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幻覚キノコマン_Novel



1.鬱ウイルス



1989年、突如として世界中に蔓延した脅威のウイルス・通称"鬱ウイルス"

症状はいわゆる"うつ病"と酷似しており、特に悲しみ、絶望感、希死念慮が非常に強く発現するのが特徴である。


そして前述の通り、これは"ウイルス"なのだ。

ストレス等で発症する従来のうつ病とは異なり、感染してしまえばどんなに幸せな人間も一瞬にしてその気分を奪われる。

そして他人へと感染する――


この"鬱ウイルス"は人々の生活を一変させた。

感染者数は急増し、未曾有の事態に医療現場は逼迫。

政府は初めて緊急事態宣言を発令し、人々は手洗いや消毒を徹底することが求められた。

しかしマスクの着用など、馴染みの無いものに人々が適応する時間をウイルスは待ってはくれない。

世界が不安と恐怖に包まれる中、それでも人類は、対処しなければならなかった。


――幻覚キノコ


それは人類がついに手を出さなければならなかった、禁断の果実の名前である。



一般的に、ウイルスに対する直接的な治療法は存在しない。

一部例外もあるものの、基本的には対症療法が主である。


「鬱ウイルス」に対しては免疫賦活剤の他、従来の抗うつ薬や抗不安薬が処方された。

初期段階、軽症の患者にはある程度の効果があったが、それ以上の患者にはほとんど効果が見られないことも多い。

強い希死念慮の為、虚ろな目でベッドに拘束された患者が並ぶ病室は異様な光景だ。

ただ聞こえてくるのは、咳のように繰り返し死を望むうめき声であった。


日々自殺者が増加していく中、ついに政府からある宣言があった。


「鬱ウイルス患者に対して、幻覚キノコの処方を承認する」


提唱したのは、今回の事態により新たに編成された鬱ウイルス対策チーム。

うつ病の専門家や抗うつ薬の研究開発を主としていた者たちが集まったチームだ。

鬱ウイルスに有効な手段やワクチンの生成を模索していたそんな彼らが、とある麻薬成分を含んだキノコが鬱ウイルス患者に有効であると発表したのだった。



あの時の選択が間違いでなかったのかどうか、私にはもうわからない。





2.キノコくん



「主任、私が行ってきますね」


「あ、うん。よろしくねェ」


時計を確認し、例の部屋の鍵と荷物を持って研究室を出る。

途中、防護服とマスクをつけその部屋を開けた。


明り取りの小さな窓だけがある、あまり使っていない倉庫部屋。

その隅の無機質なパイプ椅子に彼は静かに座っていた。

少しうなだれた頭に被っている防護袋をゆっくりと開く。


「おはよう、キノコくん」


防護袋を外し、出てくるのは大きなキノコ。

私から見てひと抱え程あるキノコのカサ、中心からは柄が生えて、首として下の体に繋がっている。

体には体毛と生殖器は無いが、骨格や肉付きが成人男性のものに近いため私達はそれを"彼"としている。

この研究チームの人間しか知らない――キノコ男。キノコマン。


「おはようございます、白衣さん」


声帯も口も無いのに、確実に目の前のキノコから声がする。

私は驚きに息を呑み、ただ目を見開いた。

しかし、私が驚いたのは彼が声を出したことではない。

彼は"生まれてから"まだ7日目で、これまでは赤ん坊のような言葉を持たない発声しかしていなかったからだ。


「……キノコくん、喋れるようになったの?」


「はい。だいぶ覚えられました。僕がどんな経緯でここに居るのか、ここが何を目的とした施設かなど、大体のことも。わかっています」


「そ、そうなんだ…キノコの成長ってすごいんだね…?」


鬱ウイルス患者に対し、薬として麻薬成分を含んだ”幻覚キノコ”の処方が認可されてから一ヶ月。

私たち鬱ウイルス対策及び新薬研究開発チーム・現通称キノコチームは、現在より安全性の高い薬への進化を目標としている。

今現在、医師の指導のもと処方される薬の主である"幻覚キノコ"の成分は、この国では本来違法とされる麻薬成分であり依存性や乱用のリスクがある。

必要最低限の量と、厳格な管理、患者への服薬指導、それらを徹底してなお私たちは"次の手"を急がなければならないと感じている。


「昨日と同じことをしますか?」


「うん、胞子だけ少し採取させてもらうね。昨日は聞けなかったけど、痛かったりする?」


「いえ、胞子の採取なら全く。僕の胞子は、役に立ちそうですか?」


「それは……えっと、うん、がんばるよ」


私のおかしな返事にキノコくんは何も言わずただ頭を少し下げた。

彼のカサをトントンと軽く叩き、採取用の袋へ向けて胞子を落とす。

キノコ自体が大きいからか彼の胞子は通常のキノコ胞子に比べかなり大きく、少し集めれば肉眼でもわかる程だ。

充分に採取して、私はまた防護袋を彼の頭に被せる。


胞子飛散防止用の袋を着せて、部屋に鍵をかけるのだ。私達の安心の為、ただその為だけに。


「それじゃあ、またねキノコくん。あの、何かつらかったら言ってね」


「はい、大丈夫です。――あ、あの」


「どうしたの?」


「……いえ、なんでもないです」


「そう……? じゃあ、またね」


ドアを閉めて鍵をかけ、私は研究室へと戻る。

言葉を話すようになった彼が今あの部屋でどうしているのかを思うと同時に、今朝出たばかりの彼に関するある結果が頭によぎる。


彼が生まれて2日目に、採血を含め胞子以外も各部位からサンプルをとった。

私達と同じ色をした血だったことをよく覚えている。

そして、それらを元に染色体数、ゲノムサイズ、遺伝子構成、配列など多項目を人間のそれと比較した結果――


――彼はどちらかといえば、キノコであった。





「おかえり。どうだった? そのォ、キノコマンは」


「喋るようになってました」


「ええっ!? アレ、喋ったの? そっかァ、喋るんだ……」


腕を組み、モジャモジャのボリュームヘアが特徴的な頭を揺らしながら主任が唸る。

そのまま私は彼の様子などを一通り報告し、採取袋を持ったまま椅子に腰掛けた。

机の上の道具たちを見ながら、彼が生まれた時のことを思い出す。


彼――キノコくんは、鬱ウイルス対症療法薬その要である"幻覚キノコ"と、私たちキノコチームが独自に開発した"人工合成ヒト遺伝子サンプル"が合わさり生まれた存在である。


人工合成ヒト遺伝子サンプルとは、鬱ウイルスがヒト細胞内でどのように増殖するのか、どのように免疫反応が起こるのかなどそのメカニズムを解明することを目的に作られた。

ただ、まだ開発段階であり、これから改良する……はずだった。


(私が……)


そう、私が。

私がうっかりそれをひっくり返して、キノコにぶっかけてしまったのだ……


周辺の掃除をして、いざキノコも廃棄しようと振り向いたら人間の腕くらいの大きさになっていた。

その場に居た全員が悲鳴を上げた。

しかし依然キノコはもぞもぞと動き、ついにはどう見ても人間の手足が生える。

ここまでが、たった数分間の出来事。


(あの時、それでも処分するべきだったのかな……)


あの時、私が彼を抱き上げたのは。

キノコ頭の下が、人間の赤ん坊そのものだったからだろうか。

それとも、未知から目を逸らせない科学者の性だったのだろうか。


わずかに目眩を感じた主任が胞子が飛散しないよう防護袋を被せることを指示した以外は、誰も言葉を発することができなかった。

誰も処分することを提案できないまま、一番空いている倉庫室に隔離したそれが初日。

翌日、恐る恐る様子を見るとすっかり現在と同じ姿まで成長していた。

言葉は話さないが概ね頭部あたりから声がする。動きはするが大人しい。

とにもかくにも、処分をしなかったのならば"それ"が何か知らなければならない、と私たちは彼からサンプルを採取した。


そしてわかった結果は、科学的定義でいえば、彼はヒトよりキノコである。


「ねえ、ちょっと。こっち見て」


突然、目の前で振られるキャンディ……もとい、ボールペン。

ボールペンのノック部分についたでっかいキャンディオブジェ。

絶対に使いにくいそのボールペンの持ち主が、私の顔を覗き込んだ。


「へ、ああ……センパイ」


この人は私と同じ元抗うつ薬の研究開発チームで、いつの間にか不思議と気が合い友人のように接するようになった今もまだ、当時の関係性のままから呼び方は変えられないでいる。


「へ、じゃない! 早く。こっち来なさいよ」


センパイのデスクには既にチームの皆が集まっていた。

デスク上の研究用マウスを取り囲むようにして、各々手元のレポートに目を通している。

私も覗かせて貰い、そこに記載された各項目の数値を確認した。


「センパイ、これ……」


「例のキノコマン、特に胞子がうつ症状に対し非常に高い効果を示しました。高いなんてもんじゃない、ケタ違いと言っていいわ」


あくまでウイルス感染の方ではなく、従来のうつ病マウスに対する抗うつ薬との比較ではあるが、ケタ違いというのは決して誇張ではなかった。

発現時間は速く、持続性も充分に有り、重い症状にも効果がはっきりと出ている。

ただ、それは同時に――


「ただ、依存性も高すぎる。離脱症状も激しいし、とてもじゃないけど薬としてはね……」


センパイの言葉に、私含め全員が同じ気持ちで黙り込む。

そしてその静寂はデスク上の研究用マウスが発したけたたましい鳴き声で壊された。

マウスは狭いケース内を暴れ回り、壁に強く激突し、高い叫び声を上げる。

センパイはケースを抱え、部屋の奥にあるパーティションの向こうへ入っていった。


マウスの声は止んだ。





「おはよう、キノコくん」


「おはようございます、白衣さん」


「ところで、その白衣さんっていうのは私のことかな?」


「はい。すみません、どうしてか人の名前を覚えるというのが難しくて。おかしいですよね、それぞれ個体として認識はできるのに」


「それはいいんだけど……研究室のみんな、だいたい"白衣さん"じゃない?」


「いえ。例えば昨日ここに来た方は"モジャさん"と"キャンディさん"です。それから――」


主任とセンパイだ。主任は誰もがその作りすぎた鳥の巣みたいな頭に目がいくし、センパイはあのでっかいキャンディ飾りのついたボールペンをいつも胸ポケットにさしている。

続けて挙げられていく彼なりの名前も、メンバーの誰を指しているのかすぐにわかった。

普段そんな特徴など意識したことは無かったのに、不思議なものだ。


「だから、"白衣さん"は白衣さんだけです」


「そっか、なるほどね」


ん?


「それって私に特徴がないってこと!?」


キノコくんは否定してくれなかった。


・・・


「今日も僕の胞子の採取ですか?」


「うん。あと、今日は採血もいいかな?」


本当はもっと様々な機械を使用して検査をしたいが、未だ彼の存在は私たちキノコチーム以外には秘匿している。

その為、例えばレントゲン撮影や……解剖など、大掛かりな設備環境を必要とすることはできない。

それに私たちにとって今重要なのは彼が何者かではなく、あくまで薬の進化だ。

キノコくんの胞子は効果と同時に危険性も高いため使うことはできないが、それでも何かの突破口になるんじゃないかという望みで今も彼についてできる限りの研究は続いている。


「採血、ですか」


「キノコくん自身は胞子の影響を受けないでしょ? だから、もしそれがキノコくんの中に特別な物があるおかげなら次の薬のヒントになるかもしれないの」


「わかりました」


キノコくんが左腕を差し出す。

触れた感触は人間と同じで脈もあるし、やや低いが体温もある。胸に触れれば鼓動も感じる。

だが皮膚組織や血中細胞を調べたところ、見た目の構成は似ているのに機能はしない、または未知の反応をするものが多かった。

つまり、首から下はただ人間の身体構造を模倣しただけの別物である――


「はい、終わったよキノコくん」


赤い血を採取した注射器を抜く。

顔を上げると、キノコくんの柄が反っていてカサの内側がよく見えた。

人間で例えるなら、天井を見上げている感じじゃないだろうか。

そのままキノコくんは喋らない。


「キノコくん、キノコくん?」


軽く肩を叩いて声をかけると、キノコくんはゆっくりと頭を戻した。


「……あ、終わりましたか」


「うん。大丈夫? 今なにしてたの?」


「大丈夫です。少し意識を逸らしていました」


「…………」


「…………」


「……キノコくん、もしかして注射嫌いなの?」


「ソンナコトナイデスヨ」


「カタコトで喋った!」


彼の頭はキノコで顔も何も無いのに、人間みたいな表情が見えた気がしてつい笑ってしまった。

キノコくんは笑い声を上げなかったけれど、もう一度カタコトで喋って、私はまた笑った。


今日知ったこと。キノコくんは注射が苦手。


つまりそれは、彼には痛覚があるということだ。





「キノコくん、私たちのこと恨んでたりするのかな」


「はーあ?」


お昼のお弁当をつつきながらこっそり呟いた言葉に、センパイが顔を上げる。

今日は良い陽気で、本当なら外でご飯を食べたいくらいだ。

今は小さな休憩室でセンパイと二人きりランチタイム。

少し開けた窓から入る風がささやかな癒やしだった。


「だって、ずっとあそこに閉じ込められて……」


「どこの誰に発表できんのよ、キノコ男の存在なんて」


「サンプル採取されるだけの毎日で……」


「そもそも、キノコマンの胞子を詳しく調べてほしいって言ったのアンタじゃない」


「…………」


そう、彼が生まれて2日目。

元々幻覚キノコから生まれた存在なのだから薬として何か"有効活用"できる可能性があるのではと考え、最初に彼のサンプル採取を提案したのは私。

その後サンプルに簡単な検証を行ったところ特に胞子の数値が気になった為、センパイに改めて調査して貰うようお願いした。

結果は先日の通り、劇的な数値。


「アタシは今もあの時のアンタに賛成してる。皆だってそうよ。この前の胞子、安全ラインさえ見つけられれば薬としての道は非現実的な話じゃないわ」


「で、でもっ、キノコくん喋るんだよ!? 今朝だって――」


「アンタ、ネズミが喋ったらこの仕事辞めんの?」


私の言葉は続かなかった。

黙った私の顔を一瞬見つめて、センパイはランチタイムを再開する。

言葉を失ったのは、センパイの台詞がショックだったからではない。

辞めないだろうなという答えがもう、言葉より先に心と顔に浮かんだからだった。


「っていうかあのキノコマン、下半身のキノコは生えてないんだから付き合ったってしょうがないでしょ」


「ヴァッ――!? 今そういう話してないじゃん! あとそんな目で見てない!!」


「冗談だって。あ、そのおかず頂戴」


センパイが私のお弁当箱に箸を伸ばして、目当てのものをさらっていく。

つられて私も同じおかずを食べた。

ほうれん草とエリンギのバター炒め。おいしくできてる。





「僕は、あまり役に立たないでしょうか?」


「えっ?」


キノコくんが生まれてから二ヶ月が過ぎた頃。

胞子の採取が終わると、キノコくんが小さく問いかけた。

私は床に跪いたまま顔を上げる。


「その、薬として」


「ああ……えっと、まだ実用化が難しいだけで役に立って無いなんてことないよ。むしろ、キノコくんの胞子を薬として使う研究が一番進んでるかな……」


「そうなんですか」


「他に症状を抑える薬も、ワクチンも、全然進まなくて……」


進まない、なんてことはない。

もちろん研究は日々試行錯誤を繰り返し、新しい発見もあった。

けれどウイルスが世界を蝕む速度に対して全然追いついていないのだ。

ウサギとカメくらい、追いつかない。


「白衣さんは他の皆さんとは別に、キノコや僕の胞子を使わない薬を主に研究していますよね」


「ん? うん、私はやっぱり麻薬成分を使わないことを目指すべきだと思うの。いつまでも使ってたら危ないし、もちろんワクチンも早く用意しないといけないけど今の感染状況や発症の速さを考えると対症療法薬は今すぐ必要だと思う。それに、安全な薬ができたらウイルスじゃないうつ病にも使えるし。そもそも現行の抗うつ薬だって長期使用すると色々問題が出やすいから、効果が高くて安心して使える薬を作るっていうのが私の最終目標なんだよね。まだ理想だけど、脳内の神経伝達物質を直接的に変化させずに――」


「白衣さん、今日はたくさん喋りますね」


「へっ、あ、ごめんつい。あの、別にキノコくんが必要ないってわけじゃなくてね? 抑うつ状態や不安感への効果は大変興味深くて……」


「いえ、楽しいです。それに僕も、キノコを使わない薬ができて欲しいと思っています」


「そうなの……?」


キノコくんは少しうなだれて、誰にも秘密にしてください、と前置きした。


「僕には、キノコを摂取した生き物が怪物に見えるんです」


「……詳しく教えて」


「厳密には白衣さん達の言う"幻覚キノコ"もしくは僕由来のもの、胞子などを摂取した生き物です。人間以外の、ネズミなんかも。それらが……原形を失くして、何か赤黒い塊のようになるんです。歩くたび蠢いて、声も濁って聞こえて……成分が抜けてくるにつれて元に戻っていきます」


「そう……待ってキノコくん。それはいつ、どこで見たの?」


だって彼は、生まれてからずっと部屋の外から鍵をかけられて一歩も出ていないはずだ。

キノコくんは更に少し身を屈めて、これも秘密にしてほしいんですが、と囁いた。


「名前をつけるとしたら……"キノコネットワーク"です」


「キノコ、ネットワーク?」


キノコくんは床を指し、それにつられて視線を落とす。

何も変わったところは無いただの床だ。


「この部屋を中心に、研究所内そして少しばかり外へ、僕の菌糸が張り巡らされています」


私は膝をついたままの床から立ち上がった。

壁、天井も。キノコくんが続ける言葉をなぞってそれらを見るが、やはり何も見えない。

菌糸……簡単に言えば、キノコの根だ。

それが今、この部屋中に……?


「菌糸から振動や音波、光の反射などの情報を感知するんです。それを僕の中で変換して、大体人間と同じように見たり聞いたりできます。……伝わるでしょうか?」


「……う、うん、たぶん。わからないけど、わかるよ。キノコくんは触覚は体にあるけど、目と耳の役割はその菌糸を通して得られてるんだ」


「そうです。この部屋に来てから、少しずつ広げていました。僕が言葉を覚えられたのもこれのおかげです」


「じゃあ、初めに状況が大体わかってるって言ったのは誰かが説明した訳じゃなかったんだね?」


「はい。あ、さすがにトイレなどプライバシーはなるべく侵害しないようにしています。菌糸から得た情報も外部に漏らすつもりはありませんので……」


コンプライアンス意識の高いキノコだなあ。

研究所内だけでなく外までということは、彼の中で何が行われているかはわからないが相当膨大な情報を処理できているということだ。

ハイスペックなキノコだなあ。


「……さん、白衣さん?」


「はっ! ごめんね、ちょっとびっくりして。――えっと、つまりそのキノコネットワークで見たんだね。幻覚キノコを使った薬を服用した患者や、研究室のマウスを」


「その通りです。菌糸からの情報は意識しないとうまく処理ができないので観測していない例外があるのかもしれませんが、今のところは100パーセント。キノコ薬や胞子を摂取した生き物が、僕にはおぞましい怪物に見えるんです」


「おぞましい……キノコくんは、その怪物を怖いと思うの?」


「――怖いです。だから、白衣さんの目指すキノコを使わない薬。僕もできて欲しいと思います」


切実な声だと思った。少し俯いたカサと、固く握られている両手。

相変わらず表情も何も無い、ほぼキノコのキノコ人間。なのに。


「色々話してくれてありがとう、キノコくん。皆には内緒にしておくからね」


「ありがとうございます白衣さん。僕に何かできることがあったら、言ってください」


今日の事と、追加でキノコくんに聴取してわかった事。

キノコくんは食事や排泄をしないが、菌糸を通して外の土からわずかに栄養を摂っているらしい。

この辺りの生態については概ねキノコとして不思議ではない。

そして例のキノコネットワークとは、菌糸に伝わったあらゆる刺激を変換処理し周囲の情報を得るものである。

菌糸は細く透明で肉眼で見ることは難しい。それなりの衝撃で破壊が可能だが、体と違い痛みは無く再生も早い。


最後に。

彼の元となった"幻覚キノコ"及び自身由来のものを摂取した生き物が、彼には怪物に見える。

原形を留めないほど変貌し、体内の成分濃度が薄まるにつれ元に戻っていく。

彼はそれを、お化けを怖がる子供のように「おぞましい怪物」と形容した。


注射が苦手。バケモノが恐ろしい。

痛みも恐怖も、彼にはあるのだ。





3.変異



「変異株……?」


「が、見つかっちゃったみたいなんだよねェ」


主任の言葉に全員が顔を曇らせた。

メディアに発表されるより早く届いたその情報は、ずっと恐れていたことだった。

新しく発見された鬱ウイルスの変異株は、感染力、症状共により強い。

これまでのウイルスに対してさえ、私たちは満足な武器を用意できていないというのに。


「とにかく症状が重いみたいで、患者から薬が効かないだとか処方を増やして欲しいとかって訴えが凄く多いって医療機関から報告があるんだ……」


「けど今出してる薬は大前提、麻薬なのよ。ハイわかりましたーって増やせませんよ」


「そ、そんなこと言われてもさァ……」


「アタシは別に、主任に言いたいってワケじゃなくて……」


それ以上は誰も発言できないまま、一旦ミーティングは解散した。

横目で奥のデスクを見れば、各所からの報告を受けている主任の顔色は悪く疲れがありありと伝わってくる。


自分のデスクで改めて変異株についての資料に目を通す。

基本は変わらないが感染力が高く、これまでと比較してより重い抑うつ状態、無力感や自己否定感、強い不安から自傷や自殺が絶えない。

そして今までの抗うつ薬や安定剤どころか、リスクと秤にかけて選択した薬でさえ対抗できなくなり始めている。


メディアからは増加する感染者数と医療現場の惨状、民衆の悲嘆の声が聞こえてくる現実。

状況は深刻で、例えどんなものでも早急な対応策が求められていた。

私たちにできることは……


「ねェ、例のキノコマンのやつって今どうなってる?」


主任の声がした。

その声の意図すること、そして導かれることはチーム全員が瞬時に理解したことだろう。

私も含めて。





「キノコくんの胞子を使った薬、もうすぐ承認されると思うよ」


「……そうですか。白衣さん、大丈夫ですか?」


「え。どうして?」


「少し疲れているように見えたので」


変異株の報告を受けたあの日から、私達はとうとう新薬を作り上げてしまった。

鬱ウイルス感染による諸症状に対して最強の効果といっていい薬。

しかしリスクに関しての問題は、ほとんど残ったままである。

それでも間もなく承認される――世界はそれほどに、追い詰められているのだ。


「……大丈夫だよ」


実際、疲れている。

私も自分の研究は棚上げして新薬の開発に携わった。

この薬が世間に渡った時の危険性を感じながらも、自殺者数のニュースが聞こえる毎日の中で手を止めることはできなかった。

とても自分のデスクに戻れる暇は無いまま、新薬は完成したのである。


「それより、キノコくんの方こそ大丈夫? 胞子の取り過ぎで体調が悪くなったりしないの?」


「はい。僕の負担は特にありませんので、気にしないでください」


「そう……」


もし、キノコくんが胞子の採取は苦痛だと訴えたなら。

そもそも監禁生活が不満だと暴れ回るようなタイプだったなら。

私達がこんなにあっさりと薬を手に入れられなかったら。


――なかったら、世界が終わるだけだ。


感染していく速度も、私が理想の薬を作る速度も何も変わらないのだから。


「白衣さん?」


「……ありがとう、またね」


採取袋を持って立ち上がる。

あまり眠れていないせいか、少し頭痛がした。

戻ったら一旦お茶でも飲もう。

キノコくんは頭痛とか無さそうだな、なんてことを考えながら部屋を出た。





『先週、警察は市内の薬局からの窃盗事件を報告しました。現在鬱ウイルスの症状に対し処方される新型抗うつ薬を入手するために行われたものとされています。また、同様の薬を入手するために市内で発生した強盗や押し入り事件も相次いでおり――』


メディアからは連日、新薬を求める人が犯してしまったニュースが流れてくる。

当然と言えば、当然の結果だと思う。

私達は、私はこの結果を予測していた上でなお、キノコくんの胞子を使った薬を出したのだ。

わかっていた……


「白衣さん」


キノコくんの呼びかけで、私は持っていたラジオを止めた。

薄暗い部屋の隅に座り込んだまま、顔だけを彼に向ける。

どこかへ逃げ込みたい気持ちだけでここに来た私をキノコくんは黙って受け入れてくれていた。

ラジオが消えて急に静かになった耳へ彼の声が響く。


「……僕を使った薬は、本当に世の中に出すべきだったのでしょうか?」


「…………」


少なからず報道規制されるメディアよりも、自分で確かめられるキノコくんの方が今の現状をよく把握していることだろう。

キノコくんの胞子を使った新薬は、その劇的な効果から人々の希望として光を集めた。

薬として加工したとはいえ危険性が高い為、医師の厳正な判断により処方が定められる。用法用量を厳守するように、と。

しかし間もなく、それをめぐっての犯罪が少しずつ増加していった。


「どうしてああなるんですか? 薬で症状は良くなって、それで終わりにならないんでしょうか」


「……今、薬欲しさに罪を犯したりしている人は、まずまだ鬱ウイルスの症状が完治していない患者さん」


「鬱ウイルスの症状は無気力や倦怠感だと聞きました。この薬を処方されるのは重症患者で、体が動かせない人も多いと……」


「治療途中の、薬の効果が一旦切れてくるタイミングが最も大変なの。心はうつ症状による強い不安感が押し寄せて、けど薬の効果が残っているから体は動く。結果、攻撃的になりやすいし自殺の危険性も高い」


薬は麻薬と同じ作用がある。不安や落ち込みに効くと同時に、多幸感や高揚感も現れる。

どんなに重い症状にも効く程に強いからこそ、それらも凄まじく忘れられない。

例え以前と比べて症状が軽快してきたとしても、薬の効果で得られていた気分や体の軽さには敵わない。


"幻覚キノコ"その名の通り、現実を夢で上書きしてみせる魔法。


夢から醒める恐怖、心が重く沈み体が動かない現実に戻る恐怖に支配されていく。

少しでも薬が切れてくることが不安になり、より多くの薬を手元に置いておきたくなる。

しかし医師からの処方は厳しく管理される為、時に多少は我慢しなければならない瞬間もある。

そんな時、きちんと見守り支えてくれる人が必要なのだが――現実、それを完全にすることは難しい。


理想はいつも、うまくいかないな。


恐怖や欲に負けて過剰に服用してしまい、足りなくなり、薬のことで頭がいっぱいになる。

離脱症状も激しくなり、自身の免疫が鬱ウイルスに打ち勝ったとしてももう薬を手放せない。

正常な判断力は失われていき……辿り着く先は、薬物依存。


「つまり今薬関連の犯罪が起こってしまうのは、治療途中で不安定な人、ウイルス自体は完治したのに薬の効果が忘れられない人、そんな人達に高額で薬を売ろうとしている人などが後を絶たないから……が、最終的な回答かな」


「白衣さんは、こうなることをわかっていたんですよね」


「……可能性は高いだろうな、とは思ってたよ。まだリスクを充分に軽減できないまま出しちゃったから」


「やっぱり出すべきじゃ……白衣さんの作っている薬の方を、」


「しょうがないじゃない! キノコが無いと、みんな死んじゃうんだよッ!!」


つい払いのけたラジオは床を滑っていき、キノコくんの足元で止まった。

私は……

私は大きな声を出したことで何かが外れ……視界が滲んではこぼれていく。

ずっと抑えていた心が、こぼれていく。


誰も待ってはくれない。手を止めて考える時間なんか、私の薬を待つ暇なんか、世界には無いのだ。


「白衣さ……」


「私のお父さん、昔うつ病で自殺したの」


涙と共に、無意識に言葉もこぼれた。


まだ私が子供の頃だった。

その当時には鬱ウイルスなんてものはなく、父は自身のストレスによって発症した。

幼かった私には父の詳しい事情を理解できなかったし、後に母に尋ねることもなかったので未だに具体的な原因は知らない。

聞いたところで、もう父を救うことはできないから。


ただ、父は生真面目な人で自分の状態を自分が一番許せなかったようだった。


「……白衣さんはそれで、うつ病の人を救いたい、と思ったんですか?」


「結果的にはそう、かな。けど……」


当時の私を取り巻いていたのは、飲み込めない困惑と、父がいなくなったショックと、母のやつれた顔、葬式、声、涙…

たくさんのものが、ぐるぐると渦を巻いて暗い濁流の中に居るようだった。

ようやく落ち着いて目を開けて、残っていたのは父の居ない現実と寂しさ。

記憶としては薄れた今でも、事実として自分の中に在り続けている。


「私は、私を救いたいんだよ。父のような人を救うことが手段で、その結果あの頃の私と同じ気持ちになる人が居ないようにして、そうして自分を救えた気持ちになる。これが目的」


「そう……だったんですか」


そう、だから――

世界の在り方が変わってしまうような禁断の手だとわかっていても。

目の前にある解決が、短絡的な夢だと思っていても。

自分の影が現れる想像をすると、どうしても、見殺しにするような選択は取れなかった。


「医師になる道は選ばなかったんですね」


「うん、なんでかな。ああ、魔法の薬があればいいのにって、思ったんだった気がする……」


こぼれたついでに、少しだけ思い出す。

久しぶりに押入れを開けたような気持ちだった。

医者、カウンセラー、ただ傍に居てくれる人…うつ症状を支えるには、薬以外の方が重要なこともある。

でも私の小さな脳みそから最初に出てきた願いは、お父さんを治す魔法の薬、だったんだ。


「でもだめだね。結局、なんにもできない子供のままで……」


「そんなことは――」


「ちょっと。アンタ大丈夫?」


声へ顔を向けると、既にドアは開いていて人影がそこに立っていた。

一瞬遅れてコンコンとノックされる。

順番が全部間違っているその人は、いつもの顔で私を見ていた。


「センパイ……」


なかなか戻ってこない私を心配して来てくれたのだろう。

立ち上がり、ラジオを拾い上げてセンパイの前に立つ。

泣いたことはバレバレの顔だと思うが、いつもの表情を返した。


「ごめん。だいじょぶ」


「そ。じゃ、顔洗ってこっち戻ってきなさい」


「うん……さっきはごめんね、キノコくん」


キノコくんの短い返事を背に、私はお手洗いへ向かった。



「……あの、本当に大丈夫なんでしょうか?」


「なに、アンタあの子の心配してんの?」


「はい」


「ふぅん。キノコも人の心配とかするのね」


「僕に、何かできることはあるでしょうか」


「さあね……そんなの、アタシも聞きたいわ」





4.終わりと始まり



鬱ウイルスの感染者数は依然増加しているが、自殺者数は激減した。

様々な問題はあれど、症状に対する手段があるという一点で薬の存在は確かに人々の希望となっている。

自分が、そして大切な人が、日毎に蝕まれやがて心身を壊され自殺に至ってしまう恐怖へ何もできずただ祈るだけの時代は救われたのだ。


問題のひとつである、薬をめぐっての犯罪は広がり続けている。

しかし政府や医療現場は毅然とした姿勢で、秩序を保とうと必死に努めている。

それは、次の手が来ると信じているからだ。


一旦の対症療法薬ができたことで、ワクチンの開発と薬の改良は更に前進していた。

これらが完成し安全に鬱ウイルスへ対抗できるようになれば、薬物依存患者の治療もより注力でき徐々に日常を取り戻していけるだろう。

今なんとか踏みとどまっている世の中へ報いる事ができる日がもうすぐ来ると、私たちも信じている。


信じて、いる。だから、もう少しだけ――


「――白衣さん」


「うん?」


今朝はキノコくんの生体試料をとっていた。

いつもと言えばいつもの、部屋の明り取りの窓から少し光が差し込む午前。

世の中がどうなろうと変わらない光。

それに似合わない声で、キノコくんが低く切り出した。


「……昨日の夜、ここで怪物を見たんです」


「え……」


怪物。キノコくんの言うそれは、幻覚キノコあるいはキノコくんに由来するものを摂取した生物に起こる現象。

キノコくんにだけ見えている、恐ろしく変貌した姿。


「ここ、って……?」


「深夜に外を見ていたんですが、所内に何かが見えて意識を戻したんです。そうしたら、廊下に……怪物が歩いていて。けどすぐに出て行ってしまいました」


「そう……誰かは、わからなかった?」


「はい。ただ出て行った時の様子からして、外部の人では無いと思います」


「……じゃあ、誰かが薬を……」


「白衣さん。あの人は多分、薬を大量に飲んだか、もしくは僕の胞子をそのまま吸い込んだと思います」


「そういう違いがわかるの?」


「はい、姿がなんて言うか……すみません、説明に使える言葉が出てこないです」


「いいよ。わかった、ありがとう」


説明が無くとも、その姿がキノコくんにとってどんな印象を抱かせたのかは彼の様子で想像がついた。

そして、キノコくんの言う通り薬を大量に服用もしくは"元"である彼の胞子を直接吸ったのであれば――とても平常ではいられないはずだ。

薬と胞子の保管場所と来ている所員の様子を確認し、場合によっては検査をしなければ……そうだ、その前に主任とセンパイにだけは相談したい。

私はキノコくんへの挨拶をそこそこに、一旦研究室の方へ戻った。





「センパイ、あのっ――」


「あ。ねえ、主任がまだ来ないのよ。電話出ないし。アンタ何か聞いてる?」


「え……」


その時、私が思考する隙も無くデスクの電話が鳴った。

反射的にわずかに近かった私が受話器をとった。

何かとても嫌な予感がして、心臓が鳴り始める。


「もしもし……」


「あ、もしもし? お疲れ様です。ごめんねェ、今日ちょっと行けそうに無いんだよねェ」


「主任……えっと、大丈夫ですか?」


「うん、もう大丈夫。でもごめん、やっぱ明日も行けないかも、あ、いややっぱもうずっと行けないかも。あのさァ、一個謝らないといけないことがあるんだよね……薬をさ、薬と胞子をもう何回か盗んでこっそりやっちゃってたんだよね、ごめん、ほんとごめん……」


「あの、その件は大丈夫ですから後で話しましょう。それより主任、体調は――」


「――でもさァ!! ずるいよねェ、ずるいんだから仕方がないよ。だってズルいよ、なあッ!!」


主任の聞いたことのない荒い声が鼓膜を震わせた。

私の様子を見たセンパイが受話器を奪い取ったが、続く声ははっきりと受話器から漏れてくる。


「こんなにこんなに苦労して毎日毎日疲れてんのにさァ、あっちもこっちもうるさくってさァ……! こっちはクマが消えねえのに、鬱になったからって優しくされていいもん貰ってキメてフワフワニコニコ幸せそうにしちゃってさァ! 羨ましくなっちゃったんだよ……疲れてさァ、もう……ちょっと夢見たかっただけなんだよ……必死こいて感染対策してるのに損してねえかなコレって思っちゃってもうさ……ご褒美だろコレはッ!! ああ、ああーダメダメダメ、もうダメなんだよ、無いとダメになっちゃったよ。戻ってくるつもりだったんだよ、ちょっとで済ますつもりだったんだ、信じて。ね……でももういいんじゃないかな? もういいだろッ! うるせェよッ! ごめん、もう戻れないんだ、コレが無いともう戻れないんだよ。後はよろしくね……みんなも来ればいいよ、コレより幸せなことなんかもう世の中無いと思うからさ、ああもう限界だから吸うね……あ、アァ……あっ、アアア――…」


最後に倒れるような物音がして、電話はそのまま切れた。

私もセンパイも言葉が出ない。息も思考もできず、心臓の強い音だけが響く。

主任は……

これから、どうしたら……もっと早く、気づいていれば……


「……っ、アタシちょっと行ってくるわ。病院連れて行かないといけないし。聞いてる?」


「え、あっ……うん。そう、だよね。病院……」


「しっかりしなさいよ。連絡するから、アンタはここに居て。わかった?」


センパイが部屋を出ようとすると同時に、所員がひとり駆け込んできた。

酷く慌てた様子で――電話のショックで今まで気づかなかったが、なんだか外が騒がしい。

所員が息を切らせ、くしゃくしゃになった一枚の紙を渡してくる。

そこには画質の悪いモノクロ写真と文字が印刷されていて――


『研究所に隠された巨大キノコ!』


『私たちの薬は成分を薄められたうえ厳しく制限されている。しかし国は我々を抑圧している一方で、こんなにも巨大なキノコを秘密裏に育てていた。』


『キノコの独占を許すな! 我々には幸せになる権利がある!』


写真は暗くノイズが多いが巨大なキノコが写っているのがわかる。

キノコくんの部屋の明り取りの窓から望遠カメラで撮られたのかもしれない。

首から下はほとんど写っていないが、写っていたとしても状況は変わらなかったろう。

彼らにとって重要なのは、首から上なのだろうから。


「なんなの、これ……」


「……薬の依存者が徒党を組んで、最近じゃカルトみたいになってるって聞いたけど、まさか……」


「どういうこと!? どうして……」


「とにかく、外の騒ぎがコレならまずいわ。全部ロック確認して、アタシは――」


突然、何かが割れるような大きな音が響いた。

私は咄嗟に駆け出し、センパイの声を捨ててまっすぐ向かう。

あの部屋に違いない。





「キノコくんッ!」


「白衣さん……」


ドアを開けると、やはり床には散ったガラスとレンガのような物。

穴の空いた窓からは歓声のような音が流れていた。

このままここに居ては次に何が起こるかわからない……


「ついて来て、どこか……隠れないと!」


私はキノコくんの腕を引いて部屋を出る。

サンプル採取以外の目的で彼に触れたのは、これが初めてだった。

……いや、正確には二度目になる。

初めては彼が生まれたあの日、抱き上げたあの瞬間だ。





「…………」


ひとまず飛び込んだのは、キノコくんの部屋より狭い倉庫。

ここは棚を含め大きな物をいくつか置いている為、私たちはそれらの間に座り込んだ。

窓はひとつも無く、ドアを閉め鍵をかければ暗闇になる。

腰を下ろしたのを合図に私は深く息を吐いて、それからまた心臓の音と自分の荒い呼吸音がうるさく聞こえた。


「……キノコくん、状況はわかってる?」


「全てではないですが。……皆さんは、僕が欲しいんですね。僕から出る胞子が」


「大丈夫だよ。きっともうすぐ警察が来てくれて収まるから……」


「……。収まるでしょうか? 僕の存在はもう露呈してしまったんです」


「…………」


「それに――警察もすぐには来られないと思います。外の混乱は激しく、集団は一部銃火器なども所持しているようです」


「なっ、なんでそんな物……!」


「どんな人も居るからです。警官だった人もいます。感染して薬を服用した人ばかりでもない。自ら、モジャさんのように……」


「…………」


主任……

電話が切れて以来この騒ぎで結局安否はわからない。

色んな人が、自分の力や知恵を総動員させてキノコくんを手に入れたいと思っている。

こんな騒ぎを起こしてまで。保っていたすべてを壊してでも。どんなことをしてでもという気持ちで。


このままなんとかやり過ごせたとして、その後は……


「――ッ!?」


暗闇に顔を伏せると同時に、強い揺れと轟音。

爆発――…!?

けたたましい警報器の音。遠くから悲鳴と、複数の足音が広がっていく。


「何人かに侵入されました。警察が駆けつけて応戦してくれているようですが……ここも危険だと思います、白衣さん」


「で、でも……!」


他に隠れる場所なんてない。どこへ逃げろって言うの。

キノコくんを外に出す訳にもいかない。

彼を外に出してしまえば、もう世界は二度と元に戻れない気がする。

いっそこのまま隠して隠し続けて、あれはガセだったんだと収まってくれさえすれば――


「大丈夫だよ、キノコくん。こんな倉庫、誰も見に来ないから。だから……」


「白衣さん」


キノコくんの潜めた声をかき消すように、ドアノブが乱暴に回される。

いつの間に、こんなに足音と声が溢れていたのだろう。

私は急ぎ近くの荷物を引きずって、強く叩かれ続けるドア前へ運んだ。

ただの倉庫のドアであるそれは脆く、鍵の壊れる音がして数センチ開く。


「おい、ここだ! 人がいるぞ、ここにキノコがあるんだ!!」


「誰もっ――何もありません、やめてください! 帰って!」


体重を掛けて荷物を抑えるがドアは閉まらない。

じりじりと押され、少しずつ開いていくのがわかった。

早く、早く誰か……


「お前らで独り占めしてたんだろう! 本当は税金吸いながらキノコも吸いまくってたんだろ!」


「そんな訳ない、どうしてそうなるの!? 私達はっ、みんなが助かる薬を作るために毎日――」


「じゃあその薬はいつできる!?」


「そんな、の……でも、もうすぐ…本当にもうすぐなんです! もう少しだけ、」


「あと何日、何年後だ! 俺達はいつまで苦しめばいい!?」


そんなの……

そんなのわからない。

だけどその回答は、彼らに向けてあまりに不誠実に感じた。

私も立場が違えば同じことを思ったのかもしれないから。


「いやもういい、もうどうでもいいキノコを寄越せ!!」


「やめて――っ」


「それさえありゃみんな救われるんだ――!」


「白衣さんッ!!」


銃声が耳をつんざくと同時に、視界が揺らぎ体が浮遊する感覚。

周囲の輪郭が暗くぼやけていき思考も閉じていく中、誰かに強く抱き寄せられた。

すべての音がこもって遠ざかっていく。

最後に、私を抱く手の熱さだけを感じた。



結局私、誰のことも救えなかったな……

世界中の誰ひとりも、自分のことも。


ごめんね、ごめんなさい……


お父さん、お母さん…センパイ、主任、みんな…


キノコくん――…


…………





鬱ウイルス対策チームの研究施設前には、多くの人々が群がっていた。

騒ぎの発端である依存症患者集団、警察、消防、野次馬、報道機関……各々の譲れない争いによって辺りは混迷を極めていた。

特に依存症患者らの声は引くこと無く、施設を取り囲むようにして皆一貫した主張のもと暴動に加担している。

彼らの主張はただひとつ。


「キノコを出せ!」


夢に取り憑かれ、それが薬だった過去も、それがなんの為に生まれたのだったかも彼らの中では消え去っていた。

彼らにとってそれはもう生活であり酸素であり、この行いは生きる時間を守るための正義であると信じている。

死に至る病が発見されて以来、恐怖に勝利すべく歩み続けたわずかな歴史の末路。

とうとう世界は、ここまで来てしまっていたのだ。


「――おい、アレなんだ?」


暴徒と警察とで一際人の集まっている中、誰かの声があがった。

不思議と喧騒の声は小さくなり人々は顔を上げる。

建物の屋上。そこへ向けて次々と視線が集まっていく。

彼らの目に映ったのは、太陽を遮るようにして立つ何かの姿だった。


「人か……?」


「いや、あれは……」


人のような、しかし人ではないそのシルエットは屋上の縁に黙って立っている。

誰も彼も言葉を失った一瞬の静けさ。

――直後。


「キノコだああぁぁーーーーっ!!!」


それは人々の中へ飛び降り、皆の眼前に迫るのは巨大なキノコ。

湧き上がる大歓声に呼応するように、大量の胞子が舞い上がった。

まるで煙のように肉眼で見える程の胞子は風に乗り、瞬く間に広がっていく。

自らの意思と関係無く、いずれ全ての人々はそれを浴び吸い込む事となる。


こうして、人類を震撼させた脅威は消え去ったのだ。


魔法のように。





――1990年。


窓から明るい外を見れば、静かで平和な時間が流れている。

少し浮足立った気配を感じるのは祭りでも始まるのかもしれない。

私は窓に背を向け部屋の隅へ戻り、机上の蓋を閉めた試験管を見つめた。


麻薬成分を含まない、うつ症状を改善させる薬。


あの襲撃事件からしばらくして、私の目指していた新薬は完成した。

従来の薬に比べて副作用も少なく効果も高い。……理論上は。

この薬はきちんと効くのか、本当に安全かどうか確かめることはできない。

もうこの世界には必要ないからだ。

ストレス、絶望、不安…そんな心に悩み苦しむ患者はどこにもいない。


あの日、私は撃たれたあと同じ倉庫で目を覚ました。

銃弾は私の右肩をかすめていったようだが止血の応急処置がされており、顔は防護マスクを被っていた。

ショックで倒れたものの傷は浅く、今は痕が残った以外で支障は無い。

外から漏れる人々の声色から、世界が一変しもう取り返しのつかなくなった事態を悟った。


私は裏手から隠れるように逃げ出した。幸い、誰も私のことなど見向きはしなかった。

その後なんとかこの部屋で生活を始め、ついに念願は果たされる事となる。


鬱病患者は居なくなった。

薬も完成した。

――私の願いは、すべて叶ったのだ。


「…………」


世界はどの歴史よりも平和な時代が訪れた。

人の心に埋められない穴など無いと、哲学は消え去り神仏は眠りにつく。

幸福な新人類は、呼吸や食事と同じ列にキノコの胞子を喫することが追加された。

私は未だに旧人類のまま、"彼"のことを思う。


彼にとって、この世界はどんな風に見えているのか……


澄んだ空を、人の微笑みを見る度に。鳥のさえずりが、誰かの笑い声が聞こえる度に想像する。

私だけが知っている。そして私でさえ想像することしかできない。

光り輝く万人にとって、彼に見えているものなど犠牲にすらならない。

人々にとってこの光をもたらすのは、ただのキノコだ。


「あの時、私が……」


床を見つめ、出会ったあの始まりを思い出す。

そもそも彼は私の不注意で生まれた存在だ。

その事実を彼が知っているかどうかすらわからない。

どちらにしろ私は謝罪すべきだったのに、答えを恐れてずっと言い出せずにいた。


「……私のこと、恨んでるだろうな」


彼がこの世に生まれた原因は私。彼に初めて注射針を刺したのも私。そして監禁して、研究材料として扱い続けたのだ。

大いなる目的の為と信じて、得られたものはなんだった?

そうしてこんな結果になって、私を恨んでもおかしくない。むしろそれが道理だ。

頭の中で謝罪するたび、彼の姿をした私自身の声が責め立てた。


「……ごめんね……キノコくん……」



背後の窓を、誰かがノックした。



END

幻覚キノコマン_Novel

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