「どこだ……ここ……」
ふと目を覚ますと、見慣れない天井が映った。
薬のようなカビのような匂いのする部屋の中で、俺はベッドに横たわっていた。
そのままで室内を見回すが、壁際に小さな引き出しと洗面台、鏡があるだけだった。
病院――? いや、そう呼ぶにはあまりにも冷たい空気。
まるで独房のような。電灯に照らされた白いベッドの上で、そんな印象を抱いた。
「目が覚めたようですね。おはようございます」
正面のドアが開き、女性の声が部屋に響いた。
この部屋と同じ空気を漂わせる彼女は、白衣のポケットに手を入れたままベッドまで歩み寄る。
上体を起こして呆気に取られたままの俺を観察するように、黙って上から下へそして上へ視線を流した。
白衣を着ているなら医者、なのだろうか……
「何かありますか?」
「ハア……?」
「痛みや気分の悪さなど、異常があれば今申告してください」
「なっ――! そもそもここはどこで、アンタは誰なんだ! 医者なのか!?」
「いいえ。ここは研究室(ラボ)です。元気そうでなにより」
彼女は白衣をひるがえすと、電灯を消し壁に向かって端末を操作した。
まっさらな壁に大きく映像が映し出される。
まだ何も把握していない俺を置いて、彼女はこちらに振り向きもしないまま言った。
「これを見てください」
壁に映った映像は、どこかの会社のオフィスのようだった。
画角や画質の荒さから、防犯カメラの映像に思える。
残業中か、照明は薄暗く人数もまばらな中、スーツ姿の人達がパソコンに向かっている――ごく普通の光景。
「今、人類はある菌に侵略されています」
「は……? いや、ちょっと待て――」
「見ていてください」
彼女は、席を立ったある男性を指した。
男性は別の席へ近づき、座って仕事をしているらしき男性の肩に手を置く。
そこでカメラはズームされ、肩に置いた手元を中心とした部分が壁いっぱいに広がった。
肩に置かれた手から、何か白い糸のようなものがいくつも伸びていき、傍の耳へと入っていく。
そして肩に手を置いた男の口元が、耳元へ近づいて――
『……ハッコウを……進めよう……』
「……っ!?」
突然映像から音声が流れた。
元々極小だった音を最大限に上げたようなノイズの酷い声。
しかし、その声に感じた異様な気味の悪さはそれが原因では無いと直感的に思った。
白い何かが耳に入った男性は表情を変えず、だが……その眼が、ゆっくりと白く濁っていく。
「なんだよ……これ?」
「感染の瞬間です。今、私たち人類はコレに支配されようとしているんです」
「感染? 病気の、ウイルスか何かってことか……?」
「数年前より確認されていた未知の菌類。私は"寄生菌"と呼んでいます。コレは人から人へ感染し、人間の脳に寄生し、その個人を乗っ取るんです」
彼女は声色を変えずに淡々とそう言った。
映像はいつの間にかズームアウトされ、元のオフィス風景になっていた。そう、元の。
手から白い何かを出した男も、白い何かが耳に入った男も、会社員として何事も無かったかのように動いている。
「乗っ取るって……今ので?」
「寄生菌は、宿主の元の行動パターンをトレースし、変わらぬ日常を演じます。 周囲に違和感を持たれないよう、菌が"擬態"を行っているのです」
映像の男たちは変わらず業務に勤しんでいた。
始めに見た時と何も変わっていないのに、ザワザワとした何かが残っている。
「彼らの言動は、菌の意志によって決められ操作されています。元と同じ人間に見えても、元の人格ではありません」
「そっ、こんな……こんなの俺に見せてどうするんだよ!? 大体まだ聞きたいことがあんだ!」
「さっきの映像、何が見えましたか?」
「おい――」
「早急に、どうしても聞きたいんです。さっきの映像、特に感染の前後に見えたものを話してください」
「…………別に、見たままだろ。肩に乗せた手からなんか白い糸みたいのが出て、もうひとりの耳に入ってった。そしたらそいつの眼が白く濁った。これでいいかよ?」
「なるほど、あなたにはそこまで見えているんですね」
彼女は映像を消し、部屋の電灯をつけた。
さっきの映像も、現状も、まだ何も受け止めきれていない俺に向かって白衣の女は口を開く。
「このままでは人類はこの菌に支配され、終わる。ですが研究の結果、ある"幻覚キノコの菌"が非常に有効だとわかりました。幻覚キノコの菌は、寄生菌のネットワークを崩し感染者を解放する」
ふと、座ったままの自分の手元が視界に入った。
電灯に照らされて、白いベッドの上に自分自身の影が落ちている。
そう……自分の影のはずだ。
この大きな影は、なんだ?
「菌には菌をぶつけんだよ、ということです。あなたには――」
妙に重い気分で自分の顔に触れる。
そこには、あるはずのパーツがひとつも無い。
なぜ今まで気づかなかった? いや、最初から考えもしないことは人間気づかないものだ。
俺は――
「寄生菌に対抗できる唯一の生体兵器、"幻覚キノコマン"として世界を救ってもらいます」
俺の頭は、巨大なキノコになっていた。
◆
「なんなんだ……なんなんだよッ! コレは!!」
俺はキノコの柄を掴み、思いきり引っ張った。
しかし、何をどうしても取れる気配はない。
それは最初から俺の首であったかのように、ピッタリとそこにあり体温さえ感じた。
ベッドから飛び降りて、備え付けの洗面台へ駆け寄り鏡を覗き込む。
俺の体と、そこから生える巨大なキノコが映っていた。
「…………なあ、なんで俺は見えてるんだ? あと耳も、口も無いのに」
「それはおそらく、あなたが無意識に菌糸を使いこなしているからだと思います。意外と冷静ですね。あなたに対する慰めから制圧まで、一通り考えていたのですが」
「全然冷静じゃねえよ……」
重いような、浮いているような足でベッドに腰掛け直した。
言いたいこともぶつけたい感情もたくさんあるはずなのに、頭が真っ白で何も浮かばない。
白衣の女はそんな俺の様子を一瞥した後「改めて説明しましょう」とだけ言って、もう一度部屋の電灯を消した。
端末を操作し、再び壁に映像が映し出される。
今度は無機質な研究データの羅列のようだった。
菌類の培養写真、顕微鏡で撮影された細胞構造、そして奇妙な脳波のグラフ。
どれもこれも俺には理解できないが、彼女は説明を続ける。
「あなたは、ある希少な"幻覚キノコ"の菌と共生しています。このキノコは非常に特殊で、胞子を吸い込んだ者に幻覚を見せるだけでなく――これを見てください」
彼女が指した壁に映る2枚の画像は、シャーレに入った何かだということだけわかった。
ただ、これが例の寄生菌とそれに幻覚キノコの菌を付着させた比較画像だろうと直感的に思った。
自分のものでは無いような、そんな直感で。
「この幻覚キノコの菌は、寄生菌のネットワークを崩す働きがあります。寄生菌に対しこの結果になるのは唯一このキノコだけです」
ピッという音と共に壁の映像が変わる。
また防犯カメラのような映像で、しかし今度はどこか病院の大部屋のような場所だった。
複数の患者らしき人たちが談笑している様子に見える。
特筆することも無いような光景。
ただ、その全員の眼が……白く濁っている。
「人間はこの寄生菌に感染すると、脳を乗っ取られ、そして通常はあたかも元の人格を維持しているかのように振る舞います。音声も流しますので、よく聞いてください」
ミュートを解除したのか、映像に加えて談笑する音声が流れる。
声色も普通で、何もおかしなことは――
『今日はいい天気ですねえ』『ええ、本当に味噌汁が熱くて』『そういえば昨日犬が雪が解ければ見えてくるよ』『私は晴れですが駅ビルと月曜日は食べられますか?』
「ん……?」
「彼らは全員感染者です。非感染者に対しては人間として普通の応対をしますが、感染者のみになると適当に日常のガワだけを演じるようなんです」
「……なんか……なんていうか……」
気持ち悪いな。それが素直な感想だった。
ただ菌と言われても風邪菌のようなイメージしか無かったが、寄生菌には確かな意思や知能があるように感じて、その未知さにぞっとした。
「幻覚キノコの菌はこの寄生菌の活動を阻害し、感染者を一時的に解放できます」
「一時的に解放? 消えたりはしねえのか?」
「今、人類が寄生菌に対抗できる手段はほぼ存在しません。ワクチンも、治療法も確立されていない。ですが、あなたの力を利用すれば寄生菌たちの邪魔ができる。続けていけば、その間に治療法が見つかるか……もしくは、寄生菌の"大元"が出てくるかもしれません。存在すればの話ですが」
寄生菌の大元……意思ある菌たちの中心、根本、最奥、ないしは、統べる誰か。
あるかもしれないし、無いかもしれない。
今ここまでの時間すべてすらまだ信じられていない中で、覚えられない夢みたいなことばかり積み上がっていく。
今、俺がどんな顔をしているか、わかる奴はいないんだろうななんてことを首の感触を確かめながら思った。
「ところで、こちらを見てください」
と、白衣の女は躊躇なく空気を破り、先程の病室での映像を一時停止したものを指した。
彼女のこういうところは、決して俺の顔色がわからないせいじゃないと思う。
「始めに見せたオフィスの映像で、あなたは白い糸と濁った眼と言いましたね。それはこの映像でも見えますか?」
「あ? ……ああ。糸は無いけど、全員眼が白い、だろ」
「それが見えているのはあなただけです」
「は?」
「私には見えません。様々な方法を試しましたが、科学的な視点では確認できなかった。つまり、それはある意味で幻覚――寄生菌の感染を感知できる特殊な幻覚をあなたは見ているんです」
俺にしか見えていない、科学的にも映らない、ならばそれは幻覚。
いっそこの頭も、今この瞬間も、全部幻か夢ならいいのに。
未だ壁に映り続けているものを見つめながらそんなことを考えると同時に、オフィスの方の映像を思い出していた。
肩に手を置いたあと、耳へ近づいて……
「なあ、そういえば……ハッコウをすすめよう、だっけ? オフィスの方の映像、何か言ってたよな」
「微生物が有機物を分解し別の物質に変化させる、あの発酵ではないかと考えています」
「パンとかヨーグルトとかの?」
「そうです。数は少ないですが、感染の瞬間と思われるいくつかの記録では、必ず同じ言葉が発声されています」
おそらく発酵で間違いない、と俺も思った。
そして、どこから湧いてくるのかわからないが、やはり寄生菌たちには意思と目的があるという妙な確信もある。
頭がキノコになって、菌としての直感とかが芽生えたのか? え、なんか嫌だな……
「今更だけど、俺の頭をキノコにする必要ってあったのか? 感染した人にキノコ吸わせておけばいいじゃねえか」
「理由はいくつかありますが、まず現状、人間は寄生菌に対抗できる手段がありません。感染しない人間が必要なのです。そして感染者の解放についても、ひとりずつ感染者かどうかを調べキノコを投与するではとても追いつきません」
確かに、病気のように明らかな症状も患者が自己申告してくることも無く、そして見た目でわかるのは頭がキノコになった俺だけ。
飲み込み難いが、まあ大体理屈的なことや現状は一旦受け止めよう。
俺は最後の質問を投げた。
「俺をキノコにした理由はなんだ? なんで俺なんだよ」
「キノコに改造した訳ではありません。私の父が作成した、適合者の可能性が高いリストからあなたを選んで幻覚キノコを掛け合わせたところ、一発で成功し共生反応を起こしたのです」
「私の父? 親父は俺になんか言うことねえのかよ?」
「……父は、現在消息不明です。あなたに見せた資料も、作成したのはほとんど父です。あなたに見えている"幻覚"も、父にはわかっていたようでした。資料に無い他の情報も、きっと知っていたはず、なのに……ある日、忽然と姿を消してしまった」
白衣の女はここまでと変わらない声色で淡々と話したが、わずかに語尾が震えていたのがわかった。
少し伏せた眼を見て、そんな表情もできたんだな、とただ思った。
彼女に残されたのは父親の研究と、貧乏クジ引いた俺。
そして今も人類を侵食しつつあるであろう、寄生菌。
「あ゙ー、わかったよ、全然わかんねえけど! 俺が協力するしかないんだな!? あきらか被害者だけど!!」
「……ありがとうございます。今後についてはまた明日、改めて。これからよろしくお願いしますね、キノコ君」
「あ゙!? おい、俺にはちゃんと名前が――!」
「どうせ任務中は偽名で呼ぶことになります。わかりやすいコードネームでしょう」
「――ッ、そうかよ! じゃあ俺もそのまま呼ばしてもらうぜ、白衣サン!!」
彼女は静かにドアを出ていった。
誰にも聞こえない短い抵抗を呟きながら、俺は洗面台へ向かう。
鏡に映る俺は、やはり何度見てもキノコだった。
「…………」
首の辺りに触れる。
キノコの感触と、人の肌の感触の、ちょうど境目をなぞる。
人間とキノコの境界。
俺には人としての名前がある。記憶喪失になった訳じゃない。
だが目が覚めてからここまで、自分のでは無いようなものを感じる瞬間がいくつかあった。
それは奇妙な直感だけでは無い。色んなことに、少しずつ自信が無くなっていく。
本当に俺は、こんな人間だっただろうか?
鏡を離れ、ベッドに潜り込む。
睡眠が必要かもわからないが、とにかく眠りたかった。
頭がキノコの割に、寝心地に違和感はあまり無い。
……俺は元に戻れるのか?
その質問だけは結局、答えを聞くのが怖くてできなかった。
◆
――某所。
「ククク……我々発酵者(ファーメンター)も、着実に増えているようだ。もうすぐ世界は、次のフェーズへ移行する――」
「さあ、発酵を進めよう」
◆