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 これは僕がまだ人間の町で暮らす前のことだ。

 つまりは山の中での出来事、まだ野良の化け狸だったときのことだ。

 狸にも自由に化けられるものと普通の狸とがいて、当たり前のことだけどやはり普通の狸が圧倒的に多い。化け狸がそれらと大きく違うのは人の言葉を理解できるかどうか、もっと言うなら、人間と同じような知能があるかどうかだ。

 そう言う狸たちの中でも普通の狸たちと同じように山で野良として生活しているものもいる。僕も以前、そういう狸だった。

 そういう化け狸たちはもっぱら人間たちを化かす。それが他の同胞達に示すステータスになるからだ。

 その日も僕は、今から思えばちっぽけなイタズラを仕掛け、山に帰っている、その最中の話。

 確か時期は冬で、ひどく寒かった。

 山の、人間の言葉で言う獣道を通り抜けながら、しめしめほくそ笑んでいた。

 寒い。今夜は冷えるだろう。早く自分の寝床に戻ろう。

 木々の枝の隙間からは星はひとつも見えない。暗い闇からはそこに分厚い雲の気配が漂っていた。

「寒い。こりゃ早くしないと雪が降るぞ」

 おもわずそんなことを走りながら呟いた。獣道を抜けて、少し開けた空間に辿り着いた瞬間、僕は目を見張った。

 血まみれの人間がそこに倒れていた。

 服は何も来ていない。全裸で、黒い髪が長い。女だ。うつ伏せで顔は見えないが、わずかに体が上下している。生きているんだ。

 なんでこんなところに人間が。こんな山の深く、しかもこんな華奢な女が全裸で来れるわけない。たまたま来れたとしても、下界の人間の町に帰れるもんか。

 あぁなるほど。生きて帰るつもりなんて最初からなかったのか。つまりは自殺。死に損なったのか。ではなぜ裸なんだ。血まみれ?刃物か何かで自傷したのか。にしては血に濡れているところに偏りがない。傷も見えない。腹部にあるのか?だったら地面に血だまりが無いとおかしい。

 こいつはどこかで大量の血を浴びた。そんな感じだ。

 変な気色悪さを覚えて、僕は逃げるように無視してそこを通ろうとした。

「だれ?」

 女に目を向けると、今まで地面と接吻していた顔がこちらを向いていて、目が合ってしまった。

 幼さが残っているような美人な顔立ちだったが、瞳が真っ黒だった。目が合った瞬間、吸い込まれるように目が離せなくなった。体がこわばり、足も動かなくなって、しばらくは何も喋れなかった。

 なぜだか知らないが、人間に対して恐怖を抱いている。こんなことは初めてだ。

 本当に人間だろうか?

 人間からして、不思議なこと言うかも知れないが、僕はそのとき他の怪異的なものにあったことがなかった。見た目は完全に人間だが、状況があまりにも異様なので、どう対応したらいいかわからなくなっていたのだ。

「お、お前は何者だ?」

 詰まった末、そう答えた瞬間、僕は自分の落ち度に気づいた。

 野生のふりをして、普通に逃げればよかった。なんで普通に人間の言葉で喋ってしまったのか。動揺しすぎだ。

 彼女の次の言葉でそれは確実になった。

「近くで、誰か喋ってるのが聞こえたから、やっぱりあなただったのね」

 か細い声でそう言った。さっきの独り言が聞かれていたのか。

 彼女は真っ白な腕を立てて上半身を起こすと、こちらに笑いかけた。先ほどの異様な光景に比べて、ほんの少しの人間味を感じて、体の硬直がわずかに緩んだ。

「こんなところで何をやってるんだ」

「こんなところで・・・」

 虚ろな目を茂みの虚空に向けて、今度は彼女が動かなくなった。いや、ぼーっとしているが正しいか。

「そうだ。こんなところ、人の来るところじゃないぞ」

「私は・・・」

 ゆっくりこっちを向いて、口を開いた。

「わからない」

「な・・・なにが?」

「ここはどこ?」

 埒が明かん。いい加減逃げ出したい気持ちだったが、なんとなくほっとくわけにもいかないような気がした。なにせここは僕の住処の近くだ。別の場所に移るにしても今日はもう無理だ。ほっといて居座られたら困るし、このまま野たれ死なれしなれでもしたらもっと困る。

「B市から車で三十分くらいの山の中だ。あんたみたいな華奢な女が簡単に来れるところじゃない。遭難かなにかしたのか」

 全裸で?血まみれで?

 自分で言っててわけがわからなくなってくる。

「わからない」

「わからないって?」

「なにも、わからない」

 彼女無表情でそう言った。

「・・・記憶がないのか?」

「・・・」

 僕の質問に答えることもなく、ボーっと虚空を見つめていたが、急に思い出したかのようにハッと前を向いて

「行かなきゃ」

 そう言うと謎の女は立ち上がった。

「行くってどこにだ」

「彼のところ」

「思い出したのか」

「・・・わからないけど、でも行かなきゃいけないの」

 おぼろげなことを言いながら、彼女は歩いて行こうとする。

「待て待て、まさか今から山を降りる気か」

「そう」

「全裸の血まみれで?」

 彼女は僕が何を言っているのか理解できてないようだった。黒い髪を揺らして首をかしげる。 

「ええい、ちょっと待ってろ」

 僕は近くにある自分の住処にもどり、人間の世界からかっぱらってきた諸々の中から比較的きれいなタオルを近くの川につけて持って戻った。その間にもしかしたら、自分のことなど忘れて既にどこかに行ってしまったかもしれないと思ったが、ちゃんとそこで待っていたのでひとまず安心して言った。

「とりあえず、これで体を拭け。付け焼刃かもしれないけど」

 彼女は不思議そうに渡されたびしょびしょのタオルを見ていたが、しばらくすると髪やら顔やら体やらをそれで拭き始めた。真冬の川につけたはずなのに、彼女は全く平気そうだった。

「自分の名前も思い出せないのか」

「なまえ?」

「そう、君の名前。他の奴からなんて呼ばれてた?」

 体を拭く手が一瞬止まって、彼女は答えた。

「さくら」

 またどうせ『わからない』と言われると思っていた僕は少し驚いて、続けて聞いた。

「さっき言ってた『彼』っていうのは誰だ?君の恋人かなんかか?」

「こいびと・・・、多分、そう」

 また『わからない』以外の答えが来た。僕はもう一度さっきした聞いたことを聞いてみることにした。

「なんでこんなところにいる。こんな日も沈んだ時間に、君んとこの言葉でこれは遭難って言うんじゃないのか」

「それは・・・それはわからない。気がついたらここにいたの」

 こっちが質問をすればするほど、はっきりとした答えが返ってきた。だんだん記憶の霧が晴れてきたのかもしれない。

 さくらと名乗った少女は赤く染まったタオルを差し出してきた。

「拭けたか」

「体がびしょびしょになったわ」

 確かに血まみれではなくなった代わりに全身ずぶ濡れの状態になっていた。

「・・・」 

 僕は多少顔をしかめたが、血で汚れたタオルをひったくって、もう一度住処に戻り、汚れたタオルを放り投げると、別の、まぁ多少マシなタオルを持って戻った。

「・・・土がついてる」

「我慢しろ。貸してやってんだから」

 狸の姿で行ったり来たり、それも濡れたタオルをくわえたりしてたものだから、もうへとへとである。だが彼女の体は最初の状態よりはきれいになっていた。

「じゃあ、行くわ」

 そう言って、早々に行こうとする彼女

「おいおい、まだ全裸じゃないか」

「あなたは服も持ってるの?」

「持ってない、だが」

 僕は自分の姿を女性物の白いワンピースに変化して、彼女の体に纏ってやった。彼女は目を丸くして自分の服になった僕の姿を見ていた。

「あなた、なんでもできるのね」

 僕の変化を見てここまで落ち着いている人間も初めてだったが、多少は驚いてくれたようで、少し得意げになって僕は言った。

「君、ここからどうやって下に降りるつもりだ。道も何もわからないのに」

「そんなことないわ。まっすぐ歩いてればいずれは抜けるはずだから・・・」

 一生ここで彷徨ってるつもりなのだろうか。

「ついて行ってやるよ」

 僕は呆れ気味に言った。

「それに一緒に行かないと、全裸の変態扱いされて君向こうで捕まるぜ」

 さくらは何かを考えるようにそのまま静止して、そして言った。

「ありがとう。やさしいのね」

 言葉は優しかったが、顔は無表情そのものだった。

 この娘は道中たまたま会った得体の知れない化け狸が、なぜここまで自分に執着するのかとか考えないのか。いや、一瞬止まったのはそれを考えていたからか。そもそもなぜ僕は彼女に協力する気になったのだろうか。最初は自分の寝床の近くで遭難していた人間を、厄介で邪魔に思っていたのに。

 後々考えて見ると、このとき僕はこの不思議な存在に厄介を通り越して面白みと興味を持ちはじめていたんだと思う。この娘は本当に人間か、それとも怪異的なものか。『彼』はいるのか。

 見たところ、彼女の体には傷一つついていない。さっき体を拭いていたときもどこか痛がっている様子はなかった。

 つまり血まみれだったが、あれは彼女自身の血ではなく、他人の血だ。

 なぜ血まみれだったんだ。誰の血だ。

 そんなことを思いながら、彼女とその場を離れる最中、僕は改めて彼女が先ほど倒れていた場所を見た。

 初めてそれに気づいた。倒れていた跡、地面に人がいたように体の跡があるのだが。

 長い。

 いや、違う。頭の位置からずっと後方は、手で漕いだような跡がある。

 這ってここまできたんだ。

 あの茂みの向こうのどこか奥から、血まみれで、どれくらいの距離かはわからないが、這って僕の住処の近くまで来たんだ。

 この女が何者なのか。日も暮れて寒空の中、僕は思案にくれながら、彼女を誘導していた。なるべく人が通りやすい道を選び、しばらくすると、よく人が往来している山道に出た。ここから下れば車道に出るはずだ。彼女一人ではここまで辿りつけなかっただろう。

 草木を掻き分けて、そして車道に出た。

 等間隔に電灯が並んで、コンクリートが右と左にまっすぐ伸びた一本道だ。

 いわゆる国道何号線とかいうやつで、ここから右に蛇行する道を歩いて三、四時間ほどで山を貫通するトンネル、そこを通過してからおよそ二時間行けばA町の住宅街、さらに繁華街の中心に位置する駅につける。左に行けばトンネルは無いが同じく蛇行する山道を一時間とすこしでA町のお隣B市へと辿り着く。つまるところ今僕達がいる場所はB市の中で、トンネルが市と町との境になっているのだが、彼女がどっちに行くかによってこの冒険の過酷度が変わってくる。

 山の木々に囲まれて、雲もどんよりとして、冷たい風が僕らを包んだ。

「『彼』の場所はわかるのか」

「多分、あっち」

 わからない。そう言われると思ったので、ちょっと驚いて僕は言った。

「記憶、戻ったのか?」

「少しずつだけど・・・」

 少しだけ終わりが見えて、一瞬ほっとししたが、彼女が指し示したのは最悪五時間以上のA町コースだ。どうやら今夜中にこの珍道中を終えられるかどうか怪しくなってきた。

 暗いコンクリートの上を彼女は歩き始めた。

「彼とは一緒に住んでたの」

 思い出すように彼女は小さく口を開けて言った。

「多分、ずっと一緒だった」

「夫婦だったのか」

「わからない。でも、好意はあった。と、思う」

 にしては随分淡白な、他人事のような言い方だと思った。彼女は続けた。

「うん。多分お互いに好きだった。愛してた。と思う。でも、それも途中まで、途中から好きの中に嫌な気持ちも混じってる」

「嫌な気持ち?」

「彼のこと、少しずつ嫌いになっていった。最初はすごく好きだったのに」

「それは相手の方も、そんな感じだった?」

「多分そう。いや、わからない。わからないけど、私のほうはなんか、好きって気持ちの中に嫌な気持ちも湧いて、それが、私はすごくいやだった」

「あー、・・・その、嫌な気持ちっていうのは、彼に対して?」

「そう」

「嫌だって思ってるのに会いに行くのか?」

「うん。行かなきゃいけない」

 なんだか安い恋愛話を聞かされてる気分になってきたが、ここに来てさくらの記憶が大幅に戻りつつあった。変な茶々はいれないように、僕は相槌と簡単な質問に努めた。

「なんで、彼のことが嫌になったんだろうな」

「多分、性格?変わっちゃったんだと思う」

「喧嘩でもしたのか」

「嫌になってから何度もした。殴られたりもした」

 人間世界では俗にDVと言うんだろうか。

「そいつはなんと言うか、随分ひどい奴だな」

「うん。私もそう思う」

「最後に彼と会ったのはいつだ?」

「最後・・・」

 少し間があって

「・・・わからない」

 会話を続けるほど、彼女の記憶は蘇っている。おそらく『彼』のところに着くのがゴールなんだろうが、A町に辿り着いたとしてもそこからはたしてどれだけの距離があるのかわからない。彼女に興味があるといってもせめて今日明日には解決してほしいところだ。

 僕に出来るのは、この移動時間を使ってなるべく彼女から多くの記憶を引き出させてやることしか出来ない。

「最初はいい人だったのか?」

「出会ったときはいい人だったんだと思う」

「どこでどうやって出会ったんだ?」

「・・・わからない。彼は最初からいたから」

「最初からっていうのは・・・、思い出せる範囲内ではってことか?」

「そう」

「彼との一番最初の思い出はなんだ?」

 しばらく間があって、彼女は答えた。

「ベットの上で、二人がいて、それから一緒に寝て、あったかくて、それから」

「あぁ、わかったわかった」

 ここら辺は聞く必要はなさそうだ。というか、うんざりだ。

「そこから、順繰りに彼との思い出を話してもらえるか」

「じゅんぐり?」

「そう、古い思い出から順番に」

 それからさくらは、ところどころ詰まりながら、断片的な彼との思い出を話した。

 不明瞭ではあるが、なんとなくわかった彼の性格は、やはり善良な人間ではなさそうだ。ただ最初言っていたようにずっと暴力をしていたわけではなく、それは周期的なもので、普段はやさしかったと彼女は語った。彼女を気遣うようなそぶりもあったし、デート的な健全なカップルめいたこともしていたようだ。

 しかし、特にお金に関しては非常に困っていたようで、さらに昔の自慢話をしきりに彼女に語っていたところを見ると、プライドも高く、(これは憶測だが)若干の内弁慶気質もあるようだった。そして恐らく外で嫌なことがあったときには彼女に当たっていた。

 しかし、彼女はそれでも、彼を信じていたようである。信じていたと言うよりも、執着していた、そう言ってもいいかもしれないが。

「一人だった」

 さくらは話した。

「誰もいなかった。家族、友達」

 冷めたような無表情のまま、口だけが動いている。

「彼しかいなかった。彼もきっと私しかいなかったと思うから」

 自分の不幸な身の上話に何を思っているのか。

「だから、多少彼が変わってしまっても、それでもついて行こうって思ったの。きっと私が頑張って、またいろいろ上手くいったら元に戻るって、そう信じて、でも・・・」

 彼女の足が止まった。少し表情が翳った。

「決断」

 一言そう言うと

「私は決断をした。彼のことが嫌いになっていく気がする。そんな自分が嫌だった。きっとそれは私のせいなのに。彼から離れたらどうなるかわからないのに。彼までいなくなったら本当に一人になってしまうのに。そうなるのであればいっそ」

 そして彼女は言った。

「・・・いっそ死んでしまおうと」

 そのとき、後方から聞き覚えのある機械音が聞こえた。まだ遠いがそれは徐々に大きくなっていく。こんなシンとした山奥にその音だけがこだまする。

 車だ。もしかして。

「タクシーじゃないか?」

「え?」

「いや、わからないが・・・、本当にそうだったらチャンスだ」

「どうして?」

「いいから、手を上げとけ。こんな山道ずっと歩いてたら日が暮れちゃうよ」

 言われるがままにさくらは音のする方向に向かって手を上げた。

 それからほどなく、やはり車と思しき二つの光がこちらに向かっているのが見えた。そしてもう一つ、車の上部についている行灯の明かりも見えた。

 本当にタクシーだと思った僕は頭の中で小躍りした。あとは停まってくれるかどうかだ。こんな夜の、こんな山道に一人ぽつんといる白いワンピースでしかも裸足女なんて怪しさしかない。

「停まってくれるかな」

 彼女も同じことを考えているようだが

「大丈夫だ。あんた顔がいいから」

「顔?」

「美人だってことだよ」

 適当なことを言って褒める。不気味ささえなければ顔がいいのは本当のことだ。

 だんだんタクシーも近づいてくる。眩しすぎるくらいのランプの明かりがまっすぐ僕達に当たっている。『空車』の文字も見えてきた。向こうもこちらの存在に気づいているはずだ。

 しかし、近づいてきてもスピードが緩まる感じはしない。

 駄目か、流石に。

 そのまま素通りしていった。と思いきや、僕らから通り過ぎてから徐々にスピードが落ちていき、完全に停止した。

「おい、やったぞ」

 僕が嬉々として言うと、さくらも続いて小走りでタクシーに駆け出した。

 後部座席が独りでに、がちゃ、と開いた。あぁ良かった。これでなんとか街にはつきそうだ。

 僕らが乗り込むと中年らしいめがねのおじさんが怪しげにバックミラーからこっちを見ていた。

「・・・どこまで?」

 聞いてくるその声には、危険なものに対する警戒の色が濃く出ていた。

「あっち」

「え?」

 まずいと思った僕はすかさず「A街って言え」と運転手に聞こえないくらいの小さな声でさくらに指示をした。

「A街」

 さくらは言うとおりに一言そう言うと

「あぁ、A街ね・・・。A街のどこで下ろせばいいですかね」

「彼のところ」

「彼?」

 再び僕は「町中に入ったら指示しますって言え」と言うと

「町中に入ったら指示します」

「え、あぁ、そうですか・・・。あの、つかぬことお聞きするんですけど、お客さんお金・・・あ、いや、なんでもないです」

 何に臆したのか運転手は途中で言うのを止めた。まぁ、いや、言いたいことはなんとなくわかるが、ともかく扉は閉まり、僕らを乗せてタクシーは出た。

 ようやく落ち着いて一息つく。さっきまで全く動かなかった山の景色が一気に進んでいく。さくらも物珍しいのか窓の外の景色を眺めている。心なしか、少し表情が動いて楽しんでいるようにも見える。

 子供みたいだな。

 そう思ったのち、さきほどの彼女の言葉が脳裏を過ぎった。

『いっそ死んでしまおうと』

 それはつまり、自殺、そういうことだろうか。

 彼女の中の彼は、それはそれはひどい人物だったらしい。最初は彼女も好印象だったらしいが、徐々に変わっていった。『上手くいったら』という表現をしていたから、恐らくよくあるような金周りの問題かもしれない。それも、割と彼女に頼っていた部分も多かったようだ。あくまで想像でしかないが。さくらはそれを自分のせいだと思っている。

 家族もいない。友人もいない。見た目あどけない少女にしか見えないが、その裏、僕が思っている以上に色んなことを経験しているのかもしれない。

 そしてその結果、いっそ死んでしまうという、自殺ということになったのだろうか。

 しきりに言っていた『決断』というのも自殺のことだろうか。

 じゃあ、あの状況はいったいなんだ。なぜ服も着ないで血まみれだったのか。なぜこんなにも記憶が曖昧なんだ。

 自殺を図ったくせに、暴力を受けていたくせに、なぜ傷が一つもなく生きているんだ。

 這って来た先、あの茂みの先には一体なにがあったんだ。

 こいつに着いて行けば、それら全部が解消されるんだろうか。

 気がつくと、車内が一気に暗くなった。トンネルに入ったのだ。

「ここ」

 窓の外を眺めていたさくらがボソッと呟いた。

「彼と来た」

 本当は相槌でも打ちたいところだったが、これ以上運転手に怪しまれてもしょうがないと思い、あえて何も言わなかった。運転手の顔色をバックミラーから覗ったが、やはり、わかりやすいくらいの顔面蒼白、強張った顔をしていた。

 申し訳ないと思うと同時にしめしめとほくそ笑んだ。

 トンネルを出てからしばらく、森と蛇行と上下の起伏が少なくなっていく代わりに、民家と人の気配が増えてきた。住宅街の外側に来たのだ。外を歩いている人は少なかったが多くの家々からは明かりが灯っていて、仕事から何から帰ってきた人たちが中にいることが覗えた。

 僕はここら辺だろうとさくらに小さく言った。

「次の信号を右に行ってください。って言え」

「え?」

「いいから」

 さくらが言った通り復唱すると、わかりやすいように肩をびくっとさせて「はい」と言って、次の交差点で車は右に曲がった。そこから右、左、というように僕はさくらに指示を出させ、せっかく町の明かりが人の温かみ感じれらる場所に来たのに、先ほどの山中と同じような、また人気のない茂みの多い場所に来た。

 そのまましばらく走っていると、となりにとある広い空間が見えてきた。

 墓地。

 すなわちお寺の敷地に入ってきたのだ。

 右も左も墓地に挟まれ、明かりは等間隔の電灯が並んでいるだけという場所に来た。無論こんな時間に人など歩いていない。運転手も明らかに動揺しているようで、もう泣きそうな顔をしている。こっちに目を合わせないように、前だけを凝視して明らかにおかしい状況なのに緊張して視線が一切動いていない。

 僕はこっそり彼女に話した。

「ここらで降りるぞ」

「でも・・・彼は多分ここにはいない」

「いいんだ。ここからまた歩こう。あと、もう少し小さくこっそり喋れ。小さくても僕には聞こえるから」

 前を見ると、独りでにわけのわからないことを喋った客に明らかに動揺していた。彼女はささやくように言った。

「・・・わかった」

「運転手に『ここでいいです』って言ったあと、すぐに席の下に隠れろ」

「・・・なんで」

「いいから」

 僕がそう言うと同時に、さくらは言った通りに言った。

「え、ここですか?」

「はい」

 淡白に彼女が言うと、タクシーはこの暗い道の路肩にゆっくりと停まった。

 不安そうに運転手がこっちに目を向けようとする、そのタイミングで僕は颯爽と変化を解いて、隠れる彼女を隠すように彼の視線と被るようにすばやく助手席に移動した。

 瞬発的に驚いた彼は、さらに驚いた。後部座席に誰もいなくなっている。実際には下に隠れているだけなのだが、外からの光しかない、気が動転している彼の目には不可思議に映ったことだろう。そしてさくらが気づかれる前に僕は助手席でさくらの姿に変化した。

「っ・・・!」

 運転手はすぐに僕に気づいた。恐怖で目がひん剥いている。

「ねぇ」

 僕はゆっくり彼に顔を向けた。目を全部黒目にして、意味ありげにニヤッと笑った。そして手を付いてゆっくり近づく。そこからゆっくり口を開いて、ありえないくらい頬の奥まで口が割いて、完全にドアにぴったりくっついて、ロックの部分を慌てて探している彼に多いかぶさる。

「あああああああああああああああああああああ!」

 恐怖で絶叫するおじさんに

「わるいね」

 そう言う頃には運転手のおじさんは、気を失って伸びていた。試しに頬を軽く叩いてみたが、全く反応がない。

「よし、行こう」

 再び全裸になったさくらが後部座席から顔を覗かせていた。

「大丈夫、その人?」

「少し伸びてるだけだ」

 この人間には悪いが、金なんて持っているわけもないので、ここは化け狸らしくいかさせてもらった。

 僕は再び彼女の服に化けて、タクシーから出た。タクシーは一時停止の状態でランプが点滅していた。別に中の人間も死んだわけではないので、このまま放っておけばいずれ目が覚めるだろう。

「おっさんが起きる前に早くずらかるぞ」

 僕達はタクシーを後にした。

さくらはもと来た道を戻るように柵を挟んで墓が並んでいるこの一本道を歩いていく。まるで、もうどこに向かえばいいのかわかっているようだ。

「『彼』の場所、わかるのか?」

「うん」

「記憶、どこまで思い出した?」

「もうだいぶ」

 確かに、初めて会ったときと比べればだいぶ人間味が増してきたように思う。

「じゃあ改めて聞くが、お前なんであんなところにいた」

「あんなところ?」

「あんな山奥に一人で何をしてた」

「それは・・・まだわからない」

 自分の過去を話すときにピクリとも表情が動かない、人間味が増してきたと感じているのは多少は話せる奴だというのが、僕自身の認識でわかってきたからだろうか。

「じゃあ昔のことはどうだ。自分がどこで生まれたとか」

「生まれた?」

「出身だよ。どこで生まれて、どこで育った」

「知らない」

「でもあんたさっき、親も友人もいないとか言ってなかった」

「それは、感情の中にずっとそういう思いがあったってだけで、その人たちがどういう人なのかは知らない」

 つまり覚えてる期間内にそう思ってたというだけで、実際に一人だった期間の記憶があるわけじゃないってことか。

「覚えてる最初の記憶は変わってないってことか」

「うん」

 『もうだいぶ』なんて言っていたが、結局のところ大きな進展は無しのようだ。

「一番最近の記憶はどうだ」

「・・・山の中で目が覚めて」

「違う。それより前の話だ」

「前?」

「あんたがあの山に来る前のまでのことで一番新しい記憶はなんだ?」

 彼女は記憶を探るように少し黙った後に答えた。

「彼と喧嘩した」

「喧嘩?」

「そう。なんで彼が怒っているのかはわからない。でも」

 そのとき、無表情だった彼女の顔に一瞬の揺らぎを見た。

「決断」

 どうやらこの『決断』という言葉が鍵のようだ。

「決断して、そしたら、そしたら彼が怒ったの。私も彼に怒った」

 あれだけ『彼』に執着していた彼女が、ここで初めて反抗したということか。

「決断、さっきもそんなこと言ってたな。何を決断したんだ?」

「彼と別れようとした」

 僕は驚いた。

「さっきまであんなにご執心な感じだったのに?」

「決意して、決断したの。本当は死んでしまおうと思ったけど・・・」

 そして僕はさらに驚いた。彼女が俯きながらちょっと笑っていたから。

「一人じゃないってわかったから」

 彼女に対して新しい味方が増えたのだろうか?

「誰か別に頼りになる人を見つけたのか?」

 彼女は答えない。

「新しい友達が出来た?」

 彼女は答えない。

「親のところへ帰った?」

 彼女は口を開いた。

「守らなきゃいけないって思ったの」

 彼女の微笑とは裏腹に、僕の中では疑念が募るばかりだった。僕は何回か同じような質問を彼女にするのだが、曖昧なことを言うだけで答えようとしなかった。

 墓地の一本道を抜けて、雑木林に囲まれた道路を少し進むと再び民家の多い場所に戻ってきた。

 何時くらいだろう。僕は不意に思った。

 あのタクシーから出たときは十時を過ぎていた。あれから三十分か一時間か歩いて、十一時くらいだろうかどちらにしろもう夜中だ。風はやはり冷たい。布切れ一枚に化けている僕だが、もうそろそろ寒くなってきたかもしれない。僕はともかく、さくらは寒くないのだろうか。そんな思いとは裏腹に彼女は全く平気そうだった。

 彼女は街中に入っても歩みを止めることなく、裸足のままコンクリートの上を進んでいた。どこに行けばいいか、もうわかっているようだった。

「さっきも思ったんだが『彼』がどこにいるかわかるんだな」

「なんとなく?」

「・・・なんで疑問系なんだ」

 僕にも当然わからないのでとにかく彼女のなんとなくを信じるしかなかった。

 墓地を抜けてからどれくらい経ったかはわからないが、それからさくらは夜の街を歩き続けた。人通りのない道がほとんどだったが、そこは普通の住宅街、0というわけではなかったのでたまに普通の人間に不審な目で見られながらそれでも歩き続けた。

 端から見れば、迷ってる、と言っても差し支えなさそうだった。

 実際僕もどうするか迷っていた。この同じところをぐるぐるしてそうな状況をなんとかしたほうがいいのか。実際、一度国道に出て、町の中心にある駅に向かうことも出来る。が、それがなんになるというのか。町の地形をなんとなく把握していても僕はゴールを知らない。『彼』の居場所を知っているのは彼女しかいない。それに彼女に人通りの多いところを歩かせたくなかった。

 この格好で歩かせるのも限度がある。人を呼ばれたら面倒だ。

「なぁ」

 僕は声をかけた。

「本当にわかるのか。彼の居場所」

「・・・・」

 彼女の足が止まった。しばらく硬直した末

「どこだろう」

 首を傾げた。もっと早くに声をかければよかった。

「一旦落ち着いて二人で状況を整理しよう」

 見ると小さな公園がある。ど真ん中に街灯があって、巻貝のような形の滑り台があった。階段から巻貝を沿うように滑るところがあるのと、よく見ると巻貝の穴の部分は空洞になっている。

「あそこに行こう」

 遊具はその滑り台ともう一つブランコがあって、二つとも寂しく街灯に照らされていた。滑り台の中に入ると外で想像したほど広い空間ではなく、筒状の空洞が巻貝の背中まで貫通していた。

 さくらは四つんばいで空洞の真ん中に行き、そして腰を下ろした。ここなら他人からの目線も気にする必要はない。右側の穴から街灯の光が差し込んで、さくらの足を少し撫でていた。

「さて」

 僕は言った。

「今のとこ、彼に関するヒントは君の記憶しかないわけだが、住所とかは覚えてないよな」

「住所?」

 そう言いながら首を傾げた。まぁそれがわかっていたらこんなところに来てないか。

「どこまで思い出した?自分の職業、年齢、なんでもいい。なにか言ってみてくれ」

 彼女は困ったように小さく唸った。

「ゆっくりでいい。自分の齢はいくつだ?」

「・・・わかんない」

「職業は?稼いでたんだろ?」

「それも・・・わかんない」

 彼女の経歴から探るのは間違いかもしれない。先ほどから食いつきがいいのはもっぱら『彼』のことだ。

「じゃあ『彼』の名前は。なんて呼んでた?」

「ひろくん」

「ひろくんとどんな家に住んでたんだ?」

 明らかにさっきの困った感じとは違う沈黙だった。

「一階と二階があって、ドアが五つくらい両方ともあって、私たちの部屋は外の階段を上がって、一番奥の部屋」

 恐らくアパートのことだろう。二階の角部屋に、やはり二人で住んでいたようだ。

「アパートの・・・、その場所の近くにはなにがあった?川が流れてたとか、なんか特徴的な建物があったとか」

「川・・・」

「あったのか」

「そういえば・・・そう」

 これは大収穫。川沿いに進んでいけばいいってことだ。

 彼女は不思議そうな顔をしていた。『なんで忘れてたんだろう』というところだろうか。

 希望が見えてきたそう思った瞬間だった。

「・・・痛いっ!」

「え?」

 彼女が突然おなかを押さえて苦しみだした。

「痛い痛い!」

「どうした!腹壊したか!?」

 平気そうな顔をしていたが、やはり布一枚じゃ心もとなかったということか。

 脂汗を滲ませながら腹部を痛がる彼女、脂汗を滲ませ、しまいには涙も流している。しかし、生地が厚い感じの人間の服。

「わからん!」

しかしそうも言ってられない。どうすればいいんだ。とりあえずもう少し毛皮っぽくすればいいのか。なんだかそれはそれで複雑だがこの痛がり方は尋常じゃない。やるしかない。

 僕があたふたそんなことを考え、服の生地を試行錯誤していると

「やめて、やめて!」

 最初は服の生地のことかと思っていたら

「いや!おなか刺さないで!」

 彼女はその場に倒れこんでしきりに何かを嘆いていた。そして「いたい」の他に「やめて」とも言うようになった。それにしても『刺さないで』とはどういうことだろう。彼女の肌とは既に密着しているのだ。傷なんかあればすぐにわかるはずなのだが。

 そうか。彼女が痛がっているのは今に対してじゃない。痛かったそのときの記憶に対して反応しているのか。

「おかあさん」

「え?」

「苦しいよ・・・。おかあさん」

 おかあさん?

 おかあさんに刺されたのか?てっきりひろくんに刺されたのかと思ったが。

 また新しい登場人物が出てきた。こっちはひろくんだけで手一杯だというのに。

 彼女は「痛い、やめて、苦しい」をしきりに繰り返した。最初は外にも届くほど大きな声だったが、徐々に小さくなっていき、落ち着いたとみえて、最後には気を失ったように、小さな寝息を立てて、そのまま寝てしまった。

 僕はとりあえず、毛皮コートのような素材に自分を変えて(というかほぼ自分の毛なのだが)、彼女が目を覚ますのを待つしかなかった。

 刺された。ということは、殺された。ということだろうか。

 そういえば僕は彼女の心音を一度でも聞いただろうか、これだけ一緒に、それもこんな肌が触れてるくらい近いところにいて、何も覚えがないというのも変な話だ。

 もしかしたら、彼女は、さくらはもう・・・。

 僕は彼女の胸の音に耳を澄ませた。

 これは、なんだ。

 聞こえているようにも感じるし、何も聞こえないようにも感じる。

 なんだこの感じは。

 死人でもなければ生者でもない、ということなのか。

 わからない。こんな奴は初めてだ。

 化け物。

 自然と出てきた言葉だった。

 昔、人間の中で妖怪と呼ばれている存在はみな化け物と呼ばれていたらしい。人間からみたら僕もその仲間なのかもしれないが。しかし僕は生きているという実感がある。人間に比べると多少長生きかもしれないが、心臓も動いてる。刺されたら普通に死ぬ。

 しかし、彼女にはそういう概念がない。そういうことだろうか。

 昔、里の長老狸が言っていたことを思い出した。

「妖怪はもともと化け物と呼ばれていた。本来あるべき姿から大きく変化して全く別のものになった。そう言う者のことを指して、呼ばれていた」

「じゃあ、僕の母さんも父さんも、人間に化けたりするから、化け物っていうの?」と小さい頃の僕は言った。

「人間にとっては、そうかもしれない。そもそも『妖怪』も『化け物』も人間が勝手に作った言葉だからな。しかし、我々とは明らかに違う、そんな化け物もいるのだ。

 我々はもともと狸という普通の生き物だった。そこから化けるという能力を得て、化け狸という存在になっている。しかし狸は狸だ。生の根本から変わっているわけじゃないし、元の姿にだって戻れる。

 しかし、その者たちは違う。妖怪でないものが妖怪になるということは、生死の概念から逸脱するということだ。我々とは違う、そういう存在に変貌するということだ。それが本当の化け物だ。人間達には同じに見えるかもしれないが」

「それは・・・」おじじのあまりの圧に気おされ、おびえながら僕は言った。

「それは、悪いことなの?」

 おじじは笑いながら言った。

「いや、悪いことでもなんでもない。なるがままそうなっただけということだ。雨が降ったり風が吹いたり、それと同じことだ。彼らにも喜怒哀楽がある。感情がある。意思疎通が出来ない怪物になるわけじゃないよ。

 ただ、彼らに会ったときには気をつけなさい。

 彼らの意思を邪魔しちゃいけない。

 そうすればきっと、彼らにとっての正解に辿り着くはずだから・・・」

 正解・・・。

 それはどういう意味だろう。

 彼女にとっての正解。

 自分を刺し殺した相手への復讐。

 そういうことなのだろうか?

 僕はふと目が覚めた。どうやら服の姿のまま一緒になって眠っていたようだ。

「狸さん」

 彼女の声がした。さっきまでの苦痛そうな表情はもうどこにもなかった。

「思い出したよ。彼の場所」

 少し微笑みながらそう言った。

「そうか。それはよかったな。・・・なんか」

 彼女の妙にすっきりとした、人間らしい顔つきを見て思った。

「なんか変わった?」

 彼女は笑って言った。

「全部思い出したの」

「おぉ、本当か!」

「うん。でも、狸さんが起きるまで待ってたんだ」

「そうか。それは悪かったな」

「いいの別に」

 あっけらかんとそう言う彼女。本当に人が変わってしまったようだ。

 何を言うでもなく彼女は穴から這い出ると

「行こ」

 そう行って歩き出し、公園のスポットライトを横切って、公園を出た。より深い時間になって先ほどよりも町から明かりが消えていた。

 明らかに彼女の進むスピードがさっきと違う。まるでスキップでもしてるかのように意気揚々と進んでいた。無表情だった顔は常に微笑んだやさしい顔になっていて、歩んでいる道筋にも迷いが無かった。

「狸さん」

 彼女が声をかけてきた。

「お名前教えて」

「名前?」

「そう、聞いてなかったでしょ?」

 いままでそんなこと全く聞いてこなかったので少々戸惑ったが、僕は答えた。

「・・・そうだな。アシノでいい」

「アシノ?それがあなたの名前なの?」

「他の狸にもそう呼ばれてるから」

 それから、さっきと立場が逆転したように彼女は僕のこといろいろ聞いてきた。故郷のこと、親のこと、これまでやってきた人間に対するイタズラ。無論僕は記憶喪失にはなってないのですんなり答えてやった。

 彼女はそれを聞いて笑ったり、度が過ぎる感じたイタズラに関しては怒ったりしていた。さっきまでの近寄りがたい雰囲気は完全になくなっていた。

 真っ暗になった町をすり抜けて、彼女は川に突き当たった。金網に遮られて、僕らが立っているコンクリートの下に流れている。

 僕らと同じように一軒の古そうな木造アパートが見下ろすように建っていた。

 それを見て棒立ちになっている彼女を見て、僕はゴールに辿り着いたと感じた。

「行くのか」

 僕がそう言うと

「うん」

 そう言った。

 笑っていた。しかし本当の感情はどこにあるんだろうと考えた。本当に嬉しいと思っているのだろうか。

 そんな僕を他所に彼女は川とは反対に伸びている階段を登った。二階に上がると扉が四つ並んでいて、自転車や何らかの鉢のようなものなどが物置のように雑然と置かれていた。手前から一つ目、二つ目、三つ目の扉を通りすぎ、四つ目、奥から二つめの扉で止まった。

 『古神』表札にはそう書いてあった

「ここか」

 僕が言うと

「ここ」

 彼女がドアノブを握ると、がちゃ、という鍵が開くような音が聞こえた。僕は驚いたが、何事もなかったかのようにそのまま入って行った。

 部屋に入ると、最初に漂ってきたのはとんでもない異臭、というか酒の臭いだ。玄関から伸びる廊下にはごみの袋と思われるものが二つ三つ置いてあった。おそらくごみの臭いも混ざっている。

 廊下の電気は消えていたが、扉から漏れる居間からの明かりは漏れていた。テレビの音も聞こえる。人がいる。生気がある。

 彼女は廊下のごみや物を避けて、居間の扉に触れた。テレビの音が大きくなった。ドアノブをまわして、中が見えてくる。

 たくさんの酒瓶と缶、弁当の食い散らかし、ティッシュのようなもの、その他雑誌やよくわからないものが散乱していた。部屋の一番奥には流れっぱなしのテレビが何かの映像を映していた。

 その真ん中にコタツがあって、ひとり、赤ら顔の男がそこで寝ていた。

 コタツの上も、ふたの開いた缶ビールだらけで、一本が横になって中身がこぼれていたさっきまで飲んでいたようだ。

 ひげも剃っていない不健康な顔つきをしていたが、ちゃんとすれば整っているといってもいいような顔つきをしていた。汚れた灰色のパーカーを着ている。

 どことなく、顔の造りが誰かに似ている、そんな気がした。

 さくらはその男に近づいた。

 しゃがんで、肩を揺さぶると、唸って、それを払いのけた。しかし

「ねぇ」

 さくらが一言そう言うと、魔法にでもかかったようにまぶたが、ぱちっ、と開いた。

 黒い瞳がこっちに向くと、最初は寝ぼけていたが、だんだん正気に戻ると同時に見開いていき、自分の部屋に何者かがいることを認識し始めると、コタツから飛び出てカーテンで隠れている窓のほうに飛び込んで言った。

「な、な、なんでお前が!?」

 目は完全に血走って、まさに怖がっている人間の顔をしていた。それに、彼は彼女を知っているようだ。間違いない、こいつが『彼』ヒロくんだ。

「会いたかった」

 さくらが答え、ゆっくり近づく。奇妙な肌寒さがこの部屋を包んでいる。一歩足を踏み出すたびに、周りの気温が下がっているようだ。

「お前」

 恐怖で顔が引きつり、上ずった声でひろくんは叫んだ。

「刺した傷はどうした。どうやってあんな山奥から出て来れたんだ。お前、お前、なんで・・・」

 目の前の光景が信じられないように興奮して、いろいろ喚いていたが、突然落ち着いたように肩を落とした。

 いや、本当の意味で正気を取り戻したと言うべきか。

「お前、さくらじゃないな。誰だ」

 寒くなる部屋の中で息を白くしながら、彼は言った。

「確かに、似ている。そっくりだ。でも違う。お前はさくらじゃない。誰だお前は」

 彼女は静かに答えた。

「『さくら』は私のおかあさん」

 彼女は笑っていた。

「生まれてきたの。さっき」

 それを聞いた男は、酔いも一瞬で冷めたように、顔も真っ白にして顔を横に振った。

「嘘だ」

「本当よ。おとうさんにね、会いにきたの」

「だから腹を刺したんだ」

 男は静かに語った。

「子供が出来たとか言いやがるから、子供のために別れるとか言いやがるから、だから腹を刺して、山に埋めた」

「知ってる」

 彼女は静かに近づいた。

 この世のものとは思えないほどの冷たさが、彼女から伝わってくる。

「中から全部見てたもの」

 冷たい。寒い。まるで雪山にいるようだ。これは耐えられない。

 思わず僕は変化を解いた。元の狸に戻ったが、それでも寒い。部屋中全て冷蔵庫になったようだ。僕が離れても彼女は全く動じることはなく、彼のほうを見ていた。

 もうここにいられないほど寒い。僕は一時的に人間の姿になって、扉をこじ開けた。

 背中から男の叫び声が聞こえたような気がしたが、振り向く余裕もなく、僕は外に出て、扉を閉めた。

 外に出ると雪が降っていた。

 小さな粒が風に流されながら地面に落ちていたが、この程度じゃ積もることはないだろうし、今の部屋に比べたら、外のほうがむしろ暖かいくらいだと思った。

 それから確か、雪の降る景色を見ながら、三十分くらい彼女が出てくるのを待っただろうか。

 それでも出てくる様子が一向にないので、僕は意を決してもう一度中に入ってみることにした。あの極寒の中に再び入るのはなんとなく気が引けたが、ここでずっと待っているわけにもいかない。

 入ろうと、伸ばした手がドアノブに触れた瞬間、驚いてすぐに手を引いた。

 冷たすぎて、触れなかったからだ。

 外の気温で冷えたとかそんな程度の話じゃない。一瞬で火傷のような痛みを指に感じて身の危険を感じたのだ。

 入れない。そう思っていると

「ありがとう。アシノさん」

 彼女のそんな声が背中から聞こえた気がした。

 後ろを振り返ると、もう雪は止んでいた。

 もうどれだけ前の話だったか、遠い昔でもないはずなのに、異様に懐かしく感じる。

 それから彼女がどうなったか、僕は知らない。その時点で終わったと判断して、僕はその場から去ったからだ。五時間歩いて帰るのも億劫だった僕は元の住処にも帰らず、別の場所を転々としながら、今現在、人の姿を借りて現在にいたる。

 そしていま僕は、まるで人間のように、パソコンにこうやって文字を打っている。

 なのであのあと、男がどうなったかも、僕は何も知らない。詳しく調べてみようとも今のところ思ってない。なんとなく、この思い出ではこのままで頭にしまっておきたかった。

 生まれてきた。

 そう言っていた彼女と、初めてあった場面を思い出す。

 彼女の纏っていた血は誰の血だったか。

 まるで赤ん坊のように這ってきた彼女はどこから来たのか。

 あの茂みの奥には何が・・・。

 いや、それ以上を考えるのは野暮か。

 彼女の本当の名前、聞いておけばよかったな。

 ふと窓を見ると、白い綿毛のようなものが見えた。

 なぜかわからないが一瞬、それは桜の花びらのように見えた。しかしすぐさま頭の中でかぶりを振った。時期的に桜が咲くにはまだ早い。

 雪だ。そう思って窓の傍に立つ。

 桜の花びらのように彷徨っていたが、コンクリートに落ちると、それは一瞬で溶けた。

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