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オリジナル 2021-04-26 この作品を通報する
氏原ソウ 2021-04-26 オリジナル 作品を通報する

プシュケーの墜落 | 花のよりしろ

魔力をもって現れる、子供の姿をした幻想の物語。 ___________ 投稿のテストを兼ねて、短編小説をアップしてみます。 変わった雰囲気のお話ですが、楽しんでいただけたら嬉しいです。 (追記:投...

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花のよりしろ

___ 彼の背中には、あわく輝く蝶の羽がついていた。 光が透けてしまうほど薄いが、ぴんと張っていて、はためくたび真珠のように青や紫に光るそれは大きくて形もすこぶる良く、縁から根元にかけては絵筆を滑らかに掃いたような黒い模様がかかる。精巧なガラス細工を思わせるその羽は、他の子供たちのものよりずっと美しかった。 そして彼は、自分がとても美しいことをよく知っている。 少なくとも、子供というのはどんな人間でも自分にどこか理由の無い自信を持っているものだ。自分の持つ膨大な可能性を自分で把握しきれず、そして目の前にはさらに大きな、得体の知れない未来がかすかに見えているのだから。 しかし彼の自信はそういう類のものではなく、客観的な判断からもたらされた謙虚な自己認識でしかなかった。少年とも少女ともつかない顔立ちは隙が無く、かすかに濡れている長い睫毛に包まれた目は大きく、澄んではっきりとしていた。まっすぐに白い頬へかかる髪は細く柔らかく、歩くたび揺れてみずみずしく光を湛えるので、彼はどんな時でも人々の目を惹きつけた。絵画のようなその姿はろくな躾もされていないのに優雅に見え、人々は彼が男の子なのか女の子なのかも分からないままその美しさに見とれた。実際のところ、彼の母親でさえ彼の性別を知ることはなかった。 もっとも、羽を持ったこの街の子供たちが美しいのは彼に限った話ではない。子供たちはみな美しいものだ。人々は彼らが実は悪魔なのではないか、あるいは天使なのではないかと疑ったが、それを認めるわけにもいかなかった。なぜなら、大人たちもまたかつては子供であり、彼らと同じように立派な羽を持っていたからだ。 大人たちは、自分がいつ、その大きな羽を無くしてしまったのかをはっきり覚えていないことがほとんどだった。子供の頃はあって当然だと思っていて、このまま一生この大きくて煩わしい羽と一緒に生きていくのだろうと思っていたものが、ある時気がつくと無くなってしまうのだという。 ある少女は、恋の成就とともに羽が地面に落ちて、そのまま溶けてしまうのを見た。しかしもちろん、それを誰にも言うことはしなかった。相手の男性にさえそのことを打ち明けないまま、彼女は数日後に街の桟橋から川底へ飛び降りてしまった。 人々が羽を持った子供たちを悪魔だと疑い、適当に彼らの相手をしながらも恐れているのは、こういう子供がみな、ある種の魔力を持っているためだった。 子供たちはその美貌に加え、人々を誘惑するのに長けていた。まるで花の蜜に吸い寄せられる小さな虫たちのように、人は気を抜くと子供たちの言いなりになってしまう。子供たちはよく大人をからかおうとして、普段は小さくたたんで隠している羽を肩の後ろにちらつかせ、その青や紫の輝きを見せてやろうとする。すると大人たちは慌てて目を逸らし、走って逃げていってしまうのだ。 大人たち自身も、なぜ自分がこれほどあの羽に惹きつけられてしまうのか理解出来なかった。それはもう、ただ本能のせいとしか言うことが出来なかった。とにかくあの羽を見ているだけで、自分はもう子供たちの言いなりになるしかないのだと思わされてしまう。 だから子供たちは、大人の社会には滅多に混ぜてもらえなかった。 大人たちのうちでも鈍感で羽を見ることが出来ない者と、そもそもその羽のことを信じていない科学者だけが教師になり、子供たちを監視する役目についた。彼らは子供を特に嫌い、また理解することが全く出来ないために子供たちを傷つけた。あるいは、自分の力で誘惑することが出来ないこの教師という人種に興味を持ち、逆に惹きつけられる子供もいた。 とにかく、そんな子供たちの中でも彼はとびぬけて美しかった。 ある時、子供たちが集まって自分たちの羽をお互いに見せ合っていると、そこにたまたま彼が通りがかった。仲間が彼に声をかけ、彼に羽を思い切り広げるよう言った。滅多に大人の来ない森の中だったので、彼は力を抜いて、いつも小さく小さく縮こませていた羽を、花のようにゆっくりと展開させていった。 羽はぐんぐんと伸びていき、彼らの立つ広場を抜け空へ向かって広がる。街では、オーロラのように空に輝く彼の羽を見た人間が何人か居た。彼らはそれから数日間、酷い者だと三週間ほど、熱に浮かされた恍惚とした表情のまま暮らすことになってしまった。 それで、普段は負けず嫌いな子供たちも、彼にだけは敵うはずがないと確信したのだった。 彼はまた他の子供たちと同じように、大人をからかって遊ぶのが大好きで、あるとき彼は周りの子供たちと一緒になって、どれだけ大人を誘惑することができるか競って遊んだことがあった。 「四人よ。男が三人と、女が一人」 ある知的な少女がそう言い、翠色の羽をはためかせ誇らしげに胸を張った。大人たちがだんだんと通りを歩き始める夕方の街へ出て、寮の門限までの二時間のうちに何人の大人を捕まえられるか数えるのだ。 いつもなら、みな多くても三人ほどを捕まえる中、四人を捕まえたその少女は自分の勝ちを疑っていなかったが、少し遅れて彼がやって来たのを見て青ざめた。周りの子供たちは期待に満ちた目で彼のもとに駆け寄り、結果を尋ねる。 「おれは」、小鳥の歌うような声で彼は言った、(性別の分からない彼のことを、みなが男だと認識している理由はこの一人称にある)「十九人だったよ」。この記録はそれからも永遠に破られることはなかったし、周りの子供たちも彼を誘うことはしなくなった。 そんな彼がある時、夜の寮を抜け出して外に出る機会を得た。担任教師から用事を頼まれて、特別にこの数時間の間だけ外に出る許可を得たのだった。このような処置それ自体は珍しいことでもなかった。月に何人か、学校の中でも特に優秀で大人しいと認められた子供がこういう許可を貰うことが出来た。適度な褒賞を送ることは、いつの時代でも子供を手懐ける一番の技術だからだ。 彼の学業の成績はそうした優秀な生徒たちにも劣ってはいなかったが、やはり彼のその目立ちすぎる美貌や華奢な体躯、そしてあの大きな羽のことを考えると、とても大勢の大人で溢れる夜の街へ放つようなことは出来なかった。それを不憫に思った教師の一人が、こっそりと裏門を開け、彼を寮の外に出してやった。 それもまた彼の策略だった。彼はこの女性教師に気に入られるためにとにかく優秀で不憫な子供の役を演じた。教師に羽の魔力が通じなくとも、彼の美しい身体と滑らかな声は彼女の同情を惹きつけるに充分だった。この女は教師という役柄上、男性には疎いほうだった。自分の持って生まれた才能のために幽閉される悲劇の美少年、という筋書きに女はすぐ酔わされた。 自分の美を知り尽くしている彼にしては慎重すぎる計画だったが、そこまでしてようやく彼は、夜の街を見物する手立てを得るに至った。 さて灰色のケープをかぶり顔を隠して通りへ出た彼は、まずその大人たちの数に驚かずにはいられなかった。自分が知っている街といえば、焼けるような橙色に染まり、見渡すと通りの隅を大人が一人か二人歩き、自分を見ると逃げ出してしまうような場所でしかなかった。今の街は、目まぐるしく点滅するネオンで輝き、細い裏道の奥まで数えきれないほどの大人でいっぱいだった。 (こんなところで、おれの羽を広げてみたらどうなっちゃうんだろう?) 彼は白い人差し指を唇に当てて想像した。いつも自分のことを閉じ込めている教師たちには辟易していたが、ここで彼に羽の魔力を使われる危険を考えればそれも当然のことだった。 彼は、今のところは欲望を抑えたまま、露店で花の髪飾りを買った。今この街に子供が居るなどと知られてはいけない。彼は女性として振る舞うことにした。目立たない白い桜の髪飾りが彼を女にした。 担任教師からは、一晩で使うには多すぎる金額を貰っていた。駄賃ということになっているが、これで少しでも羽を伸ばして来いということなのだろう。もっとも、本当に羽を伸ばすわけにはいかない。彼の大きな羽はいま幾重にも畳まれ、小さな背中に押し込まれていた。 彼は適当な店を選ぶと、緑色のペンキで塗られた扉を開いた。来客を示す鈴が鳴ると、賑わう店内の客たちがみな彼のほうを見た。その一瞬の視線の動きだけで彼は、ここにいる全ての人間が自分に好意を寄せたことを確認して、会釈とともに微笑む。 立ち止まって少しだけ辺りを見渡すと、彼はカウンター席の真ん中のあたりに座った。椅子が高いので、身長の低さから正体を暴かれる危険が無いと思ったのだ。 ビリヤードの球が打ち合わされる音が木製の壁によく響く。それから、グラスの中の氷が涼しげに音楽を奏でていて、心地が良かった。そして何より、ほうぼうから聞こえてくる男や女たちの喧騒。すべてが初めての体験だった。 彼は酒の名前など一つも知らなかったが、近くの席に一人で座っていた女に目線を送ると、彼女はすぐに自分の料理を持って隣へ来た。 「ここは初めて?」 「そうなの」 女は正面の店員に向かって彼の分の注文をしてくれた。この女を選んだのは、女性同士なら警戒もせずこちらへ来てくれるだろうという計算だった。 グラスの中で翠色から金色へ移り変わるその液体を、彼は恐る恐る口にした。グラスは冷たく、流れる水滴がたなごころから腕を走っていった。 酒が入ると彼の頬は赤みが差し、目は潤んで柔らかみを増した。羽を持つ子供はみな感受性が強く、眩惑に弱い。自分たちが簡単に人を惑わすように、惑わされることを楽しむのも得意だった。 彼は全身に熱を得て、溢れる香りを振り撒き始めた。背中に小さくたたんだ羽が疼き、指先の動き一つにも、ある種の力が働くのを抑えきれない。 すぐに周りの人間たちが近づいて、彼にゲームの誘いを申し込んだ。 「ねえ、私したことないの。教えてもらえる?」 何人かの集団がすぐに彼を台へ導き、キューを持たせる。 ゲームのあいだじゅう、男たちが代わる代わる、彼に手を重ねて指南をした。小さな身体に覆い被さるようにして男の身体が動くのを感じる。背中の羽は人間の熱に敏感だった。ぴったり触れると、男の中から沸き上がる熱い感情を羽は精細に読み取っていく。 彼は思い出す­——学校のある男女が、放課後に泉のほとりで背中合わせになり、互いの羽をふれ合わせているのを見たことがあった。滅多に子供もやってこない、荒れ果てた場所だった。傍らには崩れた鉄骨や色褪せて植物の絡む廃車が棄てられていて、その上に座って、二人は触れあっている。雨の上がった日の午後で、あたりの植物が瑞々しく雨粒を弾いていた。 もともと、一人でこの泉に来て時間を潰すことの多い彼は、急に現れた二人のことを陰で眺めていることが何度もあった。二人は普段ほかの子供とほとんど話もしないので、彼だけが二人の関係を知っていた。 誘惑に長けた彼も、子供同士の恋愛には人並みに興味があった。大人たちの恋よりもそれは美しく複雑なものに感じられる。そこには現実味が無く、理想と純潔だけで成り立つ関係性があった。雨上がりの香りに混じって、二人のあいだに絡み付くひとつの熱を、彼は自分の羽で感じ取っていた。そうして彼は二人の強い結びつきに共感を得た。その時に彼は初めて恋愛を知ったのだった。 あるとき二人はとうとう正面から身を寄せ合った——彼はその時すでに見飽きていた。女の声には媚びがあり、男の手には躊躇いがあったからだ。 それから二人の羽がどうなったのか彼は知らない。 その時のものに似た熱を男の中に感じながら、彼はすぐに夜街の楽しみ方を知った。一ゲームが終わると今度は別の集団に誘われ、彼は賑わう街を飛び回る。男たちはみなつまらない話をするが、遊び方と酒のことだけは何でも知っていた。 まわりの優等生たちが楽しげに話す夜の街を、いま自分が楽しんでいる感覚。彼は虜になった。 寮に戻っても、彼はそのまま夢の中で、あのきらびやかな電灯装飾と色とりどりのグラスを観た。 遠い恋人を思うのにも似た心持ちで、彼はあの日の続きを望むようになった。あの夜の終わりに、彼は何度も、このまま学校から逃げ出して生きていくことを考えた。羽を使えばきっと、どんな大人でも自分の言いなりに出来る。この街ひとつを丸ごと支配することさえ出来たかもしれない。それを思いとどまってこの寂しい教室に戻ってきたのは、やはり他の優等生たちが言っていた、あの恐ろしい噂話を思い出してしまったからだろう。 月に一度だけ街に出る許可を貰った子供が、そのまま逃げ出してしまったという話は過去に一度も無かった。 「成績の良い子が街に出して貰う習慣は、この学校に昔からあって、はじめは街に出たまま逃げちゃった子も居たんだって」 知的な少女は周りの子供たちを集めて、その噂話をした。彼女はこれまでに五回、夜の街を遊び歩いたことがある。普段は静かに本を読み、教師の言うこともよく聞いていたが、彼女の部屋には街から持ち込んだウィスキーの瓶と違法で手に入れたSSRIが隠してある。 「でも、逃げ出した子供はみんな、すぐに死んでしまうの。どうやってかは知らないけど、羽の力も効かない人たちに、もっとひどいところに連れていかれるのよ。そこではね、子供たちを生きたまま針で刺して、死なないように管理しながら壁に飾っているらしいの」 そんな噂のことなど誰も信じていないそぶりを見せていたが、いざ街を歩いてみると、急にその話を思い出して、逃げ出す気など起きなくなってしまった。子供にとって、得体の知れないものへの畏敬はとても強力なものだった。 この噂話は、教師たちがじっくりと根回しして広めたものに過ぎず、実際には逃げ出してしまった子供たちを捕まえることなど出来はしなかった。そうして逃げ出した子供たちはいつしか、誰にも気付かれないうちに羽を落とし大人になり、街の一部になった。 それで彼も結局、こうしてつまらない生活のなかに戻っていった。もう当分は夜の街に出られないだろう。そう思い、諦めようとすればするほど夜への思慕は強まっていき、十五日後の新月の夜、とうとう彼は逃げ出す覚悟を決めた。 逃げ出すこと自体は大した苦労も要らない。消灯の時間になってしまえば誰かが見回りに来ることは無いし、学校の敷地を取り囲む塀も、梯子を使えば乗り越えることができる。問題は帰りのことだった。外に出るのは簡単でも、一度出てしまった塀の内側に再び入る方法が無いので、ふつうは誰も夜中に抜け出すことはしないのだ。彼らの羽は飛ぶための力を持っていない。 しかし彼の発想はもっと大胆だった。このまま街へ出て、どこかの工夫(こうふ)を操り、つるはしで敷地の塀に穴を開けさせることを思いついた。 脱出のためにこういう知恵を回す子供は彼のほかに誰もいなかった。頭の回る子供はそこまでしなくとも教師の許可を貰って外に出ることは出来るし、それが出来ない子供はそもそも計画を立てるということをしなかったからだ。優秀ながら外に出してもらえない彼だけに、その計画を立てる事は容易かった。 その夜は、街に出ても遊びの誘惑は断ち切り、彼は三人の男を誘惑して工具を運ばせた。広大な学校の敷地の奥、あの寂れた泉の方角なら、どれだけ大きな音でも誰かに気づかれる事は無い。住宅地から離れていて街の住人に見つかる心配も無いし、塀の下部七十センチほどが生い茂る草木に隠れているので、ここに穴をあけても見つかる心配は無い。 作業はすぐに終わった。男がつるはしを数回振り下ろすと、煉瓦の塀は砂糖のように脆く崩れ去ってしまった。こんなに脆いものに自分が捕われていたのだと思うと、彼は少しだけ腹が立った。 羽を見せつけ、工夫たちに強く口止めをすると、その晩の彼はおとなしく寮の部屋に戻った。自由を得た彼は心地よい風を感じて眠った。 …………。 次の晩も月は見えず、照明の落とされた敷地内は薄い霧で覆われている。この日一日、期待に沸き立つ体を押さえて待ち続けた彼は駆け足に泉へ向かった。塀に開けた穴は彼がちょうど通り抜けられるだけの大きさに開いていて、外側には穴が隠れるように枯れ枝の束を寄せていた。 塀を抜けると彼は振り返る事もせず走り出した。髪にまた桜の髪飾りを付け、ケープのフードを深くかぶった。そのまま人の多いところに紛れ込んでしまえば、またあの夢のような世界に連れて行ってもらえた。 彼は適当な大人を捕まえて道の陰に連れて行くと、肩越しにちらりと羽の光沢を見せた。もう彼は夜の街での羽の使い方をわきまえていた。あまり見せすぎてはいけない。限りなく少しだけ、におわせるようにさりげなく。そうすれば、この誘惑の正体に近づこうとして大人たちはさらに近づいてくる。全部を見せてしまうよりこちらのほうが都合がいいのだ。これは繊細な駆け引きだった。見えないものこそが何よりも人を誘惑する事を彼はすぐに理解した。 彼はその力を使って夜の町を遊ぶ。 (世の中は真面目に生きている人には楽しめない、それに、力を持ってさえいればどんな悪事も正当化されるんだ。) 彼は今、夜の町を一人で歩いている。街の奥には人間を絡め取ろうとする、ネオンの触手が蠢いている。彼には壁中に絡み付くネオンサインがそういうふうに見えた。これが夜の商売なんだ、と彼は思った。触手の奥から、無数の目が人間たちを見つめている。人々はその柔らかい光に誘われる虫のように、触手に吸い込まれて搾取される。つまり大人たちの夜とはそういうものだった。ああいう、あからさまな罠に大人たちはよろこんで捕らわれていく。虫のように。 おれは違う、と彼は思った、おれはあんなものに捕まったりすることはない。搾取するのはおれのほうだ。誰もがおれの蜜に誘われて跪くんだ。彼は心のなかで、しまっておいた美しい羽をはためかせた。 やがて彼は細まった道の向こうに二つの人影を見つけた。そのうちの一つの顔を見て彼は驚いた。それは彼の兄だった。彼は自分の兄の姿をよく覚えている。学校に入れられる前は、二人でずっと一緒に暮らしていたからだ。 兄は、彼が生まれたときにはすでに大人になっていて、彼は兄の羽を見た事が無い。兄は、彼が美しく成長するにつれ次第に口をきかなくなった。そして小さかった背中の羽が大きく広がっていくのを見つけると、その付け根に枷を嵌め(こうすると羽を小さく畳めなくなるのだ)、両の手首を頭の上で縛ると天井に吊るした。彼は部屋のベッドの上に膝をついて、身動きが取れないまま毎日を過ごした。 二人の両親は彼の背中の羽を見たくないがために、兄に家事の全てを任せ遊んで暮らしていた。面倒ごとを押し付けられたことがこの美しい弟への暴力へ繋がっていったのだった。 「お前は怪物なんだ。だって、こんなに大きい羽を持ってるやつなんか、おれは一度も見た事が無い」 兄はそう言って彼を罵った。それで彼は自分の羽の大きくなるのが嫌になったが、それでも成長は止まらず、羽はいつまでも成長を続けた。兄はいつしかその羽に触れ恍惚を覚えたのだった。 その兄がいま、彼の前を歩いていた。傍らには女を連れていて、きっとこの女は娼婦なのだろうと、はじめ彼は思った。単に、彼自身がそうであれば良いと思ったからにすぎない。彼は顔を隠しながら、より二人に近づいていく。二人の会話を盗み聴きながら、内心は祈るような気分でいっぱいになる。 間違いなく、彼は焦っていた。そのわけは理解できないでいたが、幼少期のほとんどを一緒に暮らし、いつしか自分を見捨てた人間が今こうして平然と暮らし、しかも他の人間から幸福を手に入れていることを認められなかった。 二人は薄暗い光の漏れる店に入っていく。 そこで彼は、兄への仕返しを思いついた。その向かいの建物の屋上に上がり、彼は二人が出て来るのを待った。 ネオンの光は届かず、紺碧の夜空がよく見える開けた場所だった。少し寒い気がしたが、彼はみじろぎ一つせずに、二人がいま居るであろう暗い窓の向こう側を見ていた。よく磨かれたガラスが星明かりを反射して室内の様子は窺えない。 じっとりとした風が、ときおり彼の髪を靡かせた。 どれだけ時間が経ったかわからなくなる頃、やがて二人が姿を現す。女は先ほどよりもぴったりと兄に寄り添っていて、二人の間を流れる熱をまた彼は読み取った。それはいつか、彼が泉のほとりで感じたつまらない類の熱だった。 彼は二人の後を付け、やがて三叉路で分かれたのを見ると、この女に近づいて操り、先ほどの店まで連れて行った。 我に返ると女は、その狭い部屋のベッドの上に座らされていた。もちろん、ここまで連れてこられるまでの記憶は全くない。彼女は自分の恋人と歩き、道の途中で手を振って分かれて、それから気がつくとここに座っていたのだ。 彼女は慌ててあたりを見回す。部屋の奥を見ると、微かな光を受けて煌く鏡が見えた。そこに映っているものを、はじめ女は青い宝石だと思った。やがて目が慣れてくるにつれ、それが大きな美しい瞳だと気づいた時、そこにはケープのフードを下ろし、桜の髪飾りも取った、ただの子供の姿があった。 女はすぐに立ち上がり、扉のほうへ走り出した。扉へは彼女のほうが近い。彼は部屋の奥の鏡台の前に座っていて、女のほうには目も向けていなかった。今なら逃げられる、と思ったのだ。しかし彼は鏡越しにしっかりと女のことを監視していた。 彼は思い切り羽を展開する。部屋中に洪水のように広がる羽はすぐさま女の身体を包み込み、そのまま動けなくしてしまう。彼女の視界はオーロラのような色彩に埋め尽くされ輝いた。 彼はそのまま女を魅了し、精神を吸い上げた。 それからもたびたび彼は夜の街に出るようになった。出来ればもう一度兄の姿を見つけて、その表情がどれだけの不幸を湛えているか知りたくなったが、どれだけ街を歩いてもそれらしい人物は見つからなかった。もしかしたら、あの女のあとを追ってしまったのかも知れない。 しかしすぐに兄の事は忘れてしまった。それよりも彼はただ街の喧噪を楽しみたかったのだ。どれだけ歩いても、彼の知らないものがそこにはあった。小さな彼の体ではそのすべてを把握しきることが出来ない。街の一つ一つの道さえ覚えられないが、大人たちはみな彼を見ると親切にした。 彼はもはや、他人のことなど何も分からないまま誘惑だけに秀でている。彼には、街ですれ違い二度とは会うことのない他人にも、それぞれに長い人生があり、個人的な事情を抱えてこの街を歩いているということがまだ理解できていなかったのだ。彼はただ大人をひとつの総体として認識していた。 それはまた、かつて大人たちが子供を総体として認識し、一人一人の事情など鑑みていなかったために傷つけて来たのと何ら変わりはない。そして、そのような大人たちが自分で全く気がつかないうちに子供を傷つけていたように、彼もまた自分が知らない間に大人たちを傷つけていたことを知らなかった。 ある男は彼のために家を売った。ある女は彼のために夫を捨てた。彼のために争う人間たちも居たが、それらが報われる事は無く街はだんだんと荒れていくようになった。商人たちは仕事が減り生活に困窮した。 集団で彼に酔わされ仕事の出来なくなったとある工房が、街で唯一の革細工だったので、人々は革靴や鞄を手に入れる事が出来なくなっていた。そんなこと、もちろん彼は知らない。自分がどれだけこの街に悪い影響を与えてたのかを全く理解出来ないでいた。 これだけ広い街が、どうして自分一人のせいで崩れてしまう事があるだろう。自分がどれだけ街で遊んでいようが、街は自分とは無関係な場所だった。それは彼が、それまで全く社会と関わらせて貰えなかったからこそ現れた、子供にとっては当たり前の感覚だった。 彼はある店の遊びに飽きて、こっそりと裏口から抜け出してきた。いつもそうやって彼が抜け出してしまうことは知られていたので、待ち伏せすることは容易い。傍らの人影に気付く間もないまま、彼は頭を殴られて気絶する。 そしてまた目を開けると、やはりそこは今までと変わらない街路だった。ただ頭の後ろに鈍い痛みがある。その部分を撫でようとして、彼は両腕が押さえられているのに気がついた。この感触には覚えがある、と思い、やがてそれは、いつか兄に両手を縛られた時と同じ体制なのだと気がついて身震いした。 顔を上げると、見た事の無い服を着た男がそこに立っている。彼は本能的に恐怖を感じた。 ……声を上げても、周りを歩く人たちは助けてくれない。さっきまではあれほど彼のために尽くしていた大人たちが。 それも当然だった。男はこの閉鎖的で時代遅れな街に最近やってきた、新しい資本家の側近だった。街の大人たちが、今までにない莫大な利益と恐怖を持って現れたこの男に逆らえるはずが無い。 捕らえられ、羽をあらわにされた彼は必死に叫んでいるが、心は冷静だった。なぜなら、彼には自分が何か悪い事をしていたという自覚が全く無いのだ。誰も彼を叱る人間は居なかったのだから、彼は自分がどうしてこの男に捕われているのかさえ知る事が出来なかった。たまたま人間の部屋に入り込んだ蝶に、自分の罪が理解できるだろうか? それは不可能なはずだ。しかしそれでも、蝶はただ人間の都合で作られた法によって殺されることになる。そのとき蝶はただ、自分が何のために死ぬかも分からないまま死んでいく。 彼には悪いことをしている気など無くて、必ず自分は良い方へ導かれると確信しているのだ。だから恐怖はほとんどなかった。ただ体だけは震えてしまっていて、ひたすらに助けを求める声も意思とは無関係に発されているだけだった。自分がいま、どうしてこれほど恐怖を覚えているのかさえ、彼には分からない。 男は彼の背中の羽を見ても何の反応も示さなかった。男には羽が見えていなかった。 「街の奴らが何を言っているのか、おれにはわからないが、とにかく曖昧な、神秘のありがたがられる時代は終わりだ。 これからは理性の時代だ。街の奴らにはこれからもしっかり働いて、利益をあげて貰わなきゃいけない。 そうやって叫んでも、みんなお前を助けようなんて思わないぜ、迷惑してるからな。……もう逃げられないぞ。痛め付けてやる」 羽の力が通じないと分かっていても、彼の羽は自然にぐんぐん広がっていき、それは花のように街全体を覆ってしまうほどの大きさになった。街を歩いていた何千と言う数の人間たちが、みな一斉にその魔力に取り込まれてしまう。それでも男は気がついていなかった。 男は、気を失った彼を殴り続けた。周りの大人たちも止めることはなかった。みな、心のどこかでは理解していた。美しいものはいつか壊れなくてはいけないのだと。そして、いつか壊れてしまうからこそそれは美しかったのだと。 彼の羽は崩れ去り、この街のあらゆる場所に溶け込んでしまった。あとには香りだけが残った。彼の羽を見た誰もが生気を失っていた。 彼の亡骸はいつまで経っても腐る事が無く、呆然として使い物にならなくなった住人たちによって、ある植物園の庭に安置された。眠っているその顔に表情は無く、玉座に横たわる彼の周りには、今でも青い蝶たちが舞っている。    プシュケーの墜落

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