「じゃあ、鍛錬を始めるか。先制攻撃はお前な」
「はぁい。じゃあ、行くよ!」
のんびりとした口調とは裏腹に、青年は地面を素足で踏みしめて呪詛を吐く。その音は人の言葉と異なり、人の耳には聞こえぬだろう。何故ならば、呪詛とは愛の告白に近い。そう、一番よく届く呪詛というのは、呪うべき相手の母語である。原始的な舞に似た足取りは、彼自身が作り出した返閇だ。本来自己流の呪術など、術者にどのような障りがあるかも分からない。だが、彼は今や呪いそのものであり、だとすればその障りこそが、彼を育てる糧となる。
性質に「共鳴と育成」を持つ彼は、踏み躙られて増える雑草を想像したのだろう。彼の舞の下、おどろおどろしい植物が咲く。ギンリョウソウに似たそれはぎらぎらと目玉を揺らして、互いの視線がかち合う度にぱちぱちと軽い音を立てる。そうして、その視線の全てが老蛇に向いた瞬間、銀白色に発光する。
「目くらましか。しかしなぁ、お前の動線は甘い」
助走をつけて弧を描くように飛び掛かる青年に、蛇は手にした鉄扇の要を抜く。ばらけて複数枚の鉄の板と変わった扇を、蛇は義指に挟んで投擲する。勿論、青年もその攻撃は何度も食らっているので、返閇の舞に使った布へ呪を含めて硬化する。濡らしたタオルが電動鋸のチェーンに絡んで動きを鈍らせるように、呪を含んだ布はばらけた鉄扇を包み込む。しかし、青年は慢心しない。蛇の持つ鉄扇は檜扇型、つまりは八橋で一重と数えるものだ。今、蛇は七橋……七枚分の投擲をしていた。あと一枚は何処に、考えている間にも、青年は次の攻撃を繰り出す。
「これねぇ、百目亀さんには凄い効いた!」
バババババババッ。大きな羽音に、虫を苦手とするものはそれだけで戦意を喪失するだろう。しかし、此処にいる青年はやや「人間の機微」が弱い。常日頃から虫も殺さないような穏やかな青年は、言ってしまえば殺すほどの脅威を虫に感じていない。だからこそ、ギンリョウソウの液果を食料とする昆虫の群れを、容易く想像し創造出来る。
「お前の攻撃はえぐいね。けれど、お前のところにモリチャバネゴキブリって生息してるのか?」
「実はいないらしいんだよね。僕の故郷だと、カマドウマやダンゴムシが代わりのお仕事をするみたいだよ」
ゴキブリって桃源浄土で初めて見た。素直に答える青年に、老蛇はくすくすと笑う。成程道理で、虫の造詣が甘いわけだ。形は整っているが、動きはカブトムシのメスに近くて、本物より簡単に殺せてしまう。
「因みに言えば、モリチャバネは室内ではそうそう増殖しない、森林に暮らす生き物だからな」
「そうなんだ! ……あっ!」
室内で増殖しない。その知識が入ってしまった瞬間、青年の呪いは勢いを弱める。呪いとは意識が重要な攻撃である。だからこそ「森林で暮らす、案外繊細な生物」なんて考えを持ってしまえば、戦場でそれは役立たずになる。
「ひゃはは、本当にお前は素直だなぁ。道路で死んだ動物を可哀想と思うなよ、すぐに後ろをついてこられるぞ?」
「やめてよう。それ、生きてる時もお祖父ちゃんとお祖母ちゃんに何回も言われちゃった」
可哀想と思う人間に死んだ動物はついてくる。昔から聞いていた言葉に懐かしくなりながらも、青年はギンリョウソウの果実を食べる昆虫達を回収する。自分が作った仮初の形とは言え、命が無駄に蹂躙されることを好まないらしい。自分の胸元をそっと開けて、小さな命をしまい込むと、青年は次の手に打って出た。
「巴蛇様は、シマヘビだよね。シマヘビは水田の近くによくいて、基本的には平地を好んでいる」
そう、シマヘビはアオダイショウに比べると、壁や木を伝うことが上手くはない。それを意識させながら繰り出す攻撃と言えば、蛇は足元の罅を見て、とっさに後ろに退いた。しかし、地面の凹凸は後ろに退いた程度では避けきれず、子供が転ぶように派手に横転してしまった。体勢を整える前に、大柄な青年は蛇の細い腰に体重をかけるようにマウントを取る。彼の大きな掌は、容易く蛇の細く長い首を包んでしまえる。
「巴蛇様、降参する?」
鍛錬での決め事は、案外負けず嫌いの似た者同士である自分達を律する為だ。逆転を考えられない場合は、無益な嬲り合いをせず降参する。その意味合いで声をかける青年に、老蛇はアイキャップを剥がして表情を作りやすくした目を伏せ、それからそのまま、にたりと笑った。
「お前な、鉄扇のことを忘れてるだろう」
くぱりと開かれた口の中、呪を紡ぐ舌が鉄扇の一橋に絡んでいた。真っすぐに向けられた凶器に貫かれぬようにと体勢を低くしようとした、青年のこめかみに強力な打撃が叩き込まれる。青年はぐらりと揺れる視界に、腕力においては自分が圧勝であるはずのこの戦いで、老蛇が叩き出した攻撃の正体を探す。
「爺の持久力も、蛇特有の者なんだ。蛇の体ってのは、案外筋肉質だからな」
太腿の半分辺りから、確かに彼は蛇の形をしている。上体のたおやかさに騙されるとは、自分はまだまだ人間らしい固定観念に負けているなぁ、と。ぐわんぐわんと痛む頭を押さえながら、青年は笑って「降参」と言った。二〇〇〇年以上を生きる聡明な蛇を打ち負かすには、自分はまだまだ技が足りない。けれども単純な暴力が技術に負ける瞬間は、案外気持ちが良いものだ。くすくすと笑う梔子に、巴蛇は喉に隠していた鉄扇を吐きつつ「大丈夫か?」と問う。
「脳にダメージが行かない程度に、とは加減したが。こればかりは打ち所の問題でもあるからな」
「大丈夫だよ。中の呪いさん達も確認してくれて、特に大きな怪我はないって言ってる」
「それなら、良いが」
安堵したような表情をして、巴蛇は梔子に手を差し出す。揺れる視界で地面に転がっていた梔子が、巴蛇の義手を掴んでそっと上体を起こす。そういえばどうして、と、彼は問う。
「巴蛇様は僕に呪術の稽古をつけてくれるの? 男娼が喧嘩の仕方覚えても、利益に繋がらなくない?」
「そうでもないぞ。用心棒できる商品なら、出張も出来るだろう? 出来ることはいくらでも多い方が良いんだ」
お前は稽古をつけなくても戦うだろうしな。見透かされた心に、梔子は照れ隠しをするように笑う。どうしても許せないもの、救うべきものがあれば、戦わずにはいられない自分を見透かされた青年に、老蛇は苦笑しつつ伝える。
「別段、お前が誰を嬲ろうが殺そうが連れてこようが、四凶の不利益にさえならなければどうでも良い。人を殺すななんて私には言えた義理じゃないし、お前が連れて来る奴だって大概、店の役に立つ人材だからな。お前は仕事に対して真面目だし、言うべき文句はない」
だが、と、巴蛇は言う。お前には出来るだけ長生きして欲しいので、自由時間に稽古をつけてやっているのだと。
「だって、お前は私が死んだら。私の恩義を返す為に、そのまま此処で働いてくれるだろう?」
「ええ? 僕の恩返しって、巴蛇様が死んじゃっても続くの?」
「ああ。お前の良心に訴えかけて、私が死んでからも恩義を感じて働くように、今から恩着せがましく恩を売ってやるさ」
へらりと笑う恩人に、拾われた子供は少しだけ哀しくなりながら、それでもいずれは来るべき別れを考えて、似たようにへらりと笑うのだ。
「仕方ないなぁ、巴蛇様は恩人だから。僕の方が長生きしたら、巴蛇様の代わりに此処で働くよ」
貴方の大事な諸々を受け継げるように、有能な呪具となってあげましょう。そんな日が来なければ良いと願う心を隠して、呪具は「お腹空いたねぇ」と言うものだから。呪術師は彼の心なんて知らぬままに、孫をあやす爺みたいに「おやつにしようか」なんて呑気に言ってのけるのだ。