白豺なるあたしは憤っていた。今日、七月十六日は世界ヘビの日である。正直に言えば、今日は仕事なんぞしたくなかった。有給だろうとも休暇を取って丸一日自分の番である蛇族の己已巴巳を甘やかしたかった。だが、あたしもこれで一応ちゃんとした社会人である。ブラックな世界に足を突っ込んでいるが、仕事と立場に対する責任もある。だからこそ蛇の日に出社したし、仕事も片づけた。というのに、休み時間にせめてもの心の安らぎをと蛇の動画を見ていた際の同業者の言葉がこれである。
(何見てるんですかそれ、うわっ!? 蛇!?)
(蛇ィ? 白豺さんって変わったもの好きですよねぇ、流石女社長って感じ)
(俺、蛇って苦手なんですよね。丸のみとか残酷だし、見た目が気持ち悪いじゃないですか。いかにも陰湿で冷血って感じ)
番の種族にこんなことを言われりゃあ腹が立つ。一人目はまぁ許す、蛇が苦手な人間もいるだろう。二人目もまぁこっちを小馬鹿にはしてるが、そんなこたぁどうでも良い。だが、三人目は苦手にしたってこっちが大事に好んで見てる生き物をディスるこたぁねぇだろう。ムカついたので「豚の死骸から引っぺがした筋肉切り刻んで焼いた奴は残酷じゃあねぇのかい」と言っておいた。豚の生姜焼きを前に青ざめてざまぁみろだった。
「というわけで、あたしは激怒した。必ず、かの蛇に対する不当な罵詈雑言を除かなければならぬと決意した。あたしには人の好みなど分からぬ。けれども蛇に対しては、人一倍に愛情を向けてきた」
「お疲れのご様子ですね……待っていてください、今、飲み物とおやつをお持ちしますから」
番は帰ってきたあたしを抱き締めた後、優しい声で労わってくれたが、純文学風に発した怒りはなんでもないようにスルーされた。リビングではなく二人の寝室で待っていると、己已巴巳は迷うことなく寝室に入ってきた。暑い時期になると重宝する、牛乳に果物シロップを溶かしたものと、前日にあたしが駄々をこねたから作ってくれたのだろう、ドライフルーツ入りのクッキーを持参して。あたし好みの硬めのクッキーをザクザク齧りつつ己已巴巳の肩に寄り掛かっていれば、あたしの頬についたクッキーの欠片を優しく拭う己已巴巳が朗らかに言った。
「Bさんは恋人未満のお付き合いをされている方が、数人いらっしゃいますねぇ」
「待ってくれ何その情報」
「いえ、SNSでBさんっぽいアカウントがあるなぁ、と。確認しましたら、随分と交友関係が広いようです」
Bは今日の昼休みに「流石女社長」と言った奴だ。己已巴巳はBと直接会ったことはないはずだが、まさかあたしが愚痴った内容から特定したのだろうか。そんな馬鹿な、と言えるほど、あたしは己已巴巳の行動力を知らないわけじゃない。頬へとソフトタッチをする指先とは裏腹に、やや吊り目の蛍火色の大きな両目は、怒りを物語っている。
「お前ね、あたしが小馬鹿にされたくらいで、個人情報を分析するもんじゃないよ。思い余った時に何するか分からないんだから」
「私の思いは余らず白豺様のものです。愚者の個人情報を使うのは、端的な処分作業ですね」
「お前言うとマジで洒落にならないからやめなさい。……そんなことに時間を取らないで、あたしから甘やかされる為に全力になっておくれよ。……こういう風に顔を覗き込んで『愚かな人間共に苛められる哀れな子蛇を、番である貴方の愛で満たしてくださいませ』ってキスをねだってみるとかさ」
頬に触れていた指先が、あたしの言葉にびくりと跳ねたので、そういうところが可愛くて手首を掴む。あたしの女としては少しだけ大きい手ですっかりと包めてしまう細い手首を筆頭に、抵抗なんて考えやしないから容易くベッドに押し倒せてしまう番の体。背ばかりはあたしより15cmほど高いってのに、無駄なものがない姿は子供の頃に溺愛していた陶器製の人形のようだ。男でも女でもないような美しい体つきに、興奮してしまう。
「……白豺様が先に始めたのですよ。蛇が小馬鹿にされたくらいで、他人に強い感情を向けるのですから」
蛇とは嫉妬深い生き物なのです。甘えるような声を出して、こちらを見つめたまま舌を出す。先が割れている薄くて長い舌は、蛇の血を引いて化学物質さえ感知できるという。だからこそ己已巴巳は自分からあまりキスを求めない。あたしとキスをすると香りが強すぎて、抑えが利かなくなってしまうということだった。つまり。
「……お前からキスをねだるってこたぁ、どれだけ手酷く抱き潰されても、文句は言わないということだねぇ」
意地悪く問う番の言葉に健気な蛇は頷く。思う存分甘やかしてください、なんて、傲慢に見せかけた可愛らしい気遣いが、あたしの苛立ちを霧散させる。
「今の私は、嫉妬に狂った大蛇なので。この身を鎮めるには、八つの樽に入った酒よりも深く、酔うほどの愛を頂かねばなりません」
「おやおや、そいつは大変だ。八つ子をねんねさせるくらいなんてことないが、お前の甘ったるい啼き声を前に、あたしがいつまで理性的でいられるかわからねぇからな。お前が溺れて気ィをやっちまうまで、どぶどぶと脳が焼けるくらいに熱い愛情ってのを注いじまうかもしれねぇや」
軽口を叩き合って口づけを重ねる。折角の炭酸ジュースも終わった頃には気が抜けてしまうだろうが、終わった後にそれを飲み干して「甘い」なんて笑い合うのも悪くはない。そんな思考もすぐさま取っ払われてしまう程度には容易く、お互いに溺れていく夜だった。