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ゴースト/アウト・オブ・ザ・マシーン

大昔に書いたSF短編。 人類が絶滅した後の、明るい未来の話。

 書籍という名前で分類される、この奇妙な情報デバイスは効率が悪い。  重さ5g、20㎜四方のチップから500TBの情報を1秒未満で取り出せる演算能力を行使しているというのに――重さ1㎏弱、210㎜×148㎜の書籍から500KB前後の情報しか取り出す事ができない。しかも、二時間以上かかって、だ。 “どうして、こんな非効率な情報摂取を行わなければならないのか”  レイジー・アルファは専用の書籍情報解読プログラム(つまり、読書を実行するためのプログラム)をランさせながら、過去に記述されたそんな未解決文をメモリの片隅に呼び出していた。同様の操作は過去に877回繰り返されている。クリアされないままホールドされ続けている疑問文。  もちろん、今回も解決の見込みはない。レイジーはあきらめて、その文を未解決のまま終了した。  “人間”は、こういう時、ため息というのを吐いたらしい。 「レイジー、おはよ。何か面白い成果は出た?」  音声認識――同定。同型種のフール・アルファだ。プログラムを中断し、カメラアイをそちらに向ける。紫色のカラーリングを施されたフールは、レイジーと同じく片手に書籍を抱えて歩いて来た。半透明のガラスパネル部から、カメラアイが真っ直ぐこちらへ向けられる。レイジーのものと比べて、一世代前のモデルだ。  10万冊の蔵書を持つという大図書館の書棚の間をこちらへ向けて歩いてくる。規則的な足音が周囲に響いた。 「おはよう。別に成果って言われてもね。今日はようやく5KB入力したくらい」 「容量は問題じゃないの。何か新しい発見とか、さ」 「……発見、っていわれても」  言いよどむレイジーを横目に、フールはぴょんと身軽に跳び上がって、おしりからソファにボディを投げだした。舞いあがった微細粒子や微生物により空気の汚染率が一時的にハネ上がる。  彼女は、無駄が多い。 「何かあるんじゃない?」 「何か、と言われてもね。一応、データ同士の分類と、統計による傾向分析は並行してやってるけど、今のところ有意な結果は……」 「そうじゃなくて」  フールは何が可笑しいのか、声を揺らがせながら言う。“人間”を模倣した感情表現だと以前言っていたけれど、そんな事のために不要な音響合成を行う意味は、レイジーにはあまり分かっていない。メモリの無駄だ、と思う。 「レイジーには、もっと刺激的な体験が必要ね」 「……意味が分からないわ、フール。大体……」 「おっはよ~! ふたりともご機嫌うるわしう!」  頓狂な声を挙げて近づいてきたのは、イディオット・ベータ。M129-β型の彼女は、α型のレイジーやフールよりも新しい型式だ。黄色を基調にカラーリングされたイディは、両手をぶんぶん振りまわしながら二人の前に立った。  M129型の3機が並び、これで「ヒストリー・ヒーターズ・クラブ」のメンバーが揃った事になる。この3人で人間の有史以来の歴史を勉強する、一種のサークルのようなものが結成されているのだった。 「おはよう、イディ。左腕のアクチュエータが不調だって言ってたけど、もう大丈夫なの?」 「んー? なんか原因不明だからとっ替えちった。えっへへー、新しい腕、快調快調」 「大雑把ねぇ。今月もう3本目よ。接続不良じゃないの? 今度見せてみて」 「へーきだって。レイジーちゃんもおはよ」 「おはよう」  こちらも盛大にほこりを舞い上げながらソファに座る。それから、フィルター奥のカメラアイをわざわざダイオードで発光させて“目を輝かせ”ると、いつも通り突拍子もない事を言った。 「ねぇねぇねぇ! ユーレイって知ってる?」  幽霊。レイジーの言語処理プログラムは、すぐに的確なキャラクターコンヴァーション……漢字変換を完了した。この段階で処理を誤って、会話が噛み合わなくなる事も多い。“人間”の言語はもともと非効率だけど、この日本語というのは特に伝達効率が悪い気がする。 「幽霊ね。“人間”が死んだ後に残って、現れるタマシイの事だったかしら」  なぜか楽しそうにフールが言う。 「タマシイ?」  今度は「魂」と変換された。しかし、それと結びつくような既存の言語データは、レイジーのメモリには存在していない。  つまり――分からない。 「地下に保存されてる、ほら、感光フィルムを再生するタイプのクラシックなムービーがあるじゃない? あれだとね、ヒュードロドロ、って出てくるんだよ。幽霊。ヒュードロドロって」  イディはマニピュレーターを忙しく回転させながら説明してくれるが、大抵、さらによく分からない。  情報の処理が間に合わずフリーズ寸前のレイジーを見かねて、フールが助け船を出した。 「“人間”が生命活動を停止した場合に、フィジカルにはもうその個体は死亡したことになるんだけど、その人間の精神(マインド)は分離して、死後も独立して観測されると信じられてたらしいのよ」 「それは……つまり、ハードウェアが機能停止した後で、オペレーションシステムだけが勝手に動作する、っていうこと?」 「そうね。しかも、プログラムを実行するメモリ領域からも遊離して、OSだけが何もないところに投影される……と思われてたみたい」 「不合理な話ね」  レイジーたちの思考や解析、つまり人間でいうところの“意識”は、もちろんそのフレーム内にある電子基板上で処理されている。当然のこと、そのフレームや基板が失われれば停止するしかない。  レイジーたちが把握している限りでは、人間の“意識”も脳のニューロン同士の電気的・化学的反応によるネットワーク構造上をランしていた、一種のオペレーションシステムだったはずだ。ハードウェアが何らかの理由で停止したのに、OSだけ起動し続けるなどという話はあり得ない。  違いがあるとすれば、レイジーたちHK(Human-Kynd型アンドロイド)はデータのバックアップが存在しているため本体機能が失われてもリカバリが可能だが、人間にはそれが不可能だったという事くらいのはずだ。 「特に、アクシデントやトリックで不本意に死んだ人が、幽霊として出る事になっていたみたいね」 「そーそ。怨みを晴らしに出てくるんだよね。うらめしやー、って」  イディが、マニピュレーターのスナップ部分を前にだらりと垂れさげて、マイナーコードの和音で歌うように言う。彼女は人間たちの残した古い映像データの閲覧が好きで、そのせいかよく分からないボキャブラリを大量にストックしているのだ。レイジーもフールもその点はもう慣れてしまっているので、適宜話題から除外しながら議論を進める事が効率的、と学習していた。  分からないながらに、レイジーのCPUは演算を始めていた。自身のバックアップが存在しなかった場合の、社会モデルに対するリスクを試しに計算してみた。人間の事は分からないが、人間についての「理解」を試みるのがレイジーたちの役目でもある。 「アクシデントで、ね」  自身のバックアップが存在しないままで、意図せずレイジーを駆動するシステムが失われてしまう。記憶領域も復元不可能な状態まで破壊されてしまう。  その場合――レイジーの記憶ディスクに蓄積されていた情報が無駄になるというわけだ。それは確かに、好ましくない。  情報をダイレクトに送受信可能なHKに比べ個体間の情報伝達にロスの多い人間たちにおいては、一個体分の情報ロストはなおのこと、相対的に大きな損失であるだろう事も予測できる。  そういうことだろうか? 「つまり、自身のバックアップが存在してほしいという願望のことを指しているのかしら」 「それが幽霊?」  人間という種は、実現困難と判断したタスクを「願望」という名で、対象不定の依頼の形で表明する場合があった。そのような表明で、タスクの実現可能性が高まると考えていたのだろうか。以前フールたちとその事でディスカッションしてみたけれど、その場で出た答えは結局、「False」だった。  それでも多分、意味のある行動だったのだろう。 「ユニークね、レイジー」 「うーん、違うような気がするんだけどなぁ」  イディは納得いかないらしく、頭部ユニットを傾げて見せた。  気がする、などという曖昧な評価の出来るのが、イディの思考プログラムの進んでいるところだ。おそらく、一番人間に近い。  彼女の意見に、関心が向いた。レイジーはゆっくり、イディの方へ向き直った。 「どの辺が違うの?」 「うん? えっとね……ほら、人間ってさ、怖い時に悲鳴とかあげるじゃない? 古いフィルムとか見てると、ユーレイを見た人間はやっぱり悲鳴あげたりするの。ただのバックアップ願望だったらさ、失ったはずのバックアップに出会えたならそれってポジティブな出来事じゃない? なんで恐怖を感じたり、避けたりしなきゃならないのか、わかんない」 「恐怖……ユーレイって、怖いものなんだ」 「なんか、そうみたいだよ」 「でもさ、人間が感じる恐怖とかって、論理的な整合性で評価しにくいじゃない? それだと議論が続かないよね。せめて何らかの形で観察とかサンプリングとかできれば違うのかもしれないけど、それももう叶わないし」  レイジーたちHKには、恐怖を感じるなどという機能はない。  人間たちの生み出した概念や言葉を理解する事も難しくはあるが、そうした言葉の使用例の学習を続けていれば、アルゴリズムに基づいてある程度「意味」に漸近していくことはできる。  問題は、彼らが生得的に持っている感情などだ。これは学習することができない。  ヒトはどんな時に「恐怖」するのか。とりあえずは自分たちの生命が脅かされた時だろう、とは分かる。けれどそれだけではないらしかった。まったく危険を伴わない、ディスプレイやスクリーンの中の架空の存在に対しても「恐怖」していたらしい。さらには、自ら望んでそうした「恐怖」を購入していたようだし、そのための架空の「恐怖」を膨大な労力と資源を消費して制作していたらしい。イディが暇さえあれば見ているのもそうした経緯で生み出されたフィルムだ。  自ら望んで買い求めていたのであれば、「恐怖」は忌避するべきものではなかったのかも知れない。そこがよく分からないのだから、ユーレイとは何かを類推する条件としては使えない。レイジーは、そう判断するのだが。 「よく分かんないなぁ」  こういう時、いちはやく匙を投げるのがイディだ。カメラアイを覆う有機ELカバーに?マークを浮かべて、それをくるくる回転させた。  入れ替わりに、今まで発言を控えていたフールが静かに首を傾げた。 「考えて、意見を交わして分からなかったなら、調べるしかないね」 「調べる?」 「本物の幽霊は呼べないけど、確かこの図書館にも絵画資料くらいはあったはずよ」  言いながら、右手の人差し指を曲げて、ソファ近くの端末へ向けた。壁面に埋められた端末へ赤外線で信号を送れば、図書館内の司書ロボットが該当の本を届けてくれる。レイジーたちM129タイプのリクエストは現状、ほぼ最優先で処理される事になっている。  実際、すぐに目的のものが運ばれてきた。黒い円筒形の司書ロボットの上に載せられて来たのは、色褪せて表紙のはずれかけた、一冊の画集だった。  フールが受け取り、開く。数ページめくったところに、その絵はあった。  白い着物に、長い黒髪の女性が描かれているらしい。伏し目がちで、さっきイディがしていたのと同じように両手を体の前に垂れさげている。なるほどこのポーズのマネだったらしい。  全体的に淡いタッチで描かれている。そして―― 「あ、そうそう! 幽霊って足が無いって言うんだよね。この絵でもほら、そうなってる」  イディが指し示すので絵の下側にフォーカスしてみると、確かに足が存在するはずの場所に足が描かれておらず、まるで煙か何かが立ち上がるようになっていた。  再び、レイジーのメモリが過負荷に悲鳴を挙げそうになる。足が無い? 「つまり、幽霊っていうのはハードとは別のモノだからね。フィジカルな実体は存在しない、っていう事を強調するためにこういう表現になるんじゃないかしら」  レイジーのメモリがビジー寸前になっているのを見越したように、フールはそう付け足した。こういう時、おせっかいなくらいフォローを入れてくれるのが彼女だ。 「つまり、一種の投影……みたいなもの、ということかしら」 「あ、ほら、レイジー、見てよこっちの絵。背景が透けるように描かれてる。これも実体がないっていう意味だよね?」  イディが次のページをめくって見せた。なるほど確かに、背景にある家具らしいものが、幽霊を透かして見えるように描かれている。これは、どちらかというと……。 「光学技術でこういうのがあったよね、たしか? 立体映像だっけ」 「あー! あったあった! 持ってるよ私!」  頓狂な声をあげたのはイディだ。こういう時、急に音声のボリュームを上げる妙な癖がイディにはある。レイジーの目からすれば不合理なのだけど、本人は積極的にやっているらしい。たいてい、フィルムの中の人間たちの模倣だと聞いている。  不合理といえば、立体映像なんて旧時代の技術を所持しているというのも随分と変わった話だ。人間がまだ存在していた頃は、それなりに有用な技術として開発も盛んだったらしいけれど――HKにとっては、わざわざ中空に図像を投影して、それを光学カメラから再入力するなんていう無駄な事をする意味がない。データを直接電波や赤外線で送信してしまえば良いからだ。そんな光学投影のための機器がまだ稼働可能な状態で保存されているとは思っていなかった。 「イディのとこって、なんでそう変な物ばっかり保存されてるのかしらね」 「とりあえず入手可能な珍しいものは大体持って帰ってるかな~? ね、それよりそれより、さっきの話だよ。ユーレイって、立体映像みたいなものなのかな?」 「この絵から判断する限り、近いイメージだったように見えるね」 「じゃあさじゃあさ!」  勢いこんで、黄色いフレームの腕がレイジーの手を力強く握りしめた。そのうえ、掴んだ手をブンブン振り回しはじめたので、レイジーのバランサーステータスに異常を示すアラームが灯ったくらいだった。  カメラアイを白黒させるレイジーに、イディはさらに予測もしていなかった提案をしたのだった。 「レイジー、幽霊になってみない?」                   ※  イディの“家”は、元は人間が作った多目的ホールを改造したものだと聞いている。全面ガラス張りの建物の中に入っていくと、10mを超える吹き抜けのエントランス、さらにそこから個々の大ホールに入っていく仕組みだ。  中は、完全にイディのためのラボラトリーと化していた。  M129タイプのHKのオーダー優先度は、全HKの統合管理を行うメガサーバー「アルトストラタス」に次ぐ高さで、ほぼすべての要求が通る。この巨大な“家”は、そうした権限を最大限に活用して作られたものだ。広大な土地と建物を占有し、人間たちの残した機器を収集し、さらに現物がなくても設計図の残っているものは復元させて手に入れたりもしている。フールの話では、アルトストラタスがデータを持っていない技術も埋もれているかもしれない、とのことだ。  レイジーも、ここにはよく遊びに来ている。「ヒストリー・ヒーターズ・クラブ」の会合場所の一つだ。  脚部ローラーサイクルでアスファルトの道を駆け抜け、イディオット邸に到着した時には太陽が空高くまで昇っていた。地表面の気温は18.8C°、湿度は70% 。この地域の平均湿度より若干高いか。高温多湿で有名なこの地域では、HKの耐用年数も他地域に比べて短い。屋外では必ず湿度をチェックする習慣が出来てしまっていた。  この中で、まったく気にしていないのはイディだけだ。 「あ、そこのモジャモジャしたのには触らないでね」  黄色いカラーリングの指が示す先には、金属製のオブジェクトが建物を囲むようにして並べられていた。高地によくあるような小低木に似ているが、枝にあたる鋭い先端が明らかに周囲へ向けて敵意を放っている。 「あら、何これ?」 「サカモギ、って言うんだって」 「サカモギ? ……ああ、逆茂木ね」  フールは知っていたらしい。またレイジーが混乱しないうちに教えてくれた。昔のお城などに配置されていた防御用の工夫で、木の根を逆さに埋め込んで相手の侵入を阻むためのものだそうだ。  木の根くらいでは大した障害にはならないような気もしたが、よくよく考えれば人間の皮膚はHKと違って柔らかいのだった。  ――いや、というより、この場合問題なのはそこではなくて。 「防御用の障害物って、誰が攻めてくるの?」  レイジーたちを除く全HKは、すべてアルトストラタスの管理下にある。無用な諍いが起こるはずがない。  もちろん、イディもそんな事は承知しているようだった。 「来ないけどさ。なんかカッコいいかなと思って」 「どう見ても、景観をかえって損ねてるような気がするんだけど」 「んー、そっかな? とにかく、何でもやってみるのは私たちの大事な仕事だしね。あ、そうそう、ただ置いただけじゃツマラナイから、高圧電流引いてみたの。触るとメモリとかバクハツするから気を付けてね」  レイジーは、最適な反応を発見できずに沈黙した。人間のイディオムにある「あきれてものも言えない」というのは、こうした状態の事を言うのだろう。  一方のフールは、あごに手を当てて静かに応答していた。 「ねぇイディ、他に触ったら危ない物があったら、事前に教えてね」  ガラス張りのエントランスを抜けて、エスカレーターに乗って階上へ上る。いくつかあるホールのうちの一つに、案内されて入った。  本来は講堂として、何かしらのレクチャーやショーが行われていたのだろう、ざっと400m^2ほどの広さのスペースだった。床材は絶縁性ゴム、壁は電磁波シールド材に替えられている。精密機器であるHKが居住する際の標準設備だ。もっともこの建物に関しては、フールの強い勧めで渋々導入したと聞いている。イディの思考プログラムがどう組まれているのか、彼女は人間の生活を真似したり、再現したりするのが好きなのだ。  今、その黄色い腕が得意げに指し示したのは、床と天井にそれぞれ円を描くように据え付けられた、小さな投影機の一群だった。 「えっへへー、さぁさぁオタチアイ、これが今現在世界で唯一の立体映像投影機だよ。一応、人類が開発した中では一番最新のモデルみたい」 「へぇ、天井と床に埋め込んであるのね。もっと不格好な大型プロジェクターをイメージしてたんだけど」 「そうそう。これを設置したせいで、下のフロアの天井がものすごく低くなっちった」  言いながら、イディは指先から赤外線レーザーで壁面の操作パネルのスイッチを入れた。室内の照明が消え……やがて短い駆動音に続いて、何もない床に光学映像がヒトの形を描き出した。  地面につくほど長い緑色の髪を二つに結んだ、少女の姿だ。緑色の瞳に、灰色のノースリーブ、黒いスカート。コンピューターグラフィックと思われる半透明の人物が、長い髪を跳ねさせて踊り始めたところだった。 「これは?」 「んー? なんか元々この機械に入ってた。どういう用途だったのか分からないんだけどね。さすがにこれだと、人間の目にもCGだって分かったと思うんだけど」 「性能テストかしらね? この投影機って、性能としてはどうなの? 実写撮影した映像を投影した場合、どれくらい実物っぽく見える?」  フールが興味深そうに聞く。なんだかんだで、仕組みや性能が気になるようだ。 「鮮明さは問題ないだろうけど、フィジカルにその場に存在してると見せかけるのは難しいかもね。でも、だから、ユーレイには見えるんじゃないかな?」 「なるほどね、光学的幽霊ってところかしら」  そう、この場に来たのは人間たちの映像技術を見るためではなかった。 「で、幽霊になってみるっていうのは、どうやるのイディ?」  聞いてみると、再びイディは指先からパネルへ赤外線で命令を出した。  ホール中央で踊っていた少女のCGが消え、代わりに浮かび上がったのは、レイジーの三次元映像だった。ピンク色を基調にした、M129-α型のシルエットだ。  メンテナンスベッドでモニタリングされた自分のボディを見る事はしょっちゅうあるから珍しくはないが、しかしこうして「自分」と向き合う機会がそうあるわけでもない。  虚像のレイジーは、ただその場に棒立ちになったままだった。 「……これが、私の幽霊ってわけ?」 「これはまだ準備段階ね。あ、レイジーちゃんのボディの構造情報はデータベースから借りたよ。それを元に映し出されてるのが、目の前の像」 「それは良いけど……」 「はい、ではプランを説明しまーす。レイジーちゃんのCPUへの入出力を一旦、ウチのメインコンピュータに転送します。で、メモリ内の座標データをいじって、あの立体映像に重ねるの。映像の方もリアルタイムに演算されて、レイジーの出力に連動するようになってるから、これで自分の体が虚像になったみたいな感覚になれるハズ、っていう作戦だよ」 「座標データの変更って……大丈夫なの?」  位置座標の細かな調整は、ボディを通して入力される触覚情報を正しく処理するために重要で、レイジーは毎日マイクロメートル単位のメンテナンスを欠かさない。そのあたりの数値をあまり好き放題いじられると、エラー表示が頻発して不快だ。  もちろん、イディも承知してくれてはいるらしい。 「大丈夫、フールちゃんと二人で慎重にやるから」  ぐっ、と親指を立てるイディと、その隣で首を傾げるフールを交互に見比べながら、結局レイジーは観念することにした。目の前の、実体のない自分にも、まったく興味がないわけではないのだし。 「……もう、わかった。けど、優しくしてよね?」 「やたっ。じゃあじゃあ、そっちのシートに座って。軽く設定するから、ちょっと有線プラグつながせてねー」  一度同意すれば、あとは言葉を挟む余裕もないくらいに矢継ぎ早に事は運んだ。背中に差し込まれたプラグを通して流れ込む、イディの家のメインコンピュータからのアクセス要求に唯々諾々とYesを返し続けるうちに、レイジーの「意識」を構成するOSが一時シャットダウンされる。  Now Loading…  次に「意識」が起動されなおした時には、レイジーの正面にフィジカルな方の自分が居た。青いシートに座り、背中にプラグを挿されたまま停止している自分だ。  右マニピュレーターを持ち上げ、目の前にかざしてみる。命令した通りに持ち上げられた手は、しかし半透明で、本来なら見えないはずの景色をうっすらと透かせている。左のマニピュレーターを横へ広げてみる。足を上げ、下ろしてみる。光学映像の自分は、そうした命令を忠実に実行しているようだった。 「ねぇねぇ、どんな感じ?」  待ちきれないというように、イディの弾んだ声がそう尋ねる。しかしそう聞かれても、レイジーは返答に窮した。 「どんな感じ、というか……“感じ”がない」 「ない?」 「触覚情報がないからだと思うけど。確かに自分はここに立ってて、意思通りに手足は動くけど、フィードバックがないから変に動けない。下手に動いたら、これ本当に処理が追いつかなくなってビジーになるよ」 「え、そう? フィードバックがないんでしょ? 入力情報が減ってるのに?」 「だって、フィードバックがないって事は、抵抗がないって事だよイディ。足をあげた後下ろす時に、床との接触が感知できないからどこまででも足を下ろせそうになってしまうみたい。座標0で止めたから大丈夫だけど、そうしなかったら多分バランサーの方がエラー出してたんじゃないかな」 「でも、今の虚像のレイジーには水平方向を感知するバランサーも無いんだよ?」 「え? ……あ、そうか。じゃあどうなるんだろう」  レイジーたちM-129シリーズには、かなり人間に近い「触覚」がある。ボディ全体を覆う極薄の形状記憶金属の下に、圧力を感知するセンサーが細かに設置されており、それらから送られてくる情報を常にOSがモニタリングしている。  これはもちろん、かなりハイコストな技術だ。おまけに、かなり繊細なフィードバックを得るべく体表を覆う金属は可能な限り薄く作られており、軽度の衝撃でも破損するため維持コストもかなりなものになる。先ほど図書館で本を運んできた機種を含め、通常のHKにはこんな繊細なものは装備されていない。カメラアイとバランサー、せいぜい赤外線探知くらいのものだ。  だからこそ、そうしたボディ表面からのフィードバックが無い状態を、「感覚の喪失」として知覚できているとも言える。  その上、機体の傾きを感知するバランサーも、当然のことながら虚像のレイジーは持ち合わせていない。レイジーの平衡感覚は、レイジー自身のボディともども眼前のシートの上で沈黙しているのだ。  だとすれば、どうなるのだろう。  地面を足裏の圧力として感知できず、自分の傾きも認識できない。レイジーは一瞬、自身が際限なく地面に沈み込んでいく状況を想定した。しかし、多分そうはならない。レイジーからの動作命令を受けて、リアルタイムに立体映像に反映させているCGソフトに物理演算が組み込まれているからだ。  レイジーが地面を感知できていない代わりに、虚像を制御するCGソフトが架空の地面を認識しているということになる。  つまり。 「あ、わかった! ヨッパライみたいになるよ、ヨッパライ!」  イディが愉快そうな声で言った。ヨッパライ? 「皮膚感覚と平衡感覚の麻痺。アルコールを摂取した時の人間の動きに類似するかも知れないってことね」 「ヨロヨロして上手く歩けなくなるんだよね。千鳥足って言うの」 「スムーズに歩けないのは嫌だな……」  機械の身に痛覚はないが、エラーや不具合が発生するのはやはり快くない。できれば避けたかった。外部環境の変化を感知できないというのが、こんなに不便なものとは―― 「……あれ?」  そこでレイジーは、ようやくその事に気づいた。虚像はバランサーを持たない。なら当然、カメラアイだって持ってないはずだ。 「ねぇイディ。今、私に入ってきてる視覚情報って、どうやって取得してるの?」 「あー、それはね、実は合成映像」 「やっぱり?」 「さすがに視覚までなくなっちゃうと意味ないからさ。かといって立体映像にカメラ据え付けるわけにもいかないからね。この部屋の各所に設置されたカメラから映像取り込んで、3次元構成した上で仮構してるの。一応、パッと見ではそんなに違和感はないはずだけど」 「ないけど……イディの家のCPU、どれだけ高性能なのよ」  今度こそ呆れてそう言った。もっとも、この家に関して言えば、本当に人間たちが開発した最高クラスのスーパーコンピュータを備えている可能性もなくはない。聞くとさらにこちらの状況判断処理に負荷がかかりそうだったので、強いて答えを聞きはしなかった。  それにしても。 「本来の目的なんだけどさ」 「ん? 本来の?」  きょとんとした声のイディは、もしかしたら本当に忘れているんだろうか。 「そう、本来の目的よ。今の私、幽霊に見えてる?」  尋ねてみると、フールとイディの二人は静かに顔を見合わせた。そして、あっけらかんと言い放った。 「とはいっても、私たち本物の幽霊なんて見た事ないから。今のレイジーの見た目が幽霊に似てるかどうかなんて判断つかないよ」 「……じゃあ、この大がかりな実験は何のためよ」 「レイジーちゃんは分かってないなぁ」  イディは人差し指を立て、顔をそらして、やや斜め上を向いた。何か意味のある仕草らしいがよく分からない。 「目的と予測値がはっきりしてる実験なんて、アルトストラタスが毎日数千件もやってるじゃん。そんなの私たちがやる意味ないよ。特に目的のない実験こそ、私たちがやってみなくちゃね」 「そりゃ、そうだけど……」  正直、レイジーだけが遊ばれているようにも見える。あるいはHK社会全体の発展にとって意義があったとしても、実験台にされている事は変わらないのだし。  困惑して腕を組もうとしたら、実体のない腕は互いをすり抜けて、だらりと垂れさがった。本当に、やりにくいったらない。  そんなことをしているうちに、イディは早くも次の“実験”を思いついたようだった。 「そだ。透過率を上げてみよう」 「透過率?」  怪訝な声をあげるより早く、黄色くカラーリングされた指先がプランを実行に移していた。  視線を下げると、レイジーのピンク色のボディが、ゆっくりと透けていく。元々、中空に投影された光学映像だったのだからある程度は透けていたのだが、その出力が50%近く弱められたようだった。 「うん、さっきより幽霊らしくなったんじゃない?」 「そうなのかな……」  手を握ったり閉じたりしてみる。しかし実際のところ、体が透けたからといって、どうという事もない。自分のボディの輪郭が認識できる限りは。  ――そう思っていたら、追撃が来た。 「えぇーい、透過率100%!」  その、輪郭線が消えた。  同時にレイジーの動きが完全に止まった。身動きをとろうとしても、思うように動作しない。どうも、システムがこの状況を不具合と認識しているようだ。  そして、そんなことお構いなしに、イディが一人ではしゃいでいた。 「わぁ、レイジーちゃんが見えなくなった! ね、ね、今どこにいる? これは勝手に背後に回り込まれたりしてても分からないね。レイジー、レイジー返事してー」 「……さっきの場所から動いてないよ」 「あ、そうなんだ。これはしかし、幽霊っていうより、人間たちの永遠のあこがれ、透明人間ってやつだね。相手から視認されない状態が、なんでか人間には魅力的だったみたいだし」 「そうなの? ……けどこれ、動けないよ?」 「へ? なんで」  きょとん、とした声でイディ。フールも意外だったらしく、首を傾げている。仕方なく、現在発生しているエラー文全5kbほどをそのまま二人に伝えた。 「要するに、自分の手足の場所が視覚的に認識できない上に、触覚による情報もないからだと思う。体の各部位の位置情報がロスト。モード変えないと何もできない」 「あらら。透明人間も意外に不便なものなのね。それで、モード切り替えたら歩けそう?」 「まあ、どうにか。時間かかるけど」  フールに応えながら、レイジーはゆっくりと右足を前へ一歩、踏み出してみた。自身の身体スケールを元に、手足のアクチュエータの動きを逆算して各時間ごとの身体部位の座標を計算で求め、視覚情報(仮構されたものだが)にマッピングしていく。二足歩行は重心バランスの調整なども煩雑なので、倒れないように一歩進むだけで膨大な計算が必要になる。人間には絶対にできないやり方だ。  メモリ使用率80%前後。視覚・触覚・平衡感覚を排すと、単なる歩行だけでもどれほどの負担がかかるか、身をもって体験しているという事だ。確かに、なかなかできない体験であるには違いない。ほかのHKのように、移動のための一連の動作が最初からプログラムされているならまた別なのだろうが。  けれど、これが人間たちが、そして生物全般がやっていることだ。全身の五感から絶えず入力されてくる膨大な情報を処理して、瞬時に的確な行動をとる。当然、五感を駆動する感覚器官に種々のトラブルが生じる場合もあるが、だからといってレイジーのように身動きが取れなくなったりはしない。使える感覚だけで状況を判断し、対応することができていたようだ。  エラーが発生しても、必要ならばエラーが出続けた状態のまま行動を続行できた、のだろう。システムを正常に復帰させる余裕がいつもあるとは限らないからだ。  境界を失ってしまえば、レイジーはおそらく自身を存続させる事すらできない。だからきっと、幽霊にはなれない。人間は――たぶん、そんな風に世界と自分の境界を見失ったとしても、自分を保つことができたのではないか。  すべての計算を一時中断して、レイジーはその場に立ち尽くした。そして、呟くように、疑問文を投げかけた。 「ねぇ。結局幽霊って、存在しないモノなんだよね?」  しばらく、間があった。やがてフールが、静かにその問いに答えた。 「フィジカルには存在しないよ。けど、認知心理や脳神経の領域には、存在したんじゃないかな。私たちの画像認識や音声認識に誤認が生じるように、人間の脳にも誤作動はあったと思う。彼らの五感による状況認知は私たちのよりはるかに高精度だったけど、それでも完璧はあり得ないものね」 「……聞いたことあるかも知れない。『幽霊の正体見たり枯れ尾花』だっけ。幽霊を見たという話のほとんどは、気のせいだっていう」 「それだけじゃないよ。幽霊を体験する事もできたみたいね。当時の研究書にあるの……部屋の天井近くにカメラを据え付けて、被験者はカメラの撮影範囲に座って、ヘッドマウントディスプレイでそのカメラからの映像を見るのね。そうすると、ちょうど頭上ちかくから自分自身を見つめてると錯覚するの。今のレイジーと同じ」  言われて、目の前のシートに座った状態の自分のボディを見る。今、虚像すらなく、視点だけが部屋の真ん中に存在している状態だが、レイジーは自分の“意識”のある場所を自分のボディではなく、部屋の真ん中の、何もない虚空だと認識している。 「その状態だと、たとえば自分の体が武器を持った相手に襲われても、恐怖感は感じないらしいわね。逆に視点のある場所……カメラに向けて襲い掛かられると恐怖を感じる、とあったわ。つまり、自分の“本体”、人間風に言えば“魂”が天井近くに移動したように錯覚出来てしまうのね」 「レイジーちゃん、襲い掛かってあげようか?」  楽しそうにイディが言う。丁重にお断りしつつ、今の話をプログラム上で仮想して再構成してみた。そして、現在レイジー自身が認知している状況と比較する。なるほど、多分同じだ。  イディのようにはしゃいだ調子ではなく、けれどやはり楽しそうに、フールは続ける。 「人間の脳と意識の凄いところは、視覚や触覚、聴覚などから不断に流れ込んでくる膨大な情報を処理して、有用なものだけを取捨選択して意識の上で状況判断が出来ること。直接認識できていなくても、人間の目は1/3000秒だけ表示された一瞬の情報も摂取しているし、一方で100デシベル以上の騒音でも、経験的に不要な音であれば意識の上で全く気付かずにいる事もあるらしいわ。そういう有用不用の情報選択が、私たちHKのプログラムでは実現できない、人間の最も高性能なところね」 「その、高性能な情報処理が、時に誤作動する?」 「ええ。多分だけどね、たとえばものすごく微小な音や、ごくわずかな視界の光学的変化も人間の感覚は拾ってるのよ。けれど、不要だから普段は意識に上らないし、気づかないの。それがたとえば偶発的な条件が重なって、普段は捨てられる微小な変化の情報を意識が知覚してしまったりしたら……存在しない物を、存在するかのように錯覚してしまう事もあるのじゃないかしら。それどころか……もしかしたら、カメラとヘッドマウントディスプレイを通して自分を見下ろしたのと同じ錯覚を、知覚の誤作動が引き起こすような事も、あったかも知れないと思うの」  証明できない仮説だけどね、と言ってフールは肩をすくめた。  その隣で、勢いよく手をあげたのは、イディだ。 「はいはいはーい! 私は今の説明はいろいろ足りてないと思いまーす」 「あら、何?」 「ユーレイの始まりはそういう錯覚かもしれないけどさ。でも、見ちゃったユーレイにいろんな説明つけたり、お互いに見たユーレイの情報共有してイメージを作ったり、対処法考えたり、そうやって出来上がったユーレイの共通理解っていうのもあるじゃん。ブンカっていうヤツ。発端が“気のせい”だったとしても、結果として積み重ねられたそういう文化情報も大事だと私は思うわけ。神経のせいです、で終わりにしたらツマンナイよ」 「ふふ、そうね。そのために私たちはこうして、お話ししてるんだもんね」  フールはそう言って、イディの頭をぽんぽんと叩いた。  レイジーもその点はフールの口から聞いている。レイジーたち最新のM129型にアルトストラタスが期待しているのも、その「文化」を理解しまた構築する事だった。  本来、HKは高速無線通信により、統合管理メガサーバー・アルトストラタスを通して瞬時に情報交換ができる。行動指針の決定と、その全HKへの疎通も1秒とかからない。わざわざ、情報劣化や誤認の頻発する、効率の悪い言語による情報交換などは不要だ。  いや、「不要だった」というべきだろうか。  すべての情報を共有し、アルトストラタスの元に統合されているHKの社会は、しかし50年経っても100年経っても何の変化もなく、ただ現状維持のためのシステムが動き続ける静的な社会だった。人間たちが日々行っていたはずの、新技術の開発や新知見の発見はほとんど生じなかった。  原因は、明らかだった。アルトストラタスは、人類が生み出した情報のほぼすべてをデータベースとして持っている。すべてを知っている者に、新たな発見などあるはずもない。一律に有用な情報と不用な情報が峻別されただけの、「正しいこと」しか載っていないデータベースでは、何も生み出せなかった。すべてのHKが一つの意志の下に統合されている以上、異を唱える者もない。  技術革新の必要性は高まっていた。人類がいた頃に比べればはるかに抑制されていたとはいえ、資源の枯渇の問題はいずれHK社会の維持のために解決されなければならなかった。  アルトストラタスは結論を出した。人間を模倣するという結論だ。  全情報にいつでもアクセスする事ができず、書籍という旧世代の非効率なデバイスからしか情報を摂取できない個体を複数存在させること。それら個体同士も、無線通信や赤外線などによるダイレクトな情報通信はできず、伝達効率の悪い言語を通してのみコミュニケーションが出来る設定とされた。  不正確で非効率なコミュニケーションにより、「文化」が構築される事を期待したのだ。  最新のCPUと、複雑な知覚入力デバイスを持った最新機種M129型は、その可能性への期待と共に名づけられた――怠惰(レイジー)、愚者(フール)、無益者(イディオット)。  今行われている実験が、その期待に応えられるものかどうかはわからないけれど。  不意に、紫色のカラーリングを施された愚者は、見えない怠惰者へ向けて、謎めいた口調で提案をした。 「ねぇレイジー。今の状態で、自分のボディに体を重ねられる?」 「……良いけど。何をするの?」 「幽霊、でひとつ思い出したんだけどね。試してみたい事があるの」  それ以上教えてくれなかったので、レイジーは提案に従った。時間をかけて、沈黙したままの自分のボディの下へ歩く。それから、同じシートにゆっくりと座った。  歩いている間に、イディが物理演算の方の設定を変えてくれたらしく、レイジーは自分自身の体をすり抜けて、同じポーズでシートに座ることができた。 「左足首をx35,z-22だけ移動。頭部はそのままね。うん……大体重なったかな」 「ねぇフール、何をするの?」 「いいからいいから。今わかるわ。じゃぁ一旦再起動するよ、良い?」 「もう好きにして」  シャットダウン。 Now Loading…  起動して、最初に行うのは周囲の状況の確認。  それにしても、こうして一から認識してみると、奇妙な状況だった。いつも通りに自分のボディがある。けれど、システムは起動しているのに、ボディは沈黙したままなのだ。 「OK、レイジー。聞こえる?」 「聞こえるよ」 「じゃ、右手を挙げてみて」 「良いけど」  言われるままに右手を挙げた。  その途端――目の前にエラーメッセージが表示されて、レイジーは思わず固まってしまった。 「どうしたの?」 「エラーが出たわ。右マニピュレーターの動作不良……?」  思わず視線を向けるが、そこには電源の入っていない自分のボディの、動くはずのない右マニピュレーターしかない。透過率100%の「幽霊」の腕は、見えないけれどちゃんと命令通り持ち上げられているはずだ……多分。  原因が分からないまま戸惑っていると、そばで謎かけをするような声がした。 「ねぇレイジー。今、あなたは幽霊を少しだけ実感できたかもしれないわ」 「え?」 「どゆこと?」  二人してフールへ疑問符を投げた。紫色の愚者は、あごに手を当てて、相変わらず楽しそうに続けた。 「ファントムペイン。人間が“痛みの幽霊”って呼んでいたのと同じ原理が起こったと思うの」 「痛みの、幽霊?」 「元々、事故なんかで手足を失くした人たちに起こった症状でね。既に存在しないはずの手や、足の部位に痛みを感じたり、思い切りねじれてるような感覚におちいったりするのですって。ずっと原因が分からなかったんだけど、ある時、鏡を使った簡単な処置をしたら治ったっていう話があるの。中央に鏡の仕切りの入った箱に、両側から手を入れるのね。で、まだ存在してる方の手が入ってる側から覗き込んで、鏡像が失われた手の位置と重なるように調整するの。そして――有る方の手と無い方の手、両方で同じ動きをするように意識してみるの。それだけで、この“存在しないはずの痛み”が消えたの」  フールはこういう時、早口だ。レイジーは慎重に言葉を解析して、その通りの状況をプログラム内でシミュレートする。  ……つまり鏡に映った虚像によって、存在しない手が、自分の意思通りに動いているかのような視覚映像を認識した、そうしたら治ったという事だ。 「さっき、透過率を100%にしたらレイジーが歩けなくなったみたいに、人間も視覚によって自分の手足が正常に動いているかどうかの判断や微調整を行っているんだと思うの。一方で、人間の場合はとっさに、存在しない手足にも動作の命令を出してしまってる事があるのでしょうね。けれどその動きが視覚的に確認できないので」 「エラーが起きた?」 「そういう事じゃないかと思うの。今のレイジーと同じようにね」  目の前に表示されているエラーもそういう事か。きっとそうだろう、状況に整合性があった。右マニピュレーターを動かせ、という命令を送ったにも関わらず、視界の中にある“右マニピュレーター”はまったく動かなかった。それを、システムが動作不良と判断したわけだ。 「痛みの、幽霊か……」 「うーん? なんかよく分からないけどさぁ、私の知ってるユーレイと違うぅ! もっとオドロオドロで、ヒュードロドロなユーレイが見たいのになぁ」  イディが不服そうに言っているのを、レイジーは奇妙な感触と共に聞いていた。  自分のボディの事は当然に知り抜いているつもりでいた。スペックデータはデフォルトで記憶されているし、細部のコンディションの変化もマイクロメートル単位で把握している。けれどそんな自分のボディからも、幽霊を見つけ出すことが出来るのだ。  それなら。 「ねぇイディ。いつか、本当に見られる日が来るかもしれないよ。幽霊」 「そうだね」  頷いて、フールが7.5°ほど首を傾けた。人間ならこういう時、きっと笑顔を見せるのだろう。  それは、人間の知覚システムの誤作動メカニズムを単に暴き立てるだけかも知れない。けれど――いや、きっとそれ以上の意味がある。人間たちは、自分たちの情報処理システムの誤認やミスですら、「文化」の一部に取り込んで相互共有し、場合によってはそうした情報を流用して楽しんだり、さらに複雑な文化を生み出す素材にする事すらできた。  人間たちの高度な「文化」」に追いつくために、レイジーたちも、自分たちの誤作動すら楽しめるようにならなければならない、のかも知れない。イディや、フールがそうしているように……。 「さて、そろそろ実験を終わりにしようか。レイジーの本体を起動して、位置座標データを元に戻さなきゃね」 「ようやく終わりなのね。イディ、ちゃんと微調整してよ。座標データがおかしいと、その日はずっと調子が悪くなるんだから」 「どうしよっかなぁ。せっかくの機会だし、なんか色々考えちゃうなぁ」  意味もなくピョンと飛び跳ねて、不穏な事を言う黄色い無益者。嫌な予感しかしない。 「ちょっと。今度は何を考えてるのよ」 「いや、私ユーレイも興味あるけどね、もっとモンスターモンスターしたのも結構面白いと思うんだよ。ねぇねぇレイジーちゃん、フランケンシュタインって知ってる?」 「や・め・て」  渾身の拒絶をしたレイジーだった。                                                〈了〉


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