どうしてこんなことになったのだろうか。工務店での仕事を終えて、スターと共に帰り道のコンビニに寄って、ちょっと煙草を買う為に時間を使っただけだ。いつも通りセブンスターを2箱買って、先に店を出て言ったスターを追おうと入り口を見た瞬間に視界が揺れた。眩暈かと手で目を覆って頭を振ると、白い廊下に一人きりで立たされていた。
「なんだよ、これ」
どう考えても異常事態と呼べるそれに慣れてきた自分が恐ろしい。なんてったって此処は無法都市シナプス、いつ誰が死んでも生き返ってもゾンビになったって可笑しくはない場所ではある。
「……だとしても此処で死ぬ気はねぇけどな」
今日は一週間ぶりに犬と夕飯が食える予定の日だったのだから。苛立ちに壁を蹴りつけ、思いの外硬いそれに痛む足の甲を感じながら前に進む。今日、犬はなんの飯を作る予定だったのだろう。朝飯には味噌汁と卵焼きと焼き鮭と、昨日の夜に作ったんだろうきんぴらごぼうが置いてあった。俺達が仕事に出ることにはもう家を出ていたし、昨日だって俺達が寝た後に帰ってきたみたいだから、しばらく顔を見ていない。
(それもこれも……あの蛇爺の所為だ。あいつが犬に「ジンマオ」なんて勝手なあだ名をつけて、恩返しだのなんだのって犬を騙して働かせて)
初めて見た時から気にくわない男だった。長く伸ばした白髪と髭の、如何にも胡散臭い爺だった。低くてざらりとした声が甘ったるく、大きい方の姿の犬を「ジンマオ」と呼ぶところが腹立たしかった。あれは犬に惚れている男の声だ。今までの奴等だって、犬に色目を使う男は大抵ああいう声を出す。犬の本当の姿がどんな形をしているか見たことも無い癖に。犬の本当の姿……■■の素顔を見れば誰もがぎょっとするってのに。
(そうだ、心配することなんてない。■■を愛してやれるのは俺だけなんだから。あの爺だって、■■の姿を見たら、きっと)
そんなことを考えている間に、目の前に扉が降りてきた。罠に違いないことは分かっていたが、既に元来た道は暗闇に包まれていて、扉だけを明かりが一つ照らしていた。このまま後ろに下がることがあれば、俺は闇の中で行方不明になる可能性だってある。犬の為にも、俺は生き延びなくてはならないのだ。呼吸を一つ置いて、ドアノブに手をかける。がちゃりと扉の向こう、誰かの人影を見た気がしたが、構わずに中へ飛び込んだ。
「あ、ゴシュジン! 奇遇だね、ゴシュジンも『出られない部屋』に呼ばれたの?」
「……ダストか。スターはどうした。お前達は同じ職場にいるのだろう」
「……なんでお前らがいるんだよ。つうか、なんだその恰好!」
目の前にいる愛しい犬と憎むべき巴蛇に、刹那呆気に取られていた頭に血が昇る。俺の嫁であり妻である筈の犬は蛇爺の義手に縋るようにくっついていたし、一晩の恩を盾に犬を掻っ攫っていった巴蛇の方は明るい紫色の薄い浴衣だけ纏っていた。下半身が蛇であることを考慮に入れたって、人の奥さんと密室にいるとしては最悪の姿だろう。俺が語気を荒げると、巴蛇はわざとらしく守るように犬を背後に置こうとして、けれども犬は蛇爺の下心に屈することなく俺の方に駆け寄ってきた。犬はいつも通りの可愛らしさで「あのね」と俺に話しかける。
「犬と巴蛇様ね、お仕事終わって着替えてたの。そしたらね、今日の最後のお客さんが楽屋に入ってきて。巴蛇様が『今日はもうお開きネ、また明日来てくださるカ?』って言ったのだけれど、お客さんは『僕達とシたい』わけじゃなくてね。お客さんが『お話してきてください』と言ってね、気づいたら此処にいたの」
僕達とシたい。何でもないように口に出したその言葉が、俺にはどうにも許せなかった。分かっている。犬は体の年齢より心が幼くて羞恥心が薄いから、自分がやっていることが俺に対する裏切り行為と糾弾されるべき行為だと理解していない。それでも、俺の前で「男娼」としての話はしてほしくなかった。犬の頭を鷲掴むと、犬はきょとんと俺を見つめて、無防備に首を傾げている。まるで俺なんか怖くもなんともないという顔をして、それが憎たらしかったので白く柔らかそうな頬を平手で叩いた。ばちんと音を立てた掌に血が飛んだのは、犬の低い鼻から鼻血が出たからだ。それでもまだ「ゴシュジン?」なんて間の抜けた声を出すから、今度は拳で殴ってやろうとしたら手首を掴まれた。巴蛇が俺の手首を握っていた。
「そこまでにしろ。私の商品に傷をつけるな」
「……犬はお前の持ち物じゃねぇ。俺のだ」
「……番である自覚があるのならば、暴力など振るうな」
屑が。と、吐き出された言葉に血が昇るも、握られた手首が嫌な音を立てるとそれ以上の攻撃をする気は無くなった。巴蛇は桃源浄土のマフィアで化物だ。こいつは人を傷つけることを楽しめる奴だから、俺の手だって簡単に握り潰すか、或いは引き千切ることだろう。俺が拳を緩めて下に降ろすと、巴蛇はきょとんとしたままの犬の顔を、自分の浴衣の袖で拭った。化粧っ気のない小さな鼻が出血と青痣で飾っているのを見て、巴蛇はまるで「心を痛めたかのように」目を細めて犬の頬を撫でる。爬虫類は哺乳類に同情なんてしない癖に、そんなことも知らない馬鹿な犬は蛇爺の義手に「冷たくて気持ち良い」なんて頬を寄せるのだ。そんな姿を見ているうちに興奮と怒りの感情が下がってきた俺は、傍にあった一人掛けのクッションに座った。
「……んで、俺達はどうして此処にいるんだ」
「……断言は出来んが。少なくとも私と犬は結界呪術に巻き込まれてたのだと思う。お前が此処に来た理由は知らん」
「巴蛇様も分からない呪い? 死んじゃう呪い? それとも、苦しい呪い?」
「っ……死ぬとかそんな話するな、犬」
「あっ、ごめんねゴシュジン! えとね、えと、犬がね、ゴシュジン守るよ! 犬はね、呪い効かないから!」
犬に呪いが効かない、なんて。今度は何のファンタジー小説を読んだんだろうか。犬はそういうもの、夢みたいな話を信じてしまう性質がある。適当なことを信じて、犬が死んでしまっては堪らない。何かヒントはないかと部屋の中を見回すと、扉と天井の間の壁に、ショッキングピンクの文字が光っていた。
【相手のどこが好きなのか沢山言わないと相手が少しづつ全裸になる部屋~片想いver~】
「なんだよ、このふざけた題名は」
所謂「出られない部屋」の派生なのだろうそれに気が抜けてしまった。こういう部屋は大概えぐいエログロが起こるものだと思っていた。だからこそ『好きな相手の全裸を回避するために好きなところを言う部屋』なんて、どう考えても笑いごとだろう。焦ることも無いんだなと思いながら買ったばかりの煙草の封を開け、ポケットの中を探ってジッポライターで火をつける。犬が「ゴシュジン、煙草吸い過ぎ駄目だよ?」なんて可愛いことを言うので、軽く「へいへい」と返事をすると、何を思ったのか蛇爺は犬に真剣な視線を向けた。
「犬。私の語りに付き合ってくれるか?」
「巴蛇様が言うなら、僕、何でもするよ!」
そう答えた犬をベッドに座らせ、自分自身もその隣に腰掛けて、巴蛇はこほんと一つ芝居臭い咳払いをして語り始める。
「では、そうだな。……ボスの髪に飾る似合いの花は、牡丹の月宮燭光だと思うのだが」
「おい待て爺」
「……邪魔をするな。万が一あの御人の清らかなる肌が敵陣の前にまろび出ることになれば貴様の生皮を剥いで焼き潰すぞ」
此方を向いた爺は本気の怒りを表している。ということはこの男、本気でマフィアのボスの髪に花が似合うなどと思っているのか。俺自身は巴蛇のボスなんて見たことがないのだが、案外親の仕事を受け継いだだけの美少女なのだろうか。それとも、爺の癖に男娼なんかしているこの男みたいに、倒錯的な男装の婆だったりするんだろうか。マフィアの爺が爺に興奮してるとかは、あんまり考えたくもない。
「いや、夢見すぎだろ。なんでマフィアのボスに花が似合うんだよ」
「あの御人は美しいからだが。美しい御人に美しいものを飾るのは当たり前だろう」
私のように醜い者を添えて引き立たせることもあるが、なんて自嘲を交えながらも、蛇爺はそれ以上の説明をする気はないようだった。俺の方から目を背け、巴蛇は犬に月宮燭光についての高説を続ける。そもそも、牡丹の月宮燭光とはどんな花なのか。俺の頭の中の疑問符を理解したのだろう。犬は巴蛇の話を聞きながら「このお花?」と携帯電話の画面を見せた。蛇爺が「ああ」と頷くと、犬はその画面を俺にも共有してくれた。白い花びらの内側に赤い線が入って、黄色い花芯が鮮やかだった。どう見ても血肉にまみれたマフィアなんかに似合いそうな花ではない。やっぱり泣く泣くマフィアを継いだだけの薄倖の美少女なのか、それとも爺が蛇だから人間と感覚が異なっているんだろうか。少しばかり興味が湧いて問いを向ける。
「なぁ、巴蛇。この月宮燭光が似合うお前のボスってよぉ、そんなに美人なのか?」
「……その問いは少なくとも、番を持つ雄が聞く言葉ではないと思うが」
「はぁ? このぐらい良いだろ、犬は気にしねぇよ。それとも、言葉で表現できないようなブスなのか?」
「殺すぞ。……今のは分かり易い挑発に乗った私が悪い。済まないな、犬」
「犬、気にしないよ? 犬はね、巴蛇様ほど言葉を重きに置いてないの。言葉なら何とでも言えるもの!」
にこにこと笑った犬の言葉が何故か心臓に刺さる。別に犬へ罵詈雑言を言ったわけでもないのに、底がぎしりと軋んだ。けれども犬は何も考えていないらしい顔で、巴蛇にボスの姿を問う。
「ねぇ、巴蛇様はどうして、ボスさんに月宮燭光が似合うと思うの? ボスさんは巴蛇様にとって、どんな人?」
「……そう、だな。あの御人はけして、私の称賛の言葉など求めぬし、こんな言葉は煩わしい塵芥としか思わないだろうが。私からすればあの方は月だ」
「お月様? 太陽じゃなくて?」
「太陽では救われなかった。鱗の下の肉を焼き潰されて、醜い死体を晒すだけ。確かにあの御人は私を殺してくださるだろう。殺してくださるだけの力がある。その上で、あの御人は救いなんだ、私の」
居場所を与えられたのだと、老蛇は愛おしむかの如く自身の白髪に触れていた。その髪の色が本当は烏羽色と俺達は知っている。以前に犬の忘れ物を届けに行った時、俺はこの蛇の素顔を見た。老齢の蛇と言うには曲線的で滑らかな女のような作りの顔をしていた。まぁ、男らしさなどまるでないし、けして絶世の美女といった顔立ちもない、中途半端という印象だ。だからこそ、何処かで苛立ちを感じていた。
(■■は好きだったもんな、昔から。男なんだか女なんだか分からないような、線が細くてなよなよした、それでいて感情の薄い蛇みたいな奴が)
高校の時だってそうだった。俺が……あの時は未だ■■への感情が安定してなかった俺が、クラスの顔ばかりは可愛い女子と付き合ってた頃。しばらく■■と遊んでやれないうちに、あいつは教室の隅にいる奴らと仲良くなっていた。元は■■の顔形を見て、ヤンキーだのDQNだのと陰口を叩いていた奴等の癖に。■■はそれでも優しいから、あいつらを許して話しかけてやっていた。本当なら、あんな奴らは■■に関わる必要なんてなかった。
(○○君ね、恐竜好きなんだって。僕もね、恐竜が好きって言ったら、お話に混ぜてくれた)
■■が名前を呼んだ奴は、そのグループの中でも、何よりクラスでも変わり者だって言われてるオタクだった。高校生にもなって恐竜図鑑なんか眺めてて、その癖、理数系の成績はクラスで一番に良かった。……総合評価で学年の一番を取っていたのは、■■だったが。そんな二人だったからか、あいつらは昼休み中、ずっと話をしていても問題ないようだった。大概は■■が質問して、○○が延々と話を続けていた。相手の話を聞いてるだけだってのに、■■は楽しそうだった。俺にさえ遠慮がちな■■が、珍しく自分から誘いの言葉をかけて、遊びに出かける姿だって見たことがある。
(駄菓子屋さんでガチャガチャして、お互いの好きな恐竜出て、交換した。バイト代溜まったらね、二人で大きい博物館行きたいね、って)
○○との話を楽しそうに話す■■の、お気に入りのハードカバー本。しおりの紐についていたのは、小さな恐竜のメタルチャームだった。俺だって、その恐竜の名前は知ってた。
(お前にお似合いだもんな、ステゴザウルスって。僕は小学生の頃には捨てられてましたって、○○には言ってんの、■■?)
「ゴシュジン? どうしたの?」
犬の声を聞いてハッとする。見れば犬と巴蛇とが俺を見つめていた。巴蛇の方は俺に何か文句でもあるかのように舌打ちをする。犬は心配そうに「眠い?」と聞いてくるから、俺は「問題ねぇよ」と言った。その言葉に、犬は薄布で隠されたままの顔で「良かった」と笑った。
「じゃあね、ゴシュジン。もう少しね、巴蛇様お話するからね」
「……おい、まだ終わらねぇのか、この部屋。何時間喋ってるんだよ」
「私としては語り足りない。扉も開く様子はないし、此処にいる限りボスの肌がどこかで露わにされてしまう可能性がある以上、話し続ける」
「……はっ。恋愛脳のお爺様は大変ですねぇ。ボスのことが好きだとか言っても、別に付き合ってるわけでも気に入られてるわけでもねぇんだろ? 救ってもらったとか言ってたけど、お前は娼館で男娼させられてるわけで。ボスからすれば、お前って都合の良い玩具なんじゃねぇの?」
「? それに何の問題がある?」
間髪入れず零れた言葉は、驚くことに怒りすら帯びていなかった。本当に、純粋な疑問だというように、蛇は小首を傾げていた。瞼に動きがないものだから真っ直ぐに見つめられて、俺は言葉を詰まらせてしまった。どうしてか、ぎゅうと、犬が拳を握っているのが見えた。
「巴蛇様、は。ボスさんに好きになってもらいたいって、思ったことあるの?」
「まさか! ボスは私にとっての救済だ。人の概念で言えば、神様と言って良い存在だろう。私のような化物が、あの御人の愛に相応しいわけがない」
「……神様は人間を愛してるって、言う人もいるよ」
「それは人間だからだろう? 神様の似姿だからだ。私はあの御人に似ていない。似ているわけがない、化物なのだから。私は勝手にあの御人に縋った。私は勝手にあの御人に救われた。居場所を与えてくださった恩義を、自らの体を使って返すことも私の勝手だ。私が一番役に立てるだろう場所があの店だっただけで、人が死ぬ度に狂いそうになる脆弱な心を持たなければ、人を嬲り終わった後で嘔吐を繰り返す貧相な体を持たなければ……まぁ、IFの話をしても仕方がない。少なくとも、私は私の在り方を後悔などしない。周りから見れば無様だろうし滑稽だろうが、私がいるべき場所、私がいたい場所はあの場所だけだ」
あの御人の愛は私には分不相応だ。万が一に与えられたとすれば、例え非礼を理由に嬲られようとも、お返しする他にない。私はあの御人に触れるべきではない。あの御人は、私など愛するべきではない。ボスが他者に愛を求める時が来るならば、正しく愛に見合う御人に愛されるべきだ。そこまでを口にして、巴蛇は僅かに戸惑うような視線を犬に向けた。まるで理解を求めるかのように、巴蛇は「お前は」と言った。
「お前はどう思う、犬。私はこれが幸せなんだ。これ以上を、望む理由がない」
蛇の義指が犬の手の甲に触れた。色素の薄い手の甲の震えが止まった。握り締めた掌の中に、薄く血が滲んでいるのが見えた。犬がわふりと笑う。丁度、泣いている飼い主を慰める時のような、自分だって不安だろうに垂れた尻尾を静かに振る、ゴールデンレトリバーみたいな顔をして言う。
「巴蛇様が幸せって思うならね、それってきっと幸せだよ。僕ねぇ、巴蛇様が幸せなの、とっても嬉しい」
「……そうか」
「ねぇ。巴蛇様のお話、聞かせて。僕ねぇ、巴蛇様がね、大切な人のお話しているの、大好きなの。愛されている人のお話、大好きなの」
犬が蛇の手を握って、にこにこと笑っているのに何も言えなかった。怒りも嫉妬も感じられないまま、俺は犬と巴蛇とが話し続ける姿を眺めていた。
いつの間に眠っていたんだろうか。俺の体にかけられた着物を見て、慌てて上体を起こす。鈍い緑色のそれは犬の上着だった。これを脱いでるってことは、犬は襦袢しか着ていないってことで、俺の犬があの蛇爺と下着姿で一緒にいるってことだ。そんなこと許せるかと周りに目線を向けると、なんてことはなく巴蛇は俺の隣に座っていた。座っているというか、下半身は完全に蛇の形で、尾で緩く蜷局を巻いていた。
「……ああ、起きたか」
「犬、は」
「……寝てる。泣き疲れてな」
「は、あ!? お前、泣き疲れてるって、何した!? まさか俺が寝てる間に無理矢理……!?」
「そんなことをするものか。嫌がる相手を抱いて喜ぶような性癖は持っていない。まぁ、対象として抱けるかどうかと聞かれれば、一度はジンマオと■■を、抱いたし抱かれたが」
「抱かれ……え……■■が、抱いたのか……!?」
「ああ。犬は体が小さいから、男娼仕事は出来ないし……おい、勘違いをするな。■■が求めてきたわけではない。私が手解きとして『抱かせた』だけだ。あの子から、私を求めたことはない」
巴蛇が蜷局の中に義手を差し込む。よく見れば、小さく手足を縮こめて眠っている■■がいた。犬でもジンマオでもなく、■■が。この男は知っていたのだ、■■が本当はどんな姿をしているか。その上で、この男は■■を「この子」と呼ぶ。
「……■■は、ガキじゃない。29歳の大人だ。確かに犬やジンマオや、そうじゃなくても喋り方や行動はガキじみてるけど。それでも、この子なんて呼ばれる歳じゃない」
「私からすれば100歳以下は皆幼子と同じだ。ではお前は幼子と交尾をしている変態かと言われれば、その誹りは甘んじて受けよう」
「っ、爺ぶって。結局手前は■■が欲しいんだろ。そんな風に言って、俺から■■を奪おうってんだろ」
「……たかだか一度、命を救ってやっただけの老い耄れ蛇に。純粋無垢で献身的な、年若くて愛らしい番を奪われる程度の男なのか、お前は?」
頭の中に血が昇って、握った拳を爺の顔面に叩きつける。爺は顔を庇いもせず、顔の真ん中を殴られて鼻血を出した。だらだらと零れる血の色は真っ赤で、黒い鱗の溝を伝っていく。見れば、鼻の下と顎に生えていた筈の髭が無くなっていて、長い髪もまだらに黒くなっていた。か弱い女を殴ってしまったかのような罪悪感に目を逸らせば、巴蛇は俺の首を尻尾の先端で縛った。
「ぐぅ、えっ」
「目を逸らすな。お前は何の躊躇いもなく、顔を殴っただろう。お前は、この子にも同じことをしているんだろう」
「ち、が、違う……俺は、犬に、そんなこと」
「では何故。犬は私のように殴られた時も瞬き一つしなかったんだ。あれは殴られることに慣れた子供だ。防御なんてしようものなら腹や股座を吐くまで蹴り上げられて、吐いたことを理由にまた嬲られることを知る子供だ。真ん丸く眼を見開いて、殴られたら深々と体を折って謝って。どうしてこうなるまで、お前はあの子を傷つけた?」
蛇の言葉に喉が変な音を立てる。犬は、■■は俺に殴られても、いつも平気そうな顔をしていた。俺のことなんて怖くないって言うみたいに、俺が自分から謝るのを待って、じっと見つめているんだと思った。だが、巴蛇の言葉はまるで、■■は殴られることが怖かったとでもいうみたいで。そんなわけがない、と言い出そうとする俺の首を、巴蛇はまた強く締め付けた。
「体が大きければ、殴られても痛くないとでも。……少なくとも、私ですら殴られたら痛い。2000年も死に損なった化物で人外の爺でも、たかだが42年しか生きていない雄獅子を騙る小童に殴られただけで痛い。29年しか生きられなかった子供が、愛していた番に毎日のように殴られて、何故何も感じないと思える?」
何故だ。巴蛇の尾が俺を部屋の床に叩きつける。二度三度バウンドした体に目が回ってゲロを吐いた。びちゃびちゃと床を汚す俺を見て、巴蛇は「汚い」と言った。心臓をナイフで刺されたようだった。なんでそんな、酷いことを言うのかと、蛇の目を見れば。
「泣けるのか、自分が『汚い』と言われたら。犬を、■■を『捨て子の怪獣』と嘲笑ったくせに。それ以上酷い言葉を、お前は何度」
捨て子の怪獣。なんであの日の言葉を、こいつが。問い返そうとして、巴蛇は尾を振るって床を叩いた。腹の底に振動が加わり、もう一度吐いている間に巴蛇は続ける。あの時、■■はお前の思考が見えていた、と。お前が眠るまで、私に聞かれるまで。その思い出に泣いてしまいたいのを堪えていた、と。
「お前には恋人がいて、一緒に遊べなくなってしまって。自分なりに勇気を出して、ようやく友達が出来たのだと。だから、一番大事な友達に、それを教えたかったのだと。泣きながら話していた、■■は。調子に乗るなと言ったんだってな。捨て子の怪獣が、人間様と仲良くなれるわけない、と。それでも■■が○○は優しいからそんなこと思ってないと言ったら、お前は。じゃあ俺の友達とも仲良くなってくれるだろ、って、脅したんだろう」
当時つるんでいた仲間は、オタクの奴らをイジって遊ぶのが好きだった。……今ならば苛めと呼べるだろうそれだった。それでも、俺は■■を○○に奪われたくなかった。奪われるくらいなら、○○を学校から追い出したって良いと思った。■■は、しばらく呆然と座り込んで、それから俺に縋った。
(■君だけが、僕の友達だから)
(○○君とは、もう二度と遊ばない)
(だから、ねぇ。僕のことを許して)
「許して、だと。■■が何をした、○○という少年が何をした。ただ趣味に言葉を交え、喜びを分かち合っただけの友人を、お前は己の独占欲の為にぶち壊した。それからも、大して大事にしなかったのだろう。……告げ口などと思うなよ。■■は自分からは話さなかった。私が問わねば、涙を流すことさえしなかった。……その傷が、どれだけあの魂に刻まれているのか」
胸元を汚した俺の頭を掴んだ巴蛇は、何故、と零した。お前が何故、お前のような生き物が何故、と。その問いはきっと「犬に愛されるのか」と続くのだろうと思い込んで、少しばかりの優越感で「犬は俺を愛してる」と言った。瞬間、巴蛇の一つしかない目玉が金色から殆ど赤色に染まった、ように見えた。そういえば、と思う。■■も昔、酷く怒りを示した時に、梔子色の虹彩が、ほとんど血の色を滲ませて濁る姿を見た、と。
「この子は、■■だろうに。犬は貴様らが作った姿だろうに。……番の名前さえも間違えるお前が、番の命すらも否定したお前が、何故」
死に別れてからも番に心を砕かれるのか。死に別れてすら番と再会できるのか。
「私は一度も会えなかった。2000年も死に損なって、一度として再会することは叶わなかった。……愛していた、何よりも大事だった」
望むならば何でも捨てた、望むならば何でも覚えた。私が夫である必要などなかった、喜ばれるならばと褥で受け手としての淫らさを披露した。幼子のように髪を伸ばしたし、出来るだけ体が育たないように食事を摂らなかった。番が笑ってくれれば私も幸せだった。それは確かに真実だった。だというのに、何故。
「何故、お前のように番を殺した人間が、番と共に生きられるのか。何故、私の番は憎悪感情でさえ、私の元に現れてくれないのか」
憎らしい、と。妬ましい、と。怒りで涙腺の機能が壊れているのか、赤色の目玉がだらだらと血を流す。頭を握る掌を強く降り下げて、巴蛇は俺を床に叩きつけた。頭を打って乱れる視界に、巴蛇はにぃとわざとらしく口角を上げて言う。
「私が■■を愛しているように見えるのならば。それは貴様らが■■の価値を理解出来ぬ愚か者しかいなかったというだけだ。この程度の扱い、私のような化物が愛しているように振る舞うのが当たり前であるくらい、■■には価値があったんだ。お前達は馬鹿だ、生きているうちに■■を大事にしなかった。あれはもう私のものだ。愛してもいない私の所有物だ」
せいぜい大事に扱ってやると、声を潜めて巴蛇は言う。自分の尾が外れてもまだ丸くなって眠る■■の、いつの間にか長くなっていた梔子色の髪を撫でて、老齢の蛇はシュルルと喉を鳴らした。まだ寝ぼけているような瞳をしながら、それでも体を起こそうとする■■の。頬に柔く触れて「寝てて良いよ」と囁く蛇の姿を後に、俺は意識を失った。