。お邪魔でなければ……」


 なんとなくおかしな成り行きで宝田さんと面会することになって、ちょっと戸惑いつつ会釈する。そんな私の背中を押して椅子に座らせると、柴くんはお茶をいれに階下へ走って行った。

 宝田さんは、窓の外に視線を投げつつ、少し遠慮がちに口を開いた。


「もしや、このあいだ頼んだことについてかね。柴に聞いてほしいと頼んだ……」

「あ、ええ、はい。一応聞いてみたんですけど、やっぱり何もいらないと言われちゃって」

「そうか。君でも駄目だったか」


 呟くように言って、窓の外を見たまま黙ってしまう。なぜか、とても重苦しい、そんな沈黙が部屋全体を凍らせるようだった。

 この沈黙は良くない、と何となく思う。


「あの……柴くんって、どんな子なんですか。いくらお世話をしてくれるといっても、身元も分からない子を家に入れてずっと暮らすって、私にはあんまり、その、感覚がわからなくて」

「どんな子、か。本人はどう言っていたかな」


 ぐ、と言葉に詰まる。けれど意を決して、そのままを口にする。


「柴くん本人は……自分は人間じゃない、って」

「君にもそう言ったか。実際、人じゃあないんだろうよ。あれはな、おそらく一切食事もとっておらん。不眠不休で、ただわしに尽くすだけの……」

「……そういえば、犬がどうとか、そんなような話もしてました」


 していたのはあの久々理とかいう正体不明の怖い方で、柴くんではないけれど。


「そうさな、柴というのは、昔わしが飼っていた犬の名前だ。初めてわしの前に現れた時には、あれは名前なぞ持ってなかったのでな。なんとなく、雰囲気が似ていた」

「もしかして、その飼っていた犬って、柴犬だったとか」

「もちろん、柴犬だから柴と呼んでいたのさ。シンプルで良いだろう?」


 その瞬間だけ、悪戯っぽい笑みをこちらに向けてくれた。今は老齢と衰弱でほとんど見られないけれど、かつてやり手の不動産投資家だったという、活発で物怖じしない、自信に満ちた茶目っけが少しだけ覗いたような気がした。


「君にはまだ分からんだろうが、世間は戦場だ。金を持つほど敵が増える。どっちを向いても愛想笑いばかりこちらを向いているが、本音は不満と嫉妬と野心ばかりだ、そういうものさ。わしは本音と建前を使い分けるような小賢しいマネは嫌いだったのでね、敵もたくさん作った。気苦労も多かったが……家に帰れば愛犬の柴がいた。犬は良い。裏表がない」

「……今、ここにいる柴くんも」

「ああ。そう……あれも、裏表がない、のだろうな」


 急に声のトーンが下がる。昔飼っていた犬の話をしている時とは、明らかに違った。どうしてだろう。

 もう少し話を聞きたかったが、そこで柴くんがティーセットを持って部屋に入ってきたので、話題が途切れてしまった。甲斐甲斐しく紅茶をいれて渡してくれる柴くんにお礼を言う。こちらはこちらで、目前に迫っているかもしれないはずの危機を、まったく顔にも態度にも出さない。

 せめてこの時間、柴くんと宝田さんが少しでも一緒に穏やかな時間を過ごせるなら……と思っていたのだが、私のそんな思いは通じなかったようだった。


「柴よ」

「はい、旦那様」

「庭の雑草が伸び放題のままだったな。ずっと気になっていた。あれを刈ってきてくれないか」

「え、でも」


 思わず声をあげてしまったのは私だった。柴くんの方を見ると、一瞬だけ寂しそうな表情を浮かべていたけれど、私が言葉を続けるより先に、いつもの笑顔に戻ってうなずいてしまった。


「分かりました。奈々おねえさんは、どうかごゆっくり。時間になったら昼食もご用意しますから」


 私が引き留める暇もなく、彼は部屋を出て行ってしまった。

 宝田さんと、閉まったばかりの部屋のドアを交互に見て、どうしたものか途方に暮れる。なにもこんな日に庭の手入れなんて命じなくても、と思うけど、かといって「柴くんが得体の知れない変なものに狙われてる」などと伝えて騒ぎになるのも、かえって柴くんの望みから離れる気がした。

 とはいえ……さしあたって今、私はどうしたらいいんだろう。そろそろ分からなくなりつつある。ついさっき、あんなに息を切らして走ってきたのに、今なぜだかこうしてのんびりお茶を飲んでいるのだが。


「井之原さん。君にもひとつ、頼みごとをしてもいいかな」

「え? あ、はい。私にできることなら」


 正直、沈黙以外なら何でもありがたい。趣味のいいティーカップをテーブルに置いて、私は立ち上がった。


「隣の部屋の戸棚に、薬のビンがある。それを持ってきてくれないか。黄色いフタの薬だ、二つあるから両方持ってきてほしい。鍵がかかってるから……ほら、これが戸棚の鍵だ」


 受け取って、言われるままに部屋を出る。

 廊下には十分な明かりが灯っているけれど、それでも人の気配が無いというだけでどことなく寂しい空気が充満するものだ。一人になった途端、急に怖くもなる。あの久々理とかいう、神出鬼没のよく分からない誰かが、いつひょっこり顔を出すか分からないような気がして、思わず小さく震えた。

 おそるおそる隣の部屋のドアを開け、言われた戸棚に鍵を差し込んで開ける。奥の方に入っていた黄色いフタのビンを二つ取り出して、そそくさと部屋を出る。少しホッとしたところで、宝田さんの声がかすかに耳に入った。


「誰だ? いつ部屋に入ってきた?」


 ドア越しに宝田さんの声を聞いて、まさかと思って部屋に飛び込む。

 漆黒のワンピース、黒い髪、病的に白い顔。ついさっき山の下で見た不吉な少女が、宝田さんのベッドの向こう、窓際に立っている。


「わたしは……泉美久々理。折り入って少々お邪魔させていただくわ。どうぞお構いなく」


 久々理はそう言って、悪戯っぽく微笑んだ。


                   ※

 人間でないと言ってもいろいろだ。柴という名で呼ばれている無垢の少年は、物置にあった鎌を持ち出して、庭の草を少しずつ地道に刈っていた。この類いの作業を一息に終えるほどの異能力は、彼には無い。

 雑草を一株ずつ掴み、鎌の刃で断つ。どれほど動いても汗はかかない。そうして作業途中でふと手を止めると、少し離れたところに立っている老木の方へ目を向けた。


「ぼくを連れ去りに来たというのは、あなたですか?」


 視線の先、太い木の枝に腰かけているのは、青磁色の和装の男だった。片足を枝の上にのせていつでも動ける態勢をとっている、犬の面をつけた男。

 返答は素っ気ないものだった。


「あいにくだが、俺はただの飼い犬だ。お前をどうこうできる力なんざ、持ち合わせちゃいないな」


 少年は、首をひねった。


「なら、なぜぼくのところに? ぼくをつかまえるために、わざわざやってきたんじゃないんですか? ……あなたの主は、一体どこにいるんです?」

「俺の主なら、お前の主のところにいるはずだ」


 樹上から飛び降りつつ、仮面の男が言う。

 無垢の少年が眉を吊り上げる。身を低くし、男を睨みつける。


「なぜ。あなたたちは、人間には用がないはずだ。目的はぼくのはずだ」

「さてな。俺の主は気まぐれだ。何を考えているのか、飼い犬の俺には分からんね」


 少年の姿が残像を残して揺らいだ、否、男へ向けてまっすぐに跳んだ。彼我の距離数十メートルを一瞬で詰め、柴の指先に光る爪が和装の男に迫り――甲高い金属音と共に、阻まれた。男が手に持つ、金属製の扇が切先を反らしていた。少年は地面を転がったそばから身軽に態勢を立て直し、再び爪を構えた。

 口元からは牙が覗き、目は血走ってわずか赤くなり、喉からは威嚇のうなり声すら漏れる。予想外だったのか、男の声から余裕ぶった響きが目減りしていた。


「へぇ。お前、怒れるのか。珍しい無垢がいるもんだ。元が動物だからかな」


 嘯きながらも、扇を構えて警戒の色を隠さない。

 少年が発したのは、さらなる威嚇の声だった。


「旦那様に何かするつもりなら、許さない」


 髪の毛すら逆立てるほどの剣幕で睨みつける。それに対して、仮面の男は口を閉ざした。

 無言の対峙。仮面の男は動かない。


「……チッ」


 先に焦れたのは無垢の方だった。仮面の男に警戒しつつ、一瞬のうちに地を蹴って屋敷の方へ陣風のように駆けて行った。


「やれやれ」


 残された男は、仮面を少し持ち上げると小さく嘆息した。少年を追って、ゆっくりと駆け出す。どうせ大した距離ではない。


「さて。久々理が間に合っていてくれると良いんだが」


 誰ともなく呟き、ようやく少し足を速めた。


                    ※

 手からこぼれ落ちた薬のビンが、くるくると回りながら床を転がって、止まる。そんなささいな事が面白いのか、黒衣の少女はくすくすと笑った。

 宝田さんが、何が起こったのか分からず戸惑っているのは当然のことだろう。私は……竦んでいた。こうして改めて向きあっても、得体の知れない圧迫感を感じて、へたり込んでしまいそうになる。まさか、こんな風にまた顔を合わせるなんて。

 ……合わせるなんて、おかしい。


「あなた、なんで、こっちに……私たちの方に来たの? 柴くんに用があるって」

「柴、に……?」


 宝田さんがぽつりと呟く。久々理とかいう女のひとは、窓の外に顔を向けつつ、ちらりと視線だけを私に寄こした。


「あなたが持ってきたその薬、何だか分かってる?」

「え?」


 唐突な問いに、思わず頓狂な声をあげてしまう。一方視界の端で、宝田さんが目に見えてびくりと震えたようだった。

 人ならざる彼女だけが、目を細め、笑みを深くする。


「睡眠薬。2ビンで致死量なのですって」

「……え。それ、って、どういう……?」


 風でも吹いたのか、窓枠がガタガタと揺れる。痺れたようになった頭に、告げられた言葉の意味が徐々に浸食してくる。そう、つまり。


「少しは感謝してもらわなければ釣り合わないわ。自殺幇助って、罪になるのでしょう? 人間たちのあいだでは」


 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、一陣の風が部屋の中へ躍り込んできた。小柄な影が、少女と宝田さんの間に割って入り、獣の形相で睨みつけた。

 柴くんだった。普段の優しげな笑顔とのあまりの違いに、私まで気圧されて後ずさるほどの、必死な姿だった。


「ぼくは逃げも隠れもしない! どうとでも好きにすればいい! その代わりこの部屋からさっさと出ていけ!」


 相手の少女は、眉ひとつ動かさない。ただ、床に転がったビンを指し示すだけ。


「あなたなら、説明しなくとも分かるのではないかしら。その薬のビンが、何を意味するのか」


 警戒しながら、柴くんが指された方を見る。そして、目を見開く。

 重くて苦しい沈黙が流れた。その一瞬ごとに、柴くんの表情から覇気が失われ、疑惑と困惑と逡巡で瞳が曇っていく。見ているだけで、つらくなるような、長いのか短いのかも分からない無言の時間。

 その果てに、少年はゆるゆると、宝田さんの方へ顔を向けた。


「旦那様、どうして……ぼくの配慮が、足りなかったのでしょうか……」

「ち、違う! そうじゃないんだ、柴、お前は……!」


 あわてて否定する宝田さんと、柴くんが見つめあう。そういえばこの二人が正面から視線を交わすのを、初めて見たような気がする。私にも分かっていた。柴くんは十分すぎるくらい宝田さんのお世話をしてきたのだ。そう、むしろ。


「逆だよ。やり過ぎたんだ、お前は」


 扉の方から別な男の声がして、私は弾かれたようにそちらを見た。

 立っていたのは、また別な意味で異様な外見の男だった。青と緑の中間くらいの色の和装に、木でできた仮面をかぶっている。今さら現実離れした格好の相手が増えても、これ以上驚きようがないところだけど……。むしろ、黒衣の少女が発しているような圧迫感を感じない分、少し不安が薄まったような気さえする。明らかに、感覚がマヒしておかしくなっている。

 男は、さらに三歩ほど、柴くんの方へ歩み寄った。


「たいていの人間はな、血縁も縁もない人に無償で何年も尽くすようには出来てないんだ。何かしら見返りが必要になるものなんだよ」

「……だから、何だ。ぼくには見返りなんて必要ない」

「そうだろうさ。なんの報酬も求めずに、善意だけで動けちまうのが無垢ってやつだ。だがな」

「あなたのその善意はね、人間にとって毒なの」


 黒衣の少女が、言葉を継ぐ。マネキンのそれのように整った手を、まっすぐに柴くんへ向ける。

 その唇は、笑みの形のままだ。ただ、うつむいていて目元は見えない。


「どれほど無償の善意を装っていても、人間は相手に返礼を求めるわ。だからこそ、受けた善意は負債も同じこと。あなたが返礼を拒み続けたおかげでね、その人はいずれ返さなければならないあなたへのお礼の大きさを抱え込んで……潰れたの」

「……なんだ、それ。なんだそれ……!」

「特にその人は、一時は巨万の富を得て、人間の中でも特に欲に駆られた輩と腹の探り合いをし続けてきた人だもの。あなたの無償の善意は、さぞ心を蝕んだでしょうね」

「旦那様! こんな、こんな話、本当に……」


 耐えきれなくなったように、柴くんが宝田さんの方を振り返る。けれど、宝田さんは叱られた子供のような顔になって、視線をそらしてしまう。それこそ、どんな言葉よりも明瞭な、返答だった。

 少年は、見捨てられた子犬のような顔をした。


「旦那、様……。ぼくは、ぼくは本当にただ、お返しなんていらなかったんです。ただ旦那様にお尽くしできれば、それで……」

「分かっていた! 分かっていたんだ、そんなことは」


 突然、顔を覆って宝田さんが叫んだ。


「わしは何人も見てきた。お前のためだ、気にするなと言って善意を押しつけてきながら、こちらが何もしないと別人のように罵ってくる人間をごまんと見てきた。可愛さ余って憎さ百倍などと言う……柴、お前にはピンとこない言葉だろうが、そういうものなんだ。無償でもいいと思ったはずが、ある日、何も報われていないという徒労感と絶望感が湧いてきてたまらない気持ちになったりするのが人間なんだ。そうやって、無償の善意を仏の顔で差し出してきた者が、ある日突然、鬼の顔になって薄情者と詰め寄ってくるんだよ。そういうのをな、嫌というほど見てきたんだ」

「……ぼくは、そんなことは、言わない……」

「そうなんだろうな。わかるよ、お前は犬だった頃からわしによく懐いてくれたもんなぁ」

「だったら……!」

「それでも駄目なんだ。お前に散々責められる夢を見る。お前の優しい表情が、いつ、私を軽蔑して醜く歪むかとビクビクしながら毎日を過ごす。わしにはもう、お前しかいない……お前に憎しみを向けられたら、その時こそわしは耐えられん」


 柴くんはもう、何も言わなかった。ただ、両手を握りしめて、黙って震えていた。

 私は想像する。柴くんみたいに、本当に無償の善意で何もかも尽くしてくれる人がそばにいたとしたら。彼にとって、無償であることが一番自然で、当たり前のことだったとしても……私はそれを、当たり前と受け取ることができるだろうか。一方的に私だけが良い思いをし続けている、そのことをそのまま受け入れられるだろうか。

 ……何か、悪い気がしてくる。そんな状況をそのままにしていたら、私が一方的に悪い何かであるような。そう思わずにいられるだろうか。そんな一方的な関係を誰かに見られたら、恥じ入らずにいられるだろうか。


「わしはこの通り、もう身動きもろくにできん。何の役にも立たんのに、柴、お前に世話をかけ続けるくらなら……いっそのこと……」


 言葉を詰まらせて、宝田さんの独白は終わった。

 しばらくは、誰も何も言わなかった。やがて柴くんがゆっくりと振り返って、かろうじて聞こえるほどの小さな声で、黒衣の少女に呼びかけた。


「わかった。旦那様のためにならないのなら……ぼくはきっと、あなたがたに身を任せた方が良いみたいだ。お願い、できますか?」


 聞いた私が息をのむ。それは、自分を差し出す言葉だった。今この瞬間に、何もかもをなくして絶望に身をゆだねた、言葉だった。

 けれど私は、何もできない。ただ、事態を見ているだけで。


「ここでは、あなたの旦那様を巻き込むことになるけれど」

「……じゃあ、外で」


 とぼとぼと、柴くんが部屋を出ていく。私のすぐ横を通って行ったが、もはや誰も視界に映らないようだった。

 それに続いて、少女が後ろに手を組んだまま、ゆるゆると歩き始めたが……仮面の男のそばまで来て、ふと足を止めた。


「ねぇコウヘイ、見た? あの子、泣いていたわ」

「さっき俺とやりあった時には、怒っていた。ずいぶんと感情豊かな無垢だ」

「……」

「どうした、やりにくいか?」

「まさか。さっさと終わらせるだけよ」


 小さく返して、部屋の外へ歩み去っていく。コウヘイと呼ばれた男性も一緒に出ようとして、


「待て!」


 宝田さんの悲鳴のような声に、引き留められた。犬の仮面が振り返る。


「お前たちは、柴をどうするつもりだ」

「この世にあってはならない存在だ。無明に返す。もう二度と会うこともないだろう」

「やめてくれ! 連れて行くならわしを連れて行け! 柴が何をしたと言うんだ、こんな道理に合わない事があってよいはずがない……頼む、この年寄りの最後の願いだと思って」

「出来ない相談だな」


 冷たく言って、和装の男も部屋を出て行ってしまう。

 どうしたらいいのか分からないまま、私はその背中を目で追うばかりだった。どうしたら良いんだろう。無闇に追いかけて止めに入ったところで、何が変わるとも思えない。そんな逡巡をしている数秒の間に、私の背後でバタンという、大きな音がして思わず飛び上がった。


「宝田さん!」


 ベッドから落ちた老人が、それでも、立てかけてあった杖を手にとってどうにか起き上がろうとする。5年も寝たきりだった人がすんなり立てるわけがない。思わず駆け寄った私に、宝田さんが切羽詰まった顔ですがりつく。

 背中でも打ったのか、息を詰まらせて声が出ないらしい。それでも何が言いたいのかは確認するまでもなかった。

 肩を貸すようにして、宝田さんの身体を引っ張り上げる。ずっとベッドの上で過ごしてきた老人としては意外なほどがっしりした体つきで重たかった。私と杖に支えられて、震える足で歩きだす。おそらく5年ぶりに。さっきまで死のうとしていた老人が、その死力をもって無理にでも歩いているんだ。

 荒い息遣い。汗で湿った寝巻。私自身バランスを崩して倒れそうになりながら、大きな体を斜め上に押しあげるようにして、進む。廊下を通って、階段をおりて、玄関へ。

 たぶん、今までの人生で一番の重労働だった。それでも、私より宝田さんの方がつらいに決まっている。だから黙って進んだ。柴くんを追って。

 その結果、何が起こるとしても。


                   ※

 前庭の中央に立つ木の下に、無垢の少年が立っている。

 少し離れた位置に立つ久々理を、じっと見つめ続けている。しばらくは無言でただそうしていた。

 やがて少年がもどかしげに口を開いたのは、相手が何の動きも見せないからだった。


「なぜ、何もしないんです? 早く済ませてほしい」


 少女は、髪を揺らして小さく笑う。


「焦らしてしまってごめんなさいね。けど、もうしばらく待ってもらうわ」

「……なぜ」

「このままでは、あの老人の結末は変わらない。あなたがいなくなれば、どの道生きられないものね。わたしはそれでも構わないのだけど、わたしの飼い犬がうるさく口を挟んでくるものだから」

「旦那様の、結末……? それじゃあ、あなたたちは」


 泉美久々理は、目を細め、わずかに表情を和らげた。


「一つだけ、保証してあげる。あの老人はこれからも生き続けるわ。今まで以上に元気に、精力的になってね。無垢であるあなたには、どうしてそんな事が起こるか分からないでしょうけれど」

「……」


 栗色の髪の少年は、しばらく言葉が継げずにいた。

 それから、少し安心したように、笑った。


「旦那様が生きていてくれるなら、他には何もいりません」

「……」

「久々理、さん。あなたに感謝を。それと、誤解していたことにお詫びを。……旦那様のこと、よろしくお願いします」

「お礼を言われるような大団円にはならないけど……まぁ、受け取っておこうかしら。感謝される機会なんて、滅多にないもの」


 不意に乾いた風が吹いて、久々理がそちらをちらりと見やる。屋敷の方から仮面の男が一足跳びにやってきたところだった。かたわらの老木をこえる高さから、膝を屈して音もなく着地した和装の男は、今来たばかりの屋敷の方へ、犬の仮面ごと視線を向けた。


「来た。そろそろ頃合いだ」


 久々理が、そして柴が男の指し示した方を見る。ちょうど屋敷の玄関から、娘に付き添われた宝田老人が、震える足で、しかし確かに歩いてくるところだった。

 倒れそうになりながら。もどかしいような足取りで。けれど、どうにか柴のもとへたどり着こうと。


「旦那様が……歩いてらっしゃる……」


 呆然と呟く少年の背に、ゆっくりと黒衣の少女が歩み寄る。その足元から、液体のような闇が広がり、周りの地面をゆっくりと覆っていく。柴の足首までが、闇に浸る。

 少年がぽろぽろと涙を流す様子は、久々理からは見えなかったはずだ。


「どんな魔法だろう。あれだけ手を尽くしても、まっすぐ立つことさえできなかったのに。あなたたちは、一体どんな力で、こんなことを……」

「それは間違いだ。あれはお前の手柄だよ。お前がこの5年の間やってきたことには、それだけの力があったんだ」


 和装の男が淡々と言う。少年ははにかんだように、泣き顔のまま笑って、それから一つ、うなずいた。


「ありがとう。もう、何の心配もなく、消えることができます。旦那様に、どうかお元気でと、伝えてください」


 久々理が腕を伸ばす。少年の背中にあてた手が、泥に沈むようにずぶりと体の中に入り込む。そして、少女の呟くような声が、さざなみのように周囲の草木を揺らした。


「純なるもの、無垢なる嬰児――せめて、浄闇に沈め」


                   ※

 玄関のドアをやっとの思いで開けて、外に出る。晴れ渡った空、太陽の光を浴びる。ほんの数十分ぶりなのに、まるで久しぶりのことのようだ。

 門へと続く前庭の中央、老木が立っている辺りに彼らがいた。柴くんと、仮面の男。それに――柴くんの背後に立っているのが、久々理という名の、人ではない少女。

 柴くんが視界に入った瞬間、宝田さんが大きく動いて、支えている私ごと倒れそうになる。こんな状態で急げるわけがないけれど、でも。

 そう思った瞬間に、けれど、事態は進んでしまった。


 茶色い髪をした小柄な柴くんの体、その全身が、水面に墨を垂らしたように滲んで、黒くくすんでいく。映像が暗点するように彼の顔も服も手足の肌も、何もかも黒く染まっていって。

 やがてその輪郭がぐにゃりと歪んで。

 そのまま、どろりとした黒い液体になって、足元に広がっていた闇に溶けてしまった。

 映画の一場面でも見ているような、現実感のない、うそみたいな。けれど確かにその瞬間、柴くんは消えた、のだと思う。

 宝田さんの体が震えた。支えている私には、その震えがあまりにも直接伝わってきていた。どんな表情を浮かべているのか、確認する勇気はなかった。


「なぜだ。こんな仕打ちがあってたまるか。柴には、こんなことをされるいわれは、どこにもなかった!」

「……」

「あの子は、そりゃあわしとは相性が悪かったかもしれん……それでも、殺すことはなかったはずだ、そうだろう!」


 寝たきりで弱った体を振り絞るように、老人が声を張り上げる。その様子を、闇を従えた少女とその従者が、真っ直ぐ見つめている。

 泉美久々理は……笑っていた。


「知らないわ、そんなこと。無垢をこの世から消すことがわたしの目的だもの、人間との関係がどうだろうと、わたしのすることは変わらない」

「なぜ……なぜだ! 何の恨みだ、何の報いだ、どんな理由があって……柴が殺されなきゃならんのだ!」

「存在してはならないから。それだけよ」


 ささやくような声なのに、離れた私たちのところまで異様に響く。そんな黒衣の少女は、すでに半分以上姿が見えなくなりつつある。

 黒い霧だ。いや、霧状の闇がぼんやりと周囲を包んで、すでに彼女のシルエットもよく判別できなくなりつつある。そうして、どんどんと黒い霧が濃くなっていって……急に霧が晴れたと思ったら、その姿はもうどこにも見えなくなっていた。

 それを見送るように一拍置いてから、仮面の男がこちらに背を向け、門の外まで一足飛びに跳んだ。視界から消える間際、ちらりと私たちを横目に見たような気がしたけど、仮面に隠れてよくは分からなかった。


「え、うわぁっ!?」


 急に宝田さんの全身から力が抜けて、引っ張られるように私もその場に倒れた。したたかにしりもちをついて、そのまま座り込む。部屋からこの玄関までの移動で、私の足まで疲れで震え始めそうだ。緊張が解けたせいもあって、しばらく身動きも出来なさそうだった。

 おそるおそる宝田さんを見る。彼は、拳を何度も何度も、地面に打ち付けていた。


「こんなことは認めん……こんなことは許さん……こんなことは……」


 押し殺した声で何度も何度も呟く宝田さんに、かける言葉はひとつも思い浮かばなかった。




 それから二カ月が経った。


「あれ、お父さんが行くの?」


 毎月の書類が入った茶封筒を持ったスーツ姿の父さんを玄関で見かけて、さすがに驚いた。あんなに宝田さんには会いたがらなかったのに。

 靴ベラをフックにかけながら、これ以上ないくらいの渋面で私の方を見た父さんは、肩をすくめた。


「バカ言え、あんな危ないところに一人娘を行かせられんだろ。あの強欲ジジイめ、すぐくたばると思ってたのに、何があったんだか」

「そんなに危ないの。私が行った時には、静かで寂しい感じだったから」

「今はコワモテのよく分からん連中が出入りする魔窟だよ。おそらく、反社会的勢力ってヤツも混じってるだろうってな、もっぱらの噂だ。いいか奈々、あの家に絶対近づくなよ」


 散々念を押して、父さんは家を出ていく。その様子を複雑な思いで見送りながら、私は制服に着替えるために自分の部屋へ向かった。


 柴くんが消えたあの日、あの後で、宝田さんは一旦病院に移った。それからわずか一ヶ月ほどリハビリを重ねて驚異的な回復を見せ、杖をつけば歩ける程度になって退院。そこから残っていたわずかな元手と伝手を駆使して投資やビジネスを再開、急速にかつての力を取り戻しているのだとか。父さんの話を聞く限りだと、以前よりさらに悪どく、なりふり構わずに動いているらしい。

 私は、具体的に宝田さんがどんな事業をしているのかあまり分からないけど。ただ、なんのためにしているのかは、分かる。柴くんを消し去った、あの二人組をどうにかして捕えるため……復讐するためだ。

 先月、退院したばかりの宝田さんのところへ、私は書類を届けに行った。そこで本人の口から聞いている。泉美久々理と名乗った、あの人ならざる何か……彼女たちにどうしても、報いを受けさせたいのだと。何の落ち度もなかった柴くんを殺したことの、報いを。

 私は、何も言えなかった。良いとも悪いとも言えずに、無言で頭を下げて、屋敷を出た。何か言うべきだったのだろうか。今も分からずにいる。


 午後の授業を上の空で聞きながら、ぼんやりと考える。

 気のせいかも知れない。けれどあの時、柴くんが消えてしまう間際……笑みを浮かべていたように見えた。宝田さんを見て、心底から嬉しそうに、笑っていたように。

 そして、目的はともかく、現にあれほど弱っていた宝田さんが今は元気に歩き回っている。ほとんど奇跡的な回復だと言う。

 だから。だけど。でも。


 結局その日、放課後になるとすぐに私は小山の上の屋敷へ、階段を登って向かっていた。この時間に行けば父さんと鉢合わせすることも無いだろう。

 学校からここへ来る途中、商店街の花屋で小さな花束を買った。こんなことに意味があるだろうかと小さく自問しながら、それでも花束を買った。どんな報酬もお返しも不要だと言って受け取らなかった柴くんは、弔いの花を受け取ってくれるだろうか。

 屋敷の門が見えてくる。入口を守るように、護衛の人たちが二人立っている。以前はいなかった人たちだ。警備員の服装ではない、真っ黒いスーツを着た大柄な男の人が、メガネの向こうにある目を光らせて私の方を見る。

 無言で睨みつけるのが、言葉より雄弁な「帰れ」という警告だった。でも、なぜだか、それほど恐怖を感じない。


「あ、あの。井之原奈々です。お庭まで、入れていただけませんか」


 無骨な男の眉が、わずかに持ち上がる。二人で互いに顔を見合わせると、頭をぶんと振って門の中を示した。


「おう、あんたは中に入れていいと言われてるぜ。通んな」

「ど、どうも」


 軽く頭を下げて、中へ入る。

 屋敷周辺は、以前とは比べ物にならないくらいに活気に満ちていた。人がその場に住んでいて、生きていて、動いているというのは、こんなにもはっきりと伝わる。柴くんと宝田さんの二人しかいなかった時には感じなかった、熱のようなものが建物全体に行きわたっている気がする。

 それなのに、庭木は荒れ放題だった。

 雑草がまばらに生え始めている前庭の、中央部分。以前は存在しなかった石積みが、ひっそりと置かれていた。柴くんが消えた、ちょうどその場所だ。

 結局あの後、宝田さんと二人で探してみたけれど、柴くんの痕跡らしきものは何も残っていなかった。それこそ、髪の毛一本すら見出すことができなかった。今、ここに名も無い石積みが立っているけれど、おそらくこの石の意味を把握しているのは宝田さんと、そして私だけだろう。

 ありあわせの庭石を積んだだけの塚の、正面側へとまわり込む。屋敷の玄関から見える方向が、この塚の正面だ。あの日見たのと同じ方向――。


「……あら?」


 何かが置いてあるのに気付く。置いて、というよりは供えてある、のだろうか。しゃがみこんで見てみると、どうやらビーフジャーキーのようだった。ペットに食べさせる、よくテレビで宣伝している銘柄だった。

 誰がこんなものを――と考えかけて、すぐにやめる。この塚の意味を知っているのは、私の他には宝田さんしかいないのだ。

 花束を塚の前に置いて、ゆっくりと手を合わせて、目をつむる。けれど何を祈ったらいいか、まるで分からなかった。安らかにとか冥福を祈るとか、そういう祈りが適切なのかどうか、誰が答えられるだろう。あの日、この場所で消えた柴くんがどうなったか、分からないのに。

 目を開く。そして、ちょっとだけ笑ってしまう。こんなところまでわざわざやって来たのに、何をしたらいいか分からないなんて、間抜けもいいところだ。


「ん?」


 自動車のエンジン音が背後から聞こえてきて、そちらを振り返った。出かけるのだろうか、ちょうど玄関から宝田さんが出てきたところだった。杖をついているとはいえ、その足取りはしっかりしていて、危うさは感じない。両脇に黒いスーツの大柄な男の人二人がついて、油断なく周囲に視線を走らせている。

 一瞬、宝田さんと目が合った。彼は、まるで山の上から眼下の街並みを眺めているような、遠いどこかを見ているかのような表情で、私の顔を見た。けれどすぐに、左脇の男が明けた車のドアに気づいて、そのまま座席へと乗り込んでしまった。車のガラスは黒塗りで、もう宝田さんがどうしているのか、見ることはできなくなった。

 私は、どんな顔をしていたんだろう。走り去る車を見送りながら、何となくそんなことを思った。


「……柴くん。宝田さん、元気になったよ」


 呟いてみる。もちろん、柴くんはこたえてはくれなかった。



                   ※


 くぐもった、鳥の地鳴きのような音が響いた。立て続けに、三つ、四つ。

 ビルとビルの間の、狭い路地だ。時刻は深夜、近くの通りにある外灯からの光も、ここまではほとんど届かない薄闇の中。

 その闇よりも濃い黒衣が、ひらひらと踊るように宙を漂って、止まる。音のした方へ顔を向けた久々理は、くすくすと肩を揺らして笑っている。


「ぜんぶ、当たり。あまり詳しくないのだけど、なかなか良い腕なのではないかしら?」


 視線の先、黒いスーツ姿の男たちは動じなかった――動じないことによって、彼ら自身の優秀さを存分に示した。人数は三人。隙なく構えたままの拳銃を、さらに数発撃ちこむ。再びくぐもった、けれど鋭い空気の音。

 放たれた弾丸はしかし、何も起こさなかった。血しぶきの類いが飛び散らなかったのはもちろんのこと、弾が何かに当たった音すらしない。虚空に吸い込まれたかのように、黒いワンピースに触れた弾丸がことごとく、かき消える。

 久々理の笑みが、わずかに深くなった。


「ねぇ。天に向かって弓を引いた者の末路を、知ってる? あなたたちが迎える末路も、あれと同じ」


 しなやかな手を、男たちの方へ向ける。まるで手品のように、その手のひらに銃弾が現われる。久々理に命中したのとぴったり同じ数、七発分。それを、サイコロを振るような無造作な動きで、手の中で転がす。金属がぶつかりあう乾いた音。そして、手首をしならせてそれを、


「いや、それはさせない」


 頭上から発せられた声に、黒スーツの男たちがとっさに視線を上げる。

 見上げた時には、声の主は下にいた。垂直に落下してきた犬面の男は、既に黒スーツの一人を昏倒させ、膝立ちの姿勢から一息、既に次の目標へ向けて地を蹴っていた。

 背後から奇襲されたにも関わらず、男たちの反応は速い。咄嗟に左右へ広がりつつ、牽制気味に各二発ずつ発砲。青磁色の着流しを着た男は身を低く駆け、足元で爆ぜた弾着を飛び越えるようにして左側の男の真横へ、わずか三歩。追いすがる銃口の斜め下で体をひねり、


「ガッ」


 駆けた勢いをそのまま載せた鉄扇の先端が、男の鳩尾にぐいとめり込む。うずくまる男の顔面に草履の足裏を思い切り叩き込み、その勢いで再びもう一人の敵の方へ走る。

 残された最後の黒スーツ男は、拳銃では不利と見て懐から匕首を取り出し構えていた。


「思ったより手ごわいかな」


 ぼやくように言う口ぶりとは真逆の速さで、相手に急接近する。男は刃物を腰だめに構え、刺突の狙いがあからさまだ。仮面の下の唇が、わずかに笑みを形作る。

 黒スーツが刃を突き出す動きに合わせ跳ぶ。予測していた動きだ、見誤るはずもない。縮めた膝の下を匕首の切っ先が素通りしていく――次の瞬間には、膝頭が男の頬へそのまま突き立っていた。

 仰向けに倒れる黒スーツの横に、犬面の男が着地する。顔をあげてみると案の定、久々理が肩をゆらして笑っていた。


「苦労性よね、あなたも。私と違って、当たったらタダではすまないのでしょう、これ」


 いつの間に拾い上げたのか、手に拳銃を持っている。ふざけて銃口を向けてくる久々理を、仮面の奥の目が嫌そうに睨む。


「冗談でも人に向けるな。マナーだぞ」

「マナー、マナーですって? わたしがそんなもの気にすると思う? コウヘイ、ずいぶんと人間の肩を持つのね。この連中を死なせないために、わざわざ割り込んできたりして。わたし、こんな物騒なものを撃ち込まれたのに何も仕返しできなかったの、腹に据えかねるわ」

「……」

「そんなに人の死ぬのが嫌? 自分がもう人間じゃないこと、忘れていない?」


 前かがみになり、下から覗き込むようにして言う久々理は、相変わらず手に拳銃を持ったままだ。浮かべている笑みは、とうてい底が知れない。


「余計な勘繰りだよ。こんな連中がどうなろうと、知ったこっちゃない。俺はただ……お前が人間に手をかけるのを見たくない、だけだ。俺の個人的な趣味さ」


 わずかに視線をそらしながら言う男の顔を見上げながら、もはや我慢できないとばかりに肩を揺らして笑いだす久々理だ。


「ねぇコウヘイ。あなた、自分がウソが下手だってこと、少しは自覚した方がいいわ」

「……」


 不機嫌そうに黙る男をひとしきりからかうと、久々理の興味は手の中の拳銃に向いたようだ。銃身から奇妙に細長い筒がついている、その銃口をこめかみに当てると、目を閉じ、気軽に引き金を引く。一度、二度。先ほどのくぐもったような、鳥の地鳴きのような音が再び響いて、周囲に火薬の匂いが広がった。たしかに発射されたはずの弾丸はどこへ消えたのか、何事もなかったかのように久々理は腕を下ろし、不思議そうに銃身を眺めた。


「これ、あんまり音がしないのね? もっと派手な音が鳴るものだと思ってたわ」

「消音器、ってやつだろう。銃口についてる細長い筒で、銃声を抑えるのさ」

「ふうん」


 興味なさそうに相槌を打ち、華奢な手に少し力を込める。それだけで、板チョコでも割るように銃身がへし折れた。そのまま破片を足元に落とす――その破片も、久々理が地に広げた薄暗い渦のようなものに飲み込まれ、見えなくなってしまう。

 犬面の男は、倒れた男たちをぼんやりと見ていた。


「こんなものを持ってるってことは、いずれまともな連中じゃないな。宝田とかいう爺さん、思ったよりタチが悪い」

「刺客が送られてくる限りは、あの老人が元気な証拠だ……なんて、のんきなことを言っていたけど?」

「物騒な生存報告さ。だが確実だ。俺らをわざわざ狙うような物好きは、早々いないからな」

「やっぱりあなた、苦労性が過ぎるわ」


 笑う久々理の声にも、少し呆れたような響きが混ざる。それから、同じように倒れた男たちに視線を向けた。


「怒りと慚愧と復讐に心を焼かれて、片時も休まらないまま相手を追い続けて。そんな風になっても、死ぬよりはマシなものなのかしら」

「……」

「ねぇ、コウヘイ?」

「……さぁな。そんなことは分からないさ」


 一瞬、きょとんとした顔で犬面を見つめてしまった久々理は、ますます呆れた様子で肩をすくめ、笑った。


「確信もないのに、こんな回りくどいことをしたの?」

「仕方ないさ。どっちがマシかなんて分かりはしないが、少なくとも死んじまったら取り返しはつかないからな」

「それは……どうかしらね」


 そう呟いた久々理は、つかの間、表情から笑みを消していた。視線を上げ、ビルとビルの合間から覗く月を、ぼんやりと見つめた。


「死んだら死んだなりの取り返し方もあると思うけどね。人間たち、ここ百年ほどで急に死についてあまり考えなくなったけれど、そんなことで後悔しないの?」

「……俺に聞くなよ。俺はもう、ただの犬だ」


 素っ気なく言って、犬面の男は背を向けて歩き始める。その後ろ姿をちらりと横目に見て、久々理はそれからしばらく、頭上の月を見つめ続けていた。





濁りの淵の淀みの手 ――犬

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